岡山県の小さな建設会社「小坂田建設」が注目されるワケ
株式会社小坂田建設は、1955年に岡山県の旧御津郡建部町(2007年1月に岡山市に編入)で創業した会社で、現社長の小坂田英明氏は三代目。
社員9名、役員3名、売上げ1億5000万円程度の小さな建設会社で、一見どこにでもあるような会社だが、その取り組みは、各方面から注目を集めている。
2013年度の国土交通白書で取り上げられたのをはじめ、小坂田建設はテレビ、新聞、経済誌などのメディアでもたびたび紹介され、小坂田社長自身、国土交通省中国地方整備局の職員研修で講師を務めたほか、建設、経営関係のセミナーなどにも登壇している。
小坂田建設の何が世間の耳目を集めるのか?小坂田社長自身のキャリアを含め、話を聞いてきた。
トンネル技術者として、全国の難施工現場を飛び回る日々

小坂田英明 株式会社小坂田建設代表取締役(工学修士・1級土木・造園・管工事施工管理技士・2級建築施工管理技士・測量士)
「もともと地元に帰る気はなかった」。小坂田社長は地元の岡山工業高校土木科を卒業後、福島県にある日本大学工学部に進学。大学院の2年間を経て日本基礎技術株式会社に就職する。法面工事などの基礎工事を専門とする会社で、主に大手ゼネコンの一次下請けなどを手がけていた会社だ。
東京本社勤務2年目のGW前、「名古屋のトンネルの件で4日間ほど行ってくれ」と指示があった。名古屋高速道路のトンネル工事の現場で、名古屋高速唯一のトンネルで、名古屋大学の横を通す難施工の現場だった。工事担当には、清水建設株式会社、株式会社大林組、大成建設株式会社などの大手ゼネコンがズラリ。当時、トンネル工事に関しては「書類を作っただけ」の素人同然。「トンネル用語すらろくに知らなかった」。「でも、4日間だけなら」と軽い気持ちで現場に乗り込んだところ、打ち合わせや資料づくり、試験施工などに追われ、滞在期間は8ヶ月に伸びた。
「相手は百戦錬磨の大手ゼネコンの課長連中。こっちは現場での打ち合わせの経験ぐらいしかない。怒られながら仕事をやった。日本基礎技術株式会社の現場所長はいたが、トンネル工事は特殊なので、補助工法の構造的な計算、見積もりなど全部の仕事をやることに。とにかく必死だった。その分、非常に勉強になった」。この経験が、トンネル技術者として踏み出した記念すべき第一歩なった。これ以降の2年間、北海道、東北、関東、北陸、関西などのトンネル工事現場を飛び回る日々を送ることになる。
「東京本社での仕事は、スケールも大きいし、日本初の仕事などもあって、非常に楽しかった」。数多くの現場を経験したが、切羽崩落や沈下の危険性のある難施工の現場に呼ばれることが多かった。難しい工事だからこそ、問題の解決に取り組むことに、やりがいが感じられた。さまざまな現場に携わる中で、大手ゼネコンの技術者との信頼関係も築いていく。トンネル技術者として、順調にキャリアを重ねた期間だった。
「都会の技術屋」から「田舎の施工屋」への転身
東京でトンネルの仕事に没頭していた頃、父親から「岡山に帰って来ないか」と連絡が入る。「家業である小坂田建設を手伝え」というのだ。東京での仕事がとにかく楽しかったので、「田舎に帰るのは正直ためらいがあった」。ただ、跡継ぎがいないと、今いる社員は路頭に迷う。「ちょうど子どもが生まれる時期でもあった」ので、日本基礎技術を退職。「都会の技術屋」から「田舎の施工屋」への転身を受け入れる。2001年10月、28歳のときの決断だった。
岡山に戻ってみると、カルチャーショックの連続。「東京では、CADでの図面作成が当たり前だったが、小坂田建設ではいまだ手書き。自治体の職員と話をしても、技術者としてはレベルの低い話ばかり」だった。
仕事のスケール感も全然違った。受注する仕事も、東京では数億~数十億円規模だったが、岡山では1,000万円にも満たない仕事しかない。折しも、公共工事が減り始めた時期でもあり、「ここでやっていけるんだろうか」という不安は隠せなかった。いろいろな思いが頭を駆け巡る中、淡々と田舎の現場仕事をこなす日々が続いた。

小坂田建設が経営危機に陥った経緯を淡々と説明する小坂田社長

小坂田建設の経営状況の推移 (株式会社小坂田建設プレゼン資料より)