修業期間に20年… 宮大工として働く難しさ
10年から20年の長い修業期間を経て、ようやく一人前の世界になる宮大工。その厳しさに挫折する人は多い。また、仕事の需給バランスから宮大工一本で食べていくことも難しく、今後の宮大工業界の存続は注目されるところだ。
今回取材した宮大工の相良昌義さんも、将来の宮大工業界を危惧する一人。京都で10年修行し、紆余曲折を経て独立。現在は千葉県・市川市の合同会社相良工務所の代表を務めている。
「徒弟制度独特の”しごき”はなくしたほうがいい」という思いのもと、宮大工の体験講座などを積極的に開催し、仕事の魅力を伝え続けている相良さんに、宮大工になるための修行内容や、独立後の仕事の受注方法など、宮大工業界のリアルを聞いた。
強い意志がないと、一人前の宮大工にはなれない
――そもそも、宮大工と一般大工の違いは?
相良昌義さん(以下、相良さん) 宮大工は、主に神社仏閣の建築や補修を手掛けますが、その他の点で言えば、根本的に修業期間が異なります。一般大工の修業期間は3~5年ですが、宮大工が棟梁まで上り詰めようとすれば、墨付け、刻み、カンナ掛け、彫刻、さしがね術などそれぞれの個別の作業を極めなければなりません。それに、積算もできなければならないので、10年から20年は掛かります。なので、とても根気が必要なんですよ。
――彫刻を覚えるだけでも大変そうですね。
相良さん 専門の彫刻屋がいるくらいですからね。私は21歳から宮大工の世界に入り、現在46歳になりますが、わき目もふらず、「宮大工一本で食べていく」という強い意志がないと、一人前にはなれません。
――”元・宮大工”の方も多いようですね。
相良さん ええ。というのも、正直なところ「宮大工一本」では収入面で相当厳しいんですよ。なので、独立せずに工務店に所属されている方も多いですね。
私自身は宮大工専業でやっていますが、その中では若いほうなので、この業界についていきながら、実績を積んでいるところです。
「奉公明けの解放感」が原動力に
――高校時代は普通科出身ですよね。宮大工になろうと考えたのはなぜ?
相良さん 父が大工だったので、その後ろ姿を見てきたことが大きいですね。高校時代は野球部の部長を務めていたこともあって、野球で食べていこうと思っていた時期もありましたが難しい世界でしたね。
最初は父の仕事を手伝いながら、通常の戸建てを手掛けていたんですが、いつしか日本の伝統建築に魅了され、「宮大工をやろう」と単身京都へ向かいました。その後、京都にある宮大工専門の工務所で修業し、独立して現在に至ります。
当時は物事一つひとつが修行で、10年間は建物を建てさせてもらえませんでした。この修業期間はかなりガマンを強いられましたね。その分、奉公明けには「やっと解放された」「これからはオレがやっていくぞ」という強い決意がみなぎり、糧にもなりました。
――宮大工は徒弟制度が厳しいイメージがあります。
相良さん 昔の徒弟制度は、親方と一緒に住み、仕事と生活を共にします。悪く言えば、その親方から逃れられません。弟子の面倒を見る女将さんもいたりして、相撲の世界によく似ていますね。
また、年功序列制度なのですが、私が20代で宮大工の世界に入った時は会社の中の序列は30番目で…。なかなか上に行けませんでしたね。
初めてノミを持った時の喜び
――しんどかったんじゃないですか?
相良さん 最初はノミすら持たせてくれませんでしたから、そりゃしんどかったですよ。初めてノミを持たせてもらったのは、修行開始から3~4年後。一般大工だったら、もう独立して親方になり、戸建て住宅を建築している頃ですから。
でも、宮大工の仕事をやりたい一心でガマンしました。この期間は掃除と雑用の手元仕事が主で、時間がある時はタガネで刻みをイメージしながら練習をしていましたね。
――生活費はどうされていたんですか?
相良さん 当時の日当は7,000円で、そこからアパート代や生活費、さらには道具代を捻出するので、生活はかなりキツかったですね。
――その分、「ノミを持っていいぞ」と許された時はどうでしたか?
相良さん 喜びはひとしおでしたね。ただ、簡単ではなかったです。ノミを垂直に入れ、まっすぐ掘っていく動きを会得するのは大変でした。
また、カンナ研ぎも難しかったですね。カンナの裏側が鏡のようになっていないと良く削れませんし、長切れもしません。切れるカンナをつくろうと思えば、まず10年掛かる作業です。
――カンナ掛けに10年ですか…。
相良さん その頃は親方も少しずつ仕事を与え、墨付けもやらせてくれるようになりましたが、このあたりでお礼奉公は終わりになります。その後は、工務店に残るか、独立するかなどいろんな道がありますが、私の場合は2級建築士も取得して、独立の道を選びました。
宮大工の元請け・下請け関係
――独立後はいかがでしたか。
相良さん 最初は、京都で山門や古民家の仕事を手掛けたり、古材を使った展示場を建てていました。プレッシャーと戦いながら建てた建物は今でも鮮明に覚えていますね。
建設した露天風呂
その後は海外での仕事も受注したり、神社や日本舞踊の道場などの仕事を請け負ってきました。つい最近では、下請けではありましたが、千葉県市川市の「葛飾八幡宮」の弓道場の棟梁を担当しました。
――宮大工の世界にも、元請と下請が存在する?
相良さん 地域の有力工務店が、神社の世話役をやるケースが多いですね。ただ、その工務店は自社では施工できないので、木材商を通じて、宮大工を紹介してもらうケースもあったりします。
ちなみに、宮大工の世界にも”大手”があります。神社・仏閣への人脈に強く、元請で施工するようなところです。私の会社は中小企業なので、そこまでの営業力はありませんが、これからは自分で仕事を受注していく方向にシフトしていきたいですね。
下総の国総鎮守「葛飾八幡宮」を施工
――中小宮大工はどうやって仕事を受注するのでしょうか?
相良さん まず材木屋と仲良くし、入札情報を得たりします。自分の足で神社仏閣を回って受注するケースは少なく、紹介とネットでのつながりです。ただし、地元の材木屋だけではなく、全国の材木屋とのネットワークを築く必要があります。
一方、最近は神社仏閣も入札をオープンにしますが、価格競争になると私たちのような中小企業では受注が困難なケースもあります。また、先方も一定の資本金がない会社には頼めない事情もあります。
宮大工の課題は「仕事がない!」
――宮大工業界の課題は?
相良さん 仕事がないことですね。需要と供給のバランスが悪いですし、その需要も一極集中しているんです。
――その意味では、京都には仕事がありそうですが。
相良さん 京都は宮大工業界の激戦区で、新規参入することが極めて難しい地域です。元々、老舗の宮大工や工務店が多く、神社仏閣のお抱えになっていますから。なので、仕事を取るためには宮大工もネットを通して、自分の仕事をアピールしていくことが重要な時代になっていますね。
――仕事がないと、担い手確保・育成も難しいのでは?
相良さん ええ。このままでは、宮大工の技術を継承していくことは難しいと思います。なので、伝統建築の大工塾を創設しようと考えているところです。
他の工務店では教えてくれないような伝統工法を教える、学習塾のようなものです。仕事が終わってから通うなり、日曜日に学ぶなどの仕組みをつくり、宮大工や数寄屋大工の仕事を教えることができればと考えています。
茶室や数寄屋大工の心得もある相良氏
今はその前段階として宮大工の体験講座を定期的に開いており、大工を引退した父とともに、ちびっ子たちに箸づくりや椅子の作り方を教えたりしています。
昨年、某所が調査した、小6男子の「将来就きたい職業」ランキングでは、「大工・職人」が3位にランクインしました。ですが、宮大工になりたいかと言えば、具体的なイメージが湧かないでしょうし、徒弟制度のリアルな生活を聞いたら、今の子たちは困惑すると思います。
大工体験講座のようす
なので、徒弟制度独特の”しごき”はなくしたほうがいいのではと考えた結果の”大工塾”でもあります。先ほど話した通り、宮大工は修行期間が長いので、親方と合わずにノイローゼになる弟子も多かったですから。未来の宮大工の確保のためには、技術の継承だけでなく、こうしたところも少しずつ、改善していければと考えています。