阪神高速ドボジョシリーズ最終回【入社29年目 川上さん】
阪神高速ドボジョシリーズ最終回は、入社29年目の川上順子さんだ。川上さんは、記念すべき阪神高速のドボジョ第1号であり、初のドボジョ管理職でもある。まさにドボジョのフロンティアといった存在だ。
さぞかし武張った女性が現れるのだろうと思っていたが、物腰の柔らかい普通の女性で、いささか拍子抜けした。それはともかく、シリーズのしめくくりにふさわしい、阪神高速の「元祖ドボジョ」にお出ましいただいた。
アフリカでインフラの運営維持管理を支援
アフリカで仕事中の川上さん(写真:本人提供)
――現在のお仕事について教えてください。
川上さん 技術部国際室という部署で、海外の道路会社などとの国際交流のほか、技術外販といった収益事業などを担当しています。収益事業は、基本的にはODAベースですが、JICAが発注されるコンサルタント業務を受注して、発展途上国への技術移転などを行っています。
――収益を上げるのがミッションですか?
川上さん キチンと収益を上げるのは大事なことですが、「社内の国際化」も大事だと思っています。
当社は、国内の都市高速道路事業が圧倒的にメインなので、国際室の人員は7名と少ないのが現状です。そのうち技術系は3名です。なので、国際室人員だけでなく、多くの社員が海外案件に積極的に関与することを通じて国際的感覚を磨き、国内業務に役立ててもらう、そういうスキームを整えていきたいと考えているところです。
――昔、政府が「これからはインフラ輸出ビジネスだ」とか言って、旗を振っていましたけど。
川上さん そうですね。インフラ整備は現地政府がイニシアチブをとっているので、われわれのような公的な機関が国内の民間企業と連携することで、海外案件の受注を加速させる、というのが政府のねらいです。私たちに期待されている役割は、現地政府などと国内民間企業との橋渡し役です。
――国際室として、今一番力を入れているプロジェクトはなんですか?
川上さん ケニアですね。私自身が担当しており、最も長くやっていて、受注金額も一番高い案件です。当社の強みは、東南アジアだけではなく、アフリカにも出て行っていることだと思っています。10年ほど前に、当社の社員がJICAの専門家として派遣されていたのがきっかけで、現在も協力関係が続いている感じです。インフラの運営維持管理に関する支援を行なっています。
あとは、モロッコ、エチオピア、マラウィ、ザンビアで実績があります。
――中国と競合してそうですけど。
川上さん アフリカに限らず、世界どこでも中国が来ています(笑)。彼らは、わずか2年で高速道路をつくってしまいます。
――海外でうまくやるには技術の「現地化」が必要だと思いますが。
川上さん その通りです。技術のダウングレードが必要になります。日本の技術をそのまま持って行っても、コスト高になってしまうので。品質はゆずれないのですが、相手が必要としていない余計な機能を省くなど、できるだけシンプルにする必要があります。相手の価値観に合わせてカスタマイズしないといけません。
――軸足としては、国際貢献、国際協力、国際ビジネスのどれですか?
川上さん どれもやろうとしていますね。ボランティアでやることもありますし、対価をいただいて収益を上げるためにやることもあります。
――会社として、国際業務にどれぐらい力を入れているのでしょうか?
川上さん それは私が聞きたいです(笑)。今は国内でいくつかの新規事業や大規模更新事業が動いているところなので、国際業務に人員をはじめとする経営資源を多く投入することは難しいのが実情です。国内の事業が落ち着いた後、また、今後、世界でインフラメンテナンスの必要性がより高まる時期を見据えて、それまで地道に頑張るというところかと思います。
手に職をつけるため、土木を選んだ
――話は遡りますが、そもそも土木を選んだきっかけはなんだったのですか?
川上さん 母親の強い意向によって、手に職をつけられる工学系の学問を学ぶ必要がありました。大学に進学するに当たっては、土木か建築を考えていましたが、その違いは全然わからないまま、「デザインするより、モノをつくるほうが良いかな」という感じで、なんとなく土木を学ぶことになりました。女性が少ないということも知りませんでした。
――土木のなにを学んだのですか?
川上さん ゼミは鋼構造でした。とくに目的があったわけではなく、先生との相性で選んだ感じでした。修士まで学びました。
――当時土木を学ぶ女子学生は何人ぐらいいましたか?
川上さん 私一人でした。クラスメートは100名だったので、1%ですね。当時はそんなものでした。
――気にならなかったですか?
川上さん 入ったときは「えっ!」と思いましたけど、しょうがないとあきらめていました。
――校舎に女子トイレがないとか?
川上さん ええ、そうでした。
――けっこうキビしい環境で。
川上さん そうでしたね(笑)。
決定権のあるところに行きたい
――就職活動はどんな感じでしたか?
川上さん 大学の先生の中に、阪神高速の審議会のメンバーだった方がいらっしゃって、その先生が阪神高速入社を私にススメてくださったんです。それで阪神高速の存在を知りました。
インターンは、橋梁メーカーとコンサルタントに行ったのですが、インターンを通じて「決定権は発注者にある」ということを実感したので、「どうせなら、決定権のあるところに行きたい」と思うようになりました。
完全な行政機関よりは、当時は公団でしたけれども、半官半民の阪神高速のほうがおもしろそうだなということで、阪神高速に入社しました。先生のオススメがなければ、関西の自治体に就職していたでしょう。
――阪神高速には女性の土木技術者はいたのですか?
川上さん いえ、土木職は私が最初でした。ちょうど男女雇用機会均等法ができて間もないころでした。
――フロンティアですね。
川上さん 当時はそんなものだったんですよ。なにもわからない状態だったので、入社してからいろいろ考えようという感じでした。
――「阪神高速でこれをしたい」というのはとくになかったですか?
川上さん 当時はメンテナンスのことはなにも知らず、単純に「橋を架けたい」と思っていました。ただ、私が入社して以降は、橋よりトンネルの建設が増えました。
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「無難な職場はイヤです」
――入社してからどのような仕事をしてきましたか?
川上さん 入社1年目の冬に、阪神淡路大震災が発生し、湾岸線の震災復旧を2年ほど担当しました。
その後、建設現場の担当になりました。初めて女性を現場に出すに当たり、会社としても右往左往したと思いますが、「無難な職場はイヤです」と言い張って、なんとか現場に出してもらいました(笑)。
配属されたのは北神戸線の建設現場で、コンクリートのアーチ橋の施工監理を担当しました。実は、もともとはトンネル工事の担当になる予定だったのですが、昔からトンネル工事中に女性が入ると「山の神が怒る」と言われていますので、いろいろな配慮があって橋梁の担当になったのだと思います。
入社後、最初の6年間は建設関係の仕事をしていました。その後、休職して、2年間アメリカの大学に留学しました。復職後は、保全関係の仕事を9年間やりました。現場、設計、企画、出向といった感じで、一通りやりました。それからの10年間は、今もやっている国際の仕事を担当しています。建設と保全を経験した後に、国際の仕事をするのは、キャリアパスとしては良かったかなと思っています。
――アメリカではなにを学んだのですか?
川上さん 橋梁のライフサイクルコストについて勉強しました。ライフサイクルコストの研究で著名な先生が、たまたま私の恩師と知り合いだったので、それまで保全関係の業務経験はありませんでしたが、先取りする形でメンテナンスの勉強をしました。
「自分は女性だ」と思って仕事をしていない
――それにしても、国際で10年は長いですね。
川上さん 私も異例だと思います。国際室ができたときから、ずっといます。
――発足メンバーだったんですね。
川上さん そうです。
――余人をもって代え難いと。
川上さん いやいや(笑)。国際業務は、英語ができるとか、特定の人でないとできないとイメージされやすいので、会社としてもなかなか動かせないんじゃないでしょうか。私としては、いろいろな人に経験してほしい仕事だと思っているんですけど。
ただ、昨年室長になったことで、自分がやりたいことができるのは、それはそれで良かったなとは思っています。それまでは人事的なことを采配する権限がなかったので。
――室長になって変わったことはありますか?
川上さん 室長の前からマネジメントはしていたので、あまり変わりはないですね。
――「管理職にはなるもんじゃない」という声も聞きますが。
川上さん スペシャリストになるのは、それはそれで良いと思いますけどね。
――「管理職になりたい」と思ったわけですか?
川上さん そうですね。「なりたくない」とは思いませんでした(笑)。
――土木系女性社員初の管理職だったと思いますが。
川上さん 周りはともかく、私自身は、「自分は女性だ」と思って仕事していないので、そういうのは関係ないと思ってきました。本当のことを言えば、そういうククリにされるのは好きではありません。普通に仕事してきて、普通に管理職になっただけ、そういう風に捉えています。人事当局にはいろいろな考えがあってのことかもしれませんが(笑)。
本業と国際業務をつなげたい
――この間、「国際以外の仕事をしたい」というのはあったのですか?
川上さん それはなかったですね。学生のころから漠然と「海外に出る」と思っていたので、それが叶っていると思います。
――英語は昔から達者だったのですか?
川上さん 小さいころにアメリカに3年ほど住んでいたのと、2年留学したので、ある程度できるという感じです。むしろ、国際室に来てから、しっかり勉強しました。
――専門用語を使うから?
川上さん それもありますし、やはり仕事で使うとなると、いろいろな意味で自分を追い込む必要があるからです。
――ずっと国際でも構わない?
川上さん そうですね。
――ライフワークになっているようですね。
川上さん (笑)。
――国際の仕事で「ここまでやりたい」ということはありますか?
川上さん 若い社員にバトンタッチしていくことですね。今は「経験者」で仕事を回していますが、経験者以外の社員をどう巻き込むか、どう取り込むかということに力を入れたいと思っています。国内業務と国際業務をつなげるために、戦略的な人員配置をするということです。