なぜ誰も手を挙げなかったのか?
ある地方で、某官公庁発注の業務で起きた珍事である。その業務には、私もメンバーとして関わっていた。
技術提案を公募して受注を希望する建設コンサルタントを受け付けていたのだが、公募期間が過ぎたのにただの一社も応募がなかった。
対象となる会社は20社を超えていたとのことであり、資料をダウンロードした会社も約20社。しかし、一社も参加表明をしなかった。さらに、再度公募をかけたのだが同じ結果となった。なぜ、誰も手を挙げなかったのか?
新領域で災害復旧でもあり、何をどこまでやればいいのかが全く見えない
それは、「ウチではできない」と捉えたからだった。その業務は設計や調査とは違う、新たな領域の業務だった。その類似業務の経験がある技術者は全国でも数が少なく、どんな成果をいつまでに出せばいいのか、どんな状態になればいいのか、が説明書を見てもまったくつかめないのである。
しかも状況が状況だった。新たな領域の業務であると同時に、災害復旧事業だったのだ。災害復旧なので、とにもかくにもスピードが要求される。当然、通常の業務よりもはるかにキツく、しんどくなることが予想された。
もう一つ、苛酷になるであろうと捉えた理由は、「何をどこまでやればいいのかが全く見えない」ことである。それまで誰もやったことがなかったことをやるので、何から手を付ければいいのか、何をすればいいのか、ゴールはどこか、がはっきりしないのだ。
目指す姿が見えていれば、そこに向けて頑張ろう!となるのだが、完成形が見えないまま取り組むのはとてもしんどいことである。
もちろん確実な業務遂行・安全施工が前提である。いったいどんなことになるのだろうか、どの会社もイメージがつかめなかっただろう。いくらの受注額になるのかも見当がつかなかったのではないか。当然、どのくらいの予算が必要になるのかも想像できなかったに違いない。工数も読めなかったのだから。
当たり前の日常だと思います。応札0で困るのは企画する部署。トップダウンで遠巻きなお願いはすると思いますが、監理する部署には関係ないので。発注者か監理者か分からないですが恐喝・恫喝に対しては会社がサポートする問題なので所長の裁量が足りないのでは?
災害復旧工事は、かなり過酷ですね~
まとも図面もなく直せ直せと急かせられ工期も短いし担当になれば休日返上の残業だらけになるからやりたくなですね。
少なくとも私がやってきた復旧工事は、あれもこれもと最後追加で予算をだすといいながらだせませんとか言われ結局赤字工事になってしまうので絶対やりたくないですね。
結果どこも手を挙げなく役所からやってくれと言われやって地獄をみる繰り返しです。
お願いするときは下から出て請けてくれたらお願いしていた時とは全く違うと。
人としてどうなんでしょうね。
国民性なのか、業種の問題なのか。
ちなみに私は現場監督ですが似たような状況(受注者がいないという点で)の市の発注を請けました。
最初の顔合わせで挨拶に伺った際発注元の課の職員が7名ほどいらしてお礼を言ってくれたし、現場が始まってからも担当の職員もとても協力的でした。
検査の際も検査官に対し担当者がしっかり対応してくれてまして、とても好感を持ちました。
まあ、何が正解かわかりませんがこれが普通だとは思いたくないし人にやられて嫌なことは他人に対してもやりたくないと思いましてコメント致しました。
古い話です昭和47年(1972年)6月 か7月頃か御殿場線 山北駅近くの鉄道僑が台風で流され 復旧作業は河原をブルで均し鉄骨やぐらを組み仮設橋と線路を作り列車運行目的作業中 また大雨が降り出し水面が見る見る上昇 作業用止水土手を超え我々を襲う気配で囲み始めた
危険だ止めようの声で重機など川の上部に移動を始めたとき
当時国鉄復旧工事所長・責任者の山北駅長さんが 悲痛な声で皆さん待って下さい 7月1日には1番列車を絶対開通せよの命令なんですと叫び 彼の頬は雨か涙か判らぬが泣いてるようだった。土砂降りの中 黙って立ちすくす 我々の誰かがやって遣ろうじゃねいか の一声で黙って作業続行した 駅長さんは号泣していたと思うが誰も正視する者は居なかった、別の話 横浜市は高低差が有り台風の度出水事故多発した 私の居た会社は東北出身者(殆ど農家の出稼ぎ労働者)が常時100人以上も飯場に滞在 真夜中の災害出動要請で私も 腰まで水に浸かり一般民家の家具運び作業などに駆り出された 地元業者は通勤者が殆どで夜中の緊急時に役立たないが私の会社は 新幹線工事で出張ってきた言わば新参者で有り 地元の指名業者の甘い利権享受の業者には(談合など当り前)には目障りであった思うが 度々の緊急要請に応えた実績なのか割と早く神奈川県と横浜市の指名権を獲得した 何が言いたいかですが
どの仕事も楽なものは無い しかし人に感謝され存在が認められること程嬉しいものは無い (今も 泣いて礼を言っていた山北駅長さんや 水中に浸かりながら家具を運び終え溢れんばかりの礼を言ってた主婦の方 長い陳情の末 位置指定が認められ予算が付き 砂利道舗装化工事中交代で我々作業員に茶菓を振舞ってくれた沿道の民家の方々は覚えている)
前述の私の会社はオイルショックで倒産その後
有為転変あったが 中卒ながら実務経験年数の受験資格で建築士免許を取り自分が図面を描いた客さんも第2世代に移りつつある 74歳現在孫は 来年は大学受験生です ご指名頂く仕事ならばまだ数年はやる 皆さん今の仕事が天職と思うと明日が明るく成りませんか。
ちょっと毛色は違うけども繁華街での工事、不調になる事3回
もう随契でお願いしますと頭を下げられて泣く泣く受注
発注者はそんな事を知らないのか知らぬふりなのか予想通りに地元対応で地獄を見た