トンネル落盤事故に遭遇して土木業を辞めた
土木学会若手パワーアップ小委員会の連載企画「土木辞めた人、戻ってきた人インタビュー」。第4回目は、ホテルマン兼ライターのオダシズオさんです。
オダシズオさんは、20代で知り合った友人からの誘いで建設会社に就職しましたが、あるトンネル工事で落盤事故に遭遇したのをきっかけに、土木業界を去りました。
小説新人賞の受賞歴もあるというオダさんに、土木業界に対する想いを聞いてきました。
親父も土木の一人親方だった
――土木を志したきっかけは何ですか?
オダ 「蛙の子は蛙」という表現が正しいのかもしれません。うちの親父は土木系の一人親方をしていました。そのせいか、私がちいさい頃から学校が休みの日に手伝いをさせられていました。小学校が休みだと、家のリフォームや庭のリノベーションによく駆り出されたのを覚えています。
多いときには、遊び盛りの小学生の夏休みをまるっと1ヶ月つぶされた苦い思い出もあります。家の大黒柱の親父の命令は絶対でしたから。それから中学生くらいまでは親父の手伝いをしていましたが、青春の濃い時期はなにかと理由をつけて親父の手伝いを拒否するようになりました。いわゆる親への反抗期です。中学生のときは反抗期で親父の事を自慢だと微塵も思いませんでしたが、社会人になってから親父の凄さ、自慢の親父だったと思うようになりました。単純に私はデキの悪い息子だったのでしょう。
――どんなお父さんでしたか?
オダ 小学生の時は門限があり、17時までに帰宅しないと親父からカミナリを落とされます。とはいっても、遊び盛りの子供は誘惑に弱いもので、門限を過ぎても親父が乗っていたバイクの音が聞こえるまで、近所の公園で友達と遊んでいました。友達は私が帰っても遊んでいたので、なぜ私だけ門限があるのかと不満でした。
――お母様やご家族は、お父様のお仕事についてどう伝えていましたか?
オダ 親父は家では仕事の話はほとんどしなかったですね。おかんも親父の仕事についてなにも言いませんでした。私の家は6人家族で親父におかん、長男の私に、妹が3人いました。休みの日に家の手伝いに駆り出されるので、兄弟はどこの家族も同じような仕事をしているのだろうなと思っていたくらいです。