「まるでバイオハザード」もう一つの“放射線施設”解体工事

恐怖を感じる放射線施設の解体工事

東日本大震災から間もない時期、私はある放射線施設の解体に従事した。

原発事故とは直接関係のない施設だったが、ちょうど放射線に関する過剰報道がされていた頃で、非常に恐怖を感じる現場だった。まるで自分が映画『バイオハザード』の世界に迷い込んだように感じた。

「もう5年以上使用してない!人体に影響はない!」と言われて参加したのだが、私や作業員たちは全員、白い防護服を着用し、マスクをして作業に当たった。

建物は渦巻状のRC造

その放射線施設の建物は、平面30m×30m、高さ8mほどのRC造。

建物内部に入ると、入口から通路が渦巻状に中心の部屋に向かい、通路の幅は1.2m。コンクリート壁の厚さは最低でも1mあり、2m近い箇所もある。

中心の部屋は約7m角で、放射物を置く専用の台が設けられており、その天井には重量物を搬入するための開口部があるのだが、鉛が仕込まれた鉄扉でふさがれていた。

そして壁には1ヶ所だけ、厚さ100m程の鉛入りガラスがはめ込まれた20cm角の覗き窓があった。

恐怖心を植え付けるような施設だ。


給排水管の汚染状態は大丈夫なのか?

解体作業前に、私を含めた現場監督や作業員全員に、入念な新規入場教育が行われた。

放射線の専門家を呼び、注意事項をかなり細かく指導され、胸には放射線に反応するバッジをつけるように義務付けられた。

「万が一にも、心配ないから!」と言われていたのだが、誰もが「じゃ、なんでこんな重装備をするんだ?」と思っていた。

当時のメディアによる連日連夜の原発事故に関する報道が、否が応でも恐怖心をあおった。

神経質になっていた私は「絶対あやしい!」と思い、上司に詰め寄って聞いてみたが、「建物そのものはおそらく、もう心配ない。ただ、躯体の中に埋め込まれた給排水管の中の水が汚染されてる可能性がある。しかし、その水も全て吸引したはずだし、何も問題はない」と言い切った。

【過酷】防護服とマスクを着用した工事

初めて経験した、防護服とマスクを着用したままの作業は、かなり過酷だった。

呼吸も苦しく、視界も遮られる。話が出来ないので、身振り手振り、場合によっては 紙に書いての筆談が必要だった。

しかも、分厚い手袋をしてるので、文字を書くこともままならない。

そうした状況の中で、お互いに胸に付けたバッジを確認し合いながら、壁の中の埋め込まれた鉄筋を外し、配管の撤去には細心の注意を払った。

防護服を着用した長時間の作業は、体力的に無理である。しかも、暑さが体力を奪った。

現場から出てきて、真っ先に防護服を脱ぎ、現場事務所で扇風機の風の当たった時の快感は、今でも忘れられない。

福島県の原発事故に対応する作業員たちをテレビで観ていたが、いかに過酷な作業なのか分かった気がした。


硬すぎるコンクリート。日本に数台の機械で、隣の建物越しに破砕作業

コンクリートは異常に硬く、周囲が狭かったため、重機の使用も限られた。ほとんどの作業が人力でのハツリ作業だった。

チッパー程度の機械では歯が立たず、コンプレッサーの圧を最大にしての削岩機も効果がない。最終的には、土木で使用するエンジン式削岩機を使った。

しかし、土木用のエンジン式削岩機は重量が重く、下向きならともかく、水平で使用するとなると、とても人間の力では支えきれるものではなかった。

そこで途中からは、日本に数台しかないと言う、アームの異常に長い破砕作業専用の機械に、特殊なアタッチメントを付け、隣の建物越しに破砕作業を行った。

隣の建物と言っても、同一敷地内であるから、窓の養生などを行い、スケジュールを提出しただけで、それからは解体作業の効率は随分良くなった。

解体ガラの厳重管理、15分置きに写真撮影

解体後は、ガラの搬出と、遠隔地の受け入れ先との煩雑な手続きに、かなり神経をすり減らした。

世間では原発事故に伴う風評被害も問題になっており、放射能汚染に神経質になってる時期だったので、受け入れ側からも、梱包方法から破砕したガラの寸法まで、随分細かい事を言われた。

特に困ったのが、窓にはめ込まれていた小さなガラスの処理だ。通常なら燃えないゴミで出せる程度の物なのだが、公共工事だったため規定の大きさまで細かく砕いて、厳重に何重にも専用の袋に入れて処理場まで運搬した。

しかも処理場まで、マニフェスト通りに追跡確認し、ちょっとでも道路にこぼしてはならない。15分置きに荷物を撮影するよう義務づけられた。

防護服をしない自由、除染・廃炉の従事者に感謝を

放射線施設の建物を解体した後は、その一帯を駐車場にする計画だった。

解体後の建築工事らしきものといえば、縁石設置と駐車ラインを引く程度の仕事しかなかったが、結局、胸に付けた放射線に反応するバッジは、一度も色は変わらず、工事は無事完了した。

始終、恐怖心と闘った現場だったが、今になって思えば、防護服をしないで工事に従事できる、という当たり前のことが、なんて自由で恵まれたことなのかと思う。

福島県では今も、大手ゼネコンを中心に、多くの方々が最前線で除染、廃炉作業、中間貯蔵施設の建設に当たっているようだが、すでに多くの人の記憶から消えかかっている。

私は直接、原発事故の処理に関わったわけではないが、彼らへの感謝を忘れてはいけないと思っている。

せめて、われわれ建設関係者だけでも、彼らのことは誉め称えていたいものだ。

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工学部建築学科卒業後、A建築設計事務所に入所。その後、自ら設計事務所を立ち上げるが、設計だけでは良い建築は出来ないと判断し、施工会社に入社。それ以後、現場中心の仕事している。 設計事務所時代から海外案件が多く、現在も海外の案件に関わる事が多い。地球の上を這いずり回っているという感アリ。設計と施工に関わる年数が半々。 海外の建築現場の実態を中心に経験談を共有します。
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