“土木っぽくない男” 田沢誠也さんの生き様
田沢誠也さんは、以前掲載した鉄道版インフラドクターに関する記事で、首都高速道路株式会社の社員として登場してもらった。ところが、記事が出た直後の6月末、首都高速道路を退職。子会社の首都高技術株式会社(東京都港区)の取締役として、インフラドクターなどの開発営業に携わることになったと聞いた。
前回取材時から「土木っぽくない人だな」ということで、なんとなく好印象を持っていて、その生き様を知りたいと思っていたところだった。ということで、田沢さんのキャリアなど、いろいろ話を聞いてみた。
土木の人間は「ドロ臭い」
――なぜ土木の世界に?
田沢さん 私の実家は秋田で、農家をやっていました。私は長男だったこともあり、最初は農業高校に進んで、農家を継ごうかなと漠然と思っていました。ただ、農業で食っていくのはキビシイだろうなとも思っていました。高校に進学することになったときに、当時の高専は就職率100%だったし、「手に職がつけられるだろう」と考えて、一番生活に身近だった地元の高専の土木学科に入りました。それが土木の世界に入ったきっかけでした。
高専を卒業したら、地元のゼネコンか役所に入ろうと思っていたのですが、先輩から「高専から就職すると、給料は高卒並みで、仕事は大卒並み」という話を聞いて、「これはワリに合わないぞ」と考えるようになりました。ちょうどそのころ、高専生のための大学が豊橋と長岡にできました。
とりあえず、土木をやり始めたからには大学まで続けたいということで、豊橋にある大学に進学することにしました。土木に対してそれほど高い志があったわけではありませんが、身近で、幅広く、馴染みやすい分野だったので、大学で土木をやることにしたわけです。
――大学ではどのような研究を?
田沢さん 私が行った大学は、土木だけではなく、建築も学べる学部だったんです。土木を続けたいということで大学に進んだはずが、「建築ってカッコ良いな」と思ってしまったんです(笑)。それで建築の授業を受けていたのですが、建築の学生には「勝てない」と思って、やめたんです。
――勝てない?
田沢さん カッコ良いんですよ、彼らは(笑)。同じ短パンTシャツ姿でも、土木の学生とは雰囲気が違うんです。どこか芸術家なんです。例えば、土木の学生は、線をいかに細くするかとか、きっちりワクに収めることにこだわるところがありますが、建築の学生はそういうこだわりはなく、絵を描いたり、模型を作ったりするんです。頼まれてもいないのに。「え〜」と思いましたよね。
2年間建築の勉強をやって、「これはダメだ」ということになって、そこから再び土木に戻りました。研究室では土質で、土と地震と災害みたいなところをやりました。
――土木と建築は人間が違うんですねえ。
田沢さん 着ているものイッコイッコが、土木と建築の学生では違いました。パッと見たら、「あ、アイツ土木だ」とすぐわかります。土木はとにかくドロ臭いんですよ(笑)。
たまたまインターンで行った首都高にたまたま入社
――(笑)。就活はどんな感じでしたか?
田沢さん 私の大学では、学部でインターンに行くのが必須単位だったんです。2ヶ月間もインターンに行かなければなりませんでした。インターン先は勝手に割り当てられたのですが、それがたまたま首都高速道路公団だったんです。
当時の私は首都高について何も知らなかったのですが、インターンに行ってみると、お金はもらえるし、寮住まいで3食出るし、「こりゃいいな」と思いながら、インターンをしていました。それから大学院に行ってから、就活を始めました。行きたかった秋田県庁などは全部落ちましたが、首都高だけが合格を出していただきました。首都高に拾っていただいたという感じです。
――首都高でなにをやりたいというのはとくになかったのですか?
田沢さん そうですね。まず地元秋田に帰りたいと思っていましたね。地元の建設会社も受けたのですが、「大学院卒は来るな」という感じで、門前払いされました。「高校、高専卒なら採用するのに」と言われましたよ。変な感じだなと思いましたね。
――入社してどうでした?
田沢さん インターンのときとだいぶ雰囲気が違うなと思いましたね。インターンのときはみんな優しかったのですが、実際に入社すると、優しくなかったんですよ(笑)。
ハード系、ソフト系、海外系なんでもやった
――(笑)。首都高ではどのようなお仕事を?
田沢さん 最初は設計課というところに配属されて、橋やトンネルの設計の末端の仕事をしていました。次が、今で言うITS(高度道路交通システム)系に異動になって、ハード系からソフト系に仕事がガラリと変わりました。それが終わって、またハード系に戻って、羽田とか多摩川あたりの海底トンネル工事の現場監督をやった後、また設計に戻りました。
それから、フィリピンに行きました。フィリピン大学で交通工学や都市計画専門の大学院をつくるというプロジェクトにJICA専門家として、交通工学や環境工学を教えに行きました。交通工学や環境工学についてはあまり得意ではなかったのですが、「首都高が全面的にサポートするから大丈夫」ということで、行かせていただきました。
日本に帰ってからは、将来の交通量の推計とか、現場調査とか、山手トンネルの現場監督とかをやった後、国際企画課というところで、海外でのコンサルティング業務などを担当することになりました。そこから10年間、国内外のコンサルティング業務をやり続けました。
この間、バンコク駐在事務所の立ち上げなんかもやり、実際にバンコクに2年間単身赴任もしました。それやこれやを10年間連続でやらせていただき、今年6月に首都高を退職して、首都高技術に採用されました。
首都高グループの仕事は、大きく構造系と調査計画系、メンテナンス系の3つに分かれるのですが、私のキャリアは、この3つのどれにもはまらない感じです。振り返ってみると、とくに希望したわけではありませんが、新設の部署とか、やったことのない部署に行かされることが多かったですね。専門的なことができなかったという悔しさはありますけど、自分のキャラクターには合ったキャリアパスではあったと思っています。
――バンコクの駐在事務所の立ち上げは大変だったでしょう?
田沢さん メチャクチャ面倒くさかったですね(笑)。現地国のルール(法律)とかいろいろ勉強しながら、申請とか全部やりました。実は、同時期にインドネシアのジャカルタにも首都高の駐在員事務所を設立しましたので、2か国分の手続きを一緒にやっていたわけです。
「引き継ぎ」は意味がない
――嬉しかった仕事とかは?
田沢さん とにかく初めてやる仕事が多かったので、最初は不安やストレスしかなかったですね。ただ、すべてが初めてという状況から、自分なりに勉強して、成果を出せたときには、やりきった感を感じることはありましたね。前任者ができなかったことを、改善したり、誰もやったことがないことをやったりとか。
私の場合、後任者に引き継ぐことがないようにしているんです。引き継ぐものはないけども、成果はあるから、成果の説明をしていました。「引き継ぐモノがあるということは、やり残したモノがあるということ」なんです。本当はそれは意味がないことなんです。逆に自分が引き継ぐときは、メチャクチャ引き継ぎがあるんです。半日とかかかるんです。なので、引き継ぎを受けるときは、いつもイラついてましたね。
――(笑)。
田沢さん 引き継ぎをしたとしても、必ずしも仕事がうまく回るわけではないので、それだったら、成果をちゃんと説明するほうが良いんです。自分の成果というより、組織や部下の成果です。なので、私が仕事で嬉しいと思うのは、自分がマネジメントした組織がちゃんと成果を出したときですね。
やっと専門性を持って仕事に打ち込める
――首都高技術ではどのようなお仕事を?
田沢さん 首都高技術が持つ様々な技術などの外販事業と技術開発を担当しています。国内の仕事をドンドンとるということですね。首都高を辞める前は技術コンサルティングという仕事をしていたのですが、それと仕事の内容はほとんど変わっていません。やっと専門性を持って、仕事に打ち込めるかなと期待しているところです(笑)。
海外の仕事は少なくなりますが、売上げ的には国内が95%を占めているので。首都高グループでは、国内の売上を増やした後、海外に投資するというプランを持っています。その最前線で、営業と技術開発をするのが首都高技術での私の仕事です。
――なかなか面白そうな仕事ですね。
田沢さん そうですね。機動性(俊敏性)は良くなると思っています。
首都高ブランドを活かし、インフラを守る
――インフラドクターをどう展開したいですか?
田沢さん インフラドクター、つまり3D点群データは、いろいろな分野、いろいろな場面で展開していきたいと考えています。インフラドクターは、遠隔で作業できるので、新型コロナウイルス時代にも対応できます。新しいツールなどを乗っけていって、使い勝手が良くて、安くて、サクサク感があるシステムを目指しています。建設業界は、物事を堅苦しく考える傾向がありますが、そういう部分を除いたやり方ができればと考えているところです。
ターゲットは、基本的には全インフラです。インフラには様々ありますが、管理者が考えていること、頭を悩ませていることはだいたい同じです。インフラドクターによって、インフラ管理者が抱えるリスクを減らしていきたいです。インフラドクターは実際に首都高で使っている技術です。このブランド力を使えば、他のインフラの方々にもしっかり使ってもらえるものと確信しています。
首都高技術インフラドクター部のメンバーとスタンディングミーティングに臨む田沢さん(右から二人目)
3D点群技術は、携帯やスマホと一緒で、技術の入れ替わりが激しい分野ですが、われわれも日々改良改善を続け、「入れ替わる」ポジションをキープし続けていきたいと考えています。とはいえ、われわれはインフラ点検のマーケットを牛耳りたいとはまったく思っていません。寡占、独占は危険なことだからです。いろいろな技術がある中で、良い意味での競争をしていきたいと考えています。
――災害にも適用できそうですね。
田沢さん ダムや河川の堤体などのインフラの予防、予測などに使えると考えています。点群のセンサーで監視しておけば、躯体になんらかの変位が生じた場合は、異常を検知してアラートを出すことが可能です。災害後の現状把握にも使えるので、復旧作業のスピードアップにつながります。
あと、保険会社の災害査定にも活用できると考えています。災害が発生した際、保険会社の災害査定は人海戦術で行っているそうですが、非常に大変な作業です。これを点群データでやれば、家屋の倒壊状況などの調査を、確実かつ効率的に行うことができますので。
他人の役に立ってこそ、本当の喜びがある
――座右の銘が「己ばかり考える奴は、己をも滅ぼす、人を守ってこそ己が守られる」だそうですが。
田沢さん そうです。黒澤明の映画「七人の侍」の名セリフです。私はこの言葉を、「自分の成果はではなくても、他の人の仕事(チームとしての仕事)の成果が上がることを喜ぶことが大事だ」という意味に解釈しています。それができるチームが本当の「チーム」だと。
アメフトの名監督も「己を捨てられる選手がチームを勝利に導く」と同じようなことを言っています。「己を捨てる」と聞くと、「プライドも捨てるのか」と言う人がいますが、それは全然違います。
どんなに良いツールがあったとしても、自分たちのことだけを考えていると、先はありません。すぐに飽きられます。他人の役に立ってこそ、本当の喜びがあり、長く続いていくものなんです。そう簡単にできることではないですが。
――プライドではなく、エゴを捨てるということでしょうか。
田沢さん その通りです。プライドは持っておくべきですが、それを全面に出してはいけないということです。
――建設業界にメッセージがあれば。
田沢さん 建設業界というか、インフラ全般に携わる人々には、世界中で生活している人たちに寄り添うことが必要だと思っています。昔はインフラをつくることによって、人に寄り添ってきました。でも今は、インフラを守ることで人に寄り添う時代になっています。
確かに、モノをつくるのは楽しいことです。目に見える成果ですから。ただ、つくることだけがインフラの役割ではないということを多くの人が理解してくれることを期待しています。