神戸の新たな文化拠点
神戸市中央区、ウォーターフロントに位置する「こども本の森 神戸」は、世界的建築家・安藤忠雄氏による寄付によって2022年3月25日に開館した。この施設は、単なる図書館ではなく、子どもたちに本との出会いを提供し、震災の教訓を次世代に伝えることを目的とした「本のある文化施設」だ。
安藤氏の故郷である大阪の中之島、岩手の遠野に続き、3番目の「こども本の森」として誕生した神戸の施設は、建築と文化が融合したユニークな存在感を放つ。本記事では、その設立経緯、建築的特徴、運営の工夫、そして地域に与える影響について、紐解いていく。
安藤忠雄の思いと神戸との縁
安藤忠雄氏と神戸の縁は深い。安藤氏が駆け出しの建築家として活動を始めた1960年代、神戸には多くの商業施設や住宅を手掛けた足跡が残る。地元のパトロンに支えられ、若き日の安藤氏にとって神戸は特別な場所だった。また、兵庫県とのつながりも強く、代表作である「兵庫県立美術館」をはじめ、県内の大型プロジェクトに携わってきた。このような背景から、2019年9月、安藤氏から神戸市に「こども本の森」の寄付の提案が正式に持ち込まれた。
きっかけは、兵庫県の井戸敏三前知事との長年の交流だ。井戸氏は安藤氏の建築を高く評価し、県の施設を数多く依頼してきた。今回のプロジェクトも、県を通じた相談が神戸市長に直接つながり、具体化へと進んだ。安藤氏の提案は、単に建物を寄付するだけでなく、子どもたちに本を通じて「生きる力」を育む場を提供したいという強い信念に裏打ちされている。氏は自らの経験を振り返り、「20歳になってから本に出会い、人生が変わった」と語る。子どもたちが早い段階で本と向き合うことの重要性を、神戸の地で実現しようとしたのだ。
プロジェクトの軌跡 市民との協働
「こども本の森 神戸」の実現には、約3年にわたる準備期間が必要だった。2019年9月の安藤氏と神戸市長による共同会見を皮切りに、2020年4月には市民向けのパブリックコメントを募集し、施設の基本方針を策定。2020年9月に名称が決定し、11月に着工、2021年12月に工事が完了した。開館準備を経て、2022年3月25日にグランドオープンを迎えた。
この過程で際立ったのは、市民の積極的な参加だ。図書の寄贈キャンペーンでは、わずか2カ月で2万冊以上の本が集まり、市民の熱意が施設の基盤を支えた。現在、約1万8千冊の蔵書のうち、5千冊が寄贈によるものだ。残りは神戸市が購入し、絵本を中心に芸術書や大人向けの書籍も含まれる。蔵書数は将来的に2万5千冊を目指す。
また、運営体制の構築にも専門家の知見が活かされた。2022年8月から有識者会議を開催し、本の選定や配置、イベント企画を検討。指定管理者には、図書館運営に実績のある図書館流通センター(TRC)、建築管理の長谷工コミュニティ、ブックディレクターの幅允孝氏が率いる個人事務所が選ばれた。このチームは、大阪の中之島の「こども本の森」と同じ顔ぶれであり、安藤氏のビジョンを忠実に反映する運営が期待されている。
安藤忠雄の作品としての存在感
「こども本の森 神戸」は、安藤忠雄の建築哲学を体現する作品だ。弓形のアーチ状の平面プランは、中之島の施設と共通するが、細部には神戸独自の工夫が施されている。特に、公園に面した大きなガラス面は、神戸市側の提案により採用された。自然光が差し込む明るい空間は、子どもたちにとって親しみやすい環境を作り出す。一方、中之島の施設は壁面が多く、暗い空間でプロジェクションマッピングを活用した演出が特徴的だ。
安藤氏のデザインは、効率性よりも空間の「体験」を重視する。開放的な階段は、公共施設としては非効率的かもしれない。しかし、この非効率さが、訪れる者に独特の感動を与える。神戸市役所の担当者は、「この建物は美術品のようなもの。安藤作品としての価値を損なわないよう、通常の公共建築基準を押し付けない配慮をした」と語る。建築基準法を満たしつつ、作品としての純度を保つバランスが求められた。
施設の立地も、震災の記憶と深く結びついている。かつてこの場所には、巨大な噴水があり、市民の憩いの場だった。阪神・淡路大震災後、都市の再開発が進む中で、ウォーターフロントの再活性化が課題となっていた。安藤氏は、震災の教訓を伝える場として、この場所を選んだ。弓形の建物は、かつての噴水の形状を踏襲し、過去と未来をつなぐシンボルとして設計された。
本との出会いをデザインする
「こども本の森 神戸」は、従来の図書館とは異なる独自の運営方針を持つ。最大の特徴は、貸し出しを行わず、館内で本を読むことに特化している点だ。公園内の芝生で本を広げることも推奨され、子どもたちが自由に本と触れ合う空間が提供される。このスタイルは、中之島の施設から引き継がれたものだが、神戸では地元の素材を活かしたオリジナル家具が導入され、差別化が図られた。
椅子やテーブルには、六甲山の木材や神戸市内のクリエイターによるデザインが採用された。安藤氏が通常指定する家具ブランド(国内のカリモクやフィンランドのアルテック)からの逸脱は異例で、半年にわたる交渉の末に実現した。地元クリエイター集団がデザインを担当し、地域のアイデンティティを空間に刻み込んだ。
イベントも、本との出会いを促進する重要な要素だ。音楽や読み聞かせ、展示会を組み合わせた企画が定期的に開催され、特に未就学児から小学生をターゲットに、本への興味を喚起する。毎年1月には、震災関連イベントが行われ、施設の社会的役割を強調している。また、ブックディレクターが、絵本だけでなく芸術書や大人向けの書籍を選定し、幅広い層が楽しめる蔵書構成を構築している。
ウォーターフロントの再生
「こども本の森 神戸」の開館は、周辺地域に大きな変化をもたらした。かつて人通りが少なかったウォーターフロントエリアは、親子連れや観光客で賑わう場所に変貌。隣接するレストランでは、キッズメニューやランチ需要が増加し、予約制だった営業が平日自由開放に変わった。ベビーカーを押す家族の姿は、施設が地域のライフスタイルに溶け込んでいる証だ。
施設のインスタグラムでは、過去のイベントや展示の様子が公開され、訪れる人々の多様な楽しみ方が伝わる。建築学生や写真愛好家も訪れ、安藤氏の作品を目当てにカメラを構える姿が日常的だ。この建物は、単なる図書施設を超え、観光資源としても機能している。
本のチカラをどう届けるか
安藤氏のビジョンは明確だ。「本に出会うことで、子どもたちに生きる力を育んでほしい」。しかし、担当者は課題も認識している。「本好きな家庭はすでに来ている。問題は、本に触れる習慣のない子どもたちにどうアプローチするか」。統計によれば、本棚のない家庭が増加し、デジタルデバイスでの読書が主流になりつつある現代において、物理的な本との出会いをどうデザインするかがカギとなる。
その一環として、2023年度後半から幼稚園や小学校の団体受け入れを強化。学校との連携を通じて、本に馴染みのない子どもたちに施設を体験してもらおうとしている。また、イベントでは音楽やアートを活用し、本を「楽しいもの」として提示する工夫が続く。
神戸市は、施設を単なる文化資産ではなく、震災の教訓を伝え、地域の歴史や文化を次世代につなぐ場として位置づける。ウォーターフロントの立地を活かし、観光と教育のハブとしての役割も期待される。安藤氏の寄付による建物は、効率性や収益性を超えた「作品」としての価値を持ち、訪れる者に感動を与え続けるだろう。
安藤建築が紡ぐ物語 安藤独特の建築空間の空気感
「こども本の森 神戸」は、安藤忠雄の建築が持つ物語性を体現する施設だ。震災の記憶を背景に、子どもたちに本との出会いを提供し、地域の再生を促す。その存在感は、効率を追求する公共施設の枠を超え、美術品のような輝きを放つ。神戸市役所の担当者の言葉を借りれば、「この建物に入ると、独特の空気感にワクワクする。それが安藤作品のチカラだ」。
今後、施設がどう進化するかは、運営者と市民の協働にかかっている。本好きな子どもたちだけでなく、本に縁遠い家庭にも門戸を開き、多様なイベントを通じて文化の灯火をともし続けること。それが、「こども本の森 神戸」が目指す未来だ。安藤氏の寄付から始まったこの物語は、神戸の新たなシンボルとして、世代を超えて語り継がれるだろう。