硬すぎるコンクリート。日本に数台の機械で、隣の建物越しに破砕作業
コンクリートは異常に硬く、周囲が狭かったため、重機の使用も限られた。ほとんどの作業が人力でのハツリ作業だった。
チッパー程度の機械では歯が立たず、コンプレッサーの圧を最大にしての削岩機も効果がない。最終的には、土木で使用するエンジン式削岩機を使った。
しかし、土木用のエンジン式削岩機は重量が重く、下向きならともかく、水平で使用するとなると、とても人間の力では支えきれるものではなかった。
そこで途中からは、日本に数台しかないと言う、アームの異常に長い破砕作業専用の機械に、特殊なアタッチメントを付け、隣の建物越しに破砕作業を行った。
隣の建物と言っても、同一敷地内であるから、窓の養生などを行い、スケジュールを提出しただけで、それからは解体作業の効率は随分良くなった。
解体ガラの厳重管理、15分置きに写真撮影
解体後は、ガラの搬出と、遠隔地の受け入れ先との煩雑な手続きに、かなり神経をすり減らした。
世間では原発事故に伴う風評被害も問題になっており、放射能汚染に神経質になってる時期だったので、受け入れ側からも、梱包方法から破砕したガラの寸法まで、随分細かい事を言われた。
特に困ったのが、窓にはめ込まれていた小さなガラスの処理だ。通常なら燃えないゴミで出せる程度の物なのだが、公共工事だったため規定の大きさまで細かく砕いて、厳重に何重にも専用の袋に入れて処理場まで運搬した。
しかも処理場まで、マニフェスト通りに追跡確認し、ちょっとでも道路にこぼしてはならない。15分置きに荷物を撮影するよう義務づけられた。
防護服をしない自由、除染・廃炉の従事者に感謝を
放射線施設の建物を解体した後は、その一帯を駐車場にする計画だった。
解体後の建築工事らしきものといえば、縁石設置と駐車ラインを引く程度の仕事しかなかったが、結局、胸に付けた放射線に反応するバッジは、一度も色は変わらず、工事は無事完了した。
始終、恐怖心と闘った現場だったが、今になって思えば、防護服をしないで工事に従事できる、という当たり前のことが、なんて自由で恵まれたことなのかと思う。
福島県では今も、大手ゼネコンを中心に、多くの方々が最前線で除染、廃炉作業、中間貯蔵施設の建設に当たっているようだが、すでに多くの人の記憶から消えかかっている。
私は直接、原発事故の処理に関わったわけではないが、彼らへの感謝を忘れてはいけないと思っている。
せめて、われわれ建設関係者だけでも、彼らのことは誉め称えていたいものだ。