旧友と5年ぶりの再会
私は今、北関東にある工業団地の中のプラント建設で、安全専任として関わっている。本職は、建築の設計や設計図面・施工図面の作成、現場管理などだが、直近1年ほどは安全専任の仕事をやっている。
年末年始は、絶対帰らねばならない用事があるわけでもなかったので、移動で感染するリスクなども考え、帰省しなかった。
なかなかこんな時間に余裕があることもないよなと思い、宿舎から200kmほど北に住んでる友人のHさんに会いに行くことにした。
震災から約10年
Hさんは、東北で生まれ育ち、今もその地で小さな工務店を営んでいる。人がドンドン居なくなる地域をなんとかしよう!と頑張ってるようだが、正直、状況は良くないらしい。
「それでも俺は諦めね~ぞ!」と、復興半ばの海岸線を見下ろせる高台で話をしてくれた。私がここに来るのは5年振りで、震災からは10年経つ。随分変わったところもあれば、全く手つかずの地域もある。
当時、私は関東北部の各種研究所が集まっている中央本部に勤めていた。地震が発生した当日は、午前中に竣工検査の書類確認を終え、現場を回るべき関係者たちと「さあ。どこから見ましょうか?」と、屋上で図面を広げて相談している時だった。
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。ドーン!と縦揺れが起こり、続いて横揺れが来て、その揺れがいつまでたっても止まらない。揺れが大きく、私含め関係者たちも立っていられず、床に這いつくばり周囲を見ていた。
建物の端のパラペットに手を掛け、すぐ横にそびえ立つ直径1m弱の大木がユサユサと左右に揺れ、目の前にあった高さ1.5mほどの室外機は、倒れんばかりに左右に振り子のように揺れているのを呆然と見ていた。
もう検査どころではなく、揺れが収まった時に研究所の全員が一番広い駐車場に集合し、各部署ごとに安否確認をしていたことはよく覚えている。
Hさんとの出会い
Hさんと知り合ったのも、この現場だった。Hさんは当時、研究所の本部の外壁改修工事を請け負ったゼネコンの現場代理人だった。
建物の老朽化に伴う躯体の傷みが、表面のタイルの至るところに影響し、タイルの落下が頻発。建物の補修とタイルの貼り替えをすることになり、総工費は約2億で工期が10カ月の大工事だった。
研究所だけに、中に入っている研究者たちは、自分たちの研究にどんな小さな影響も認めない!というような、ピリついた雰囲気だった。
24時間データを取り続ける必要があったり、研究室の前のバルコニーに試験用の生物を飼っていて、その生育に支障が出ると困るなど、工事説明時に苦情が殺到。その1つ1つを、Hさんと各研究室に行って詳しい話を聞いて回った。
どんなに配慮をしたとしても、100%研究者たちの希望を叶えるのは難しいと最初から分かっていたが、ここをないがしろにすると後で仕事がやりづらくなることは明白なので、研究者たちの話を聞いて回ることにしたのだ。
やっと1か月後、しぶしぶ研究者たちの了解をもらい工事を始めた。
しかし、人が中に居住してる建物の改修工事が一番難しいのは、工事関係者なら誰しも知っているだろう…。それはそれは神経が休まる間も無く、Hさんとも、工事に関して随分言い争いをしたりもした。
それでも、どうにか工事は終了。地震後の点検でも、建物外壁からタイルが崩落してる箇所は皆無だった。
この現場の後、私は海外の施工管理の仕事にかかりっきりになり、Hさんとも会うこともなかったが、メールのやり取りはそれ以降もずっと続き、現在に至る。
私からの連絡がしばらく途絶えると、必ずHさんのほうからメールが来て、随分と励まされた。私にはこれといった取り柄は特にないが、Hさんをはじめとする友人たちは私の財産だ。それは何ものにも代え難い。