絶滅危惧の職種「宮大工」
建築業界で働いている人でも「宮大工に会ったことがない」という人は案外多いのではないだろうか。それもそのはず。技術を習得するために途方もない時間を要する宮大工は高齢化が進み、現在、本物の宮大工は日本に100人もいないと言われているのだ。
そんな中、鳥取県の大山町で株式会社創伸を営む宮大工の北村裕寿社長は39歳。「新月の日に伐採した木が理想」「家の西側には、山の西側の木を使う」など、その木へのこだわりは半端ではない。
北村社長は培った伝統技術と現代の暮らしにどう折り合いを付けて仕事をしているのか、仕事場を訪れて聞いてみた。
300年残る家、1000年経っても劣化しない施工
株式会社創伸 北村裕寿社長。社内には貴重な工具がズラリと並ぶ。
株式会社創伸が手掛けている事業は主に古民家再生、新築、社寺の3分野。取材当日も北村社長は、地元の神社に新しい鳥居を取り付ける仕事をしてきていた。最近の業務の割合を北村社長に尋ねてみると、
「今年は古民家再生6割、新築3割、社寺1割といった感じですかね。去年の12月から倉吉市の方で江戸時代からある古民家を手掛けているんですが、特徴的なのはコンクリートを一切使わないことです。石を縒って1個ずつ積んでいきます。石も昔の石を使うんで、まあ究極的に非効率ですね(笑)。工事費もコンクリートの10倍以上かかる。でも、コンクリートだと100年しかもたないところ、石だと千年経っても劣化しません。仕上がりも美しいし、長い目でみたときにゴミにもなりません。戦前からの伝統を自分が後世に伝えていくんだという思いで仕事をしています」。
業務の3割を占める新築ももちろん、通常の新築ではない。手刻み、木組み、土壁、石場建てと伝統構法がベースだ。施主の強い意向でとことんこだわることができた家について、北村社長はこともなげにこう話した。
「300年残る家を作ったという自信があります。将来、必ず文化財になるでしょうね」。
本場の奈良で宮大工修行に励んだ20代
大工の父を持ち、地元の工業高校に進学した北村青年はそのまま父の勤める工務店に入った。一般的な大工仕事に精を出していた10代の頃、刃物の祭典「やすぎ刃物まつり」で衝撃的な出合いをする。
「それまでに見たこともないようなカンナがあったんです。一瞬で心を奪われましたね」。それは、日本一の鍛治職人が作る道具だった。以来、名うての鍛治職人と付き合いを持つようになった北村青年。宮大工への興味が芽生えたのもこの頃だった。
「その頃、勤めていた工務店の親方が亡くなって解散状態になってしまったんです。紹介してもらった棟梁に将来の話をしていたら“社寺をやるなら奈良だ”と言われ、すぐに鳥取から奈良に引っ越しました」。北村青年21歳のときである。
平日は社寺の現場で仕事、週末も社寺見学という奈良での生活を5年間過ごし、北村青年は地元の鳥取に帰る決意を固めた。個人事業主としてさらに様々な経験を積んだ後、2010年に株式会社創伸を設立。古民家の再生や伝統構法の家づくりを事業の柱にした。
「当初は“仕事なんてない”“無理だ”と後ろ向きなことばかり言われました。でも、逆にそれがエネルギーになりました」。奈良で学んだことは100%、鳥取の今の仕事に活かされている。北村社長の異常とすら思える木へのこだわりがそうだ。
仕事場は選りすぐりの木材とこだわり抜いた工具が並ぶ静謐な空間。
技術にこだわるため、木に徹底してこだわる
「木は原木で買います。もちろん鳥取県産で伐採する時期も10月から12月のものだけ。新月の日に伐ったものが理想です。家の西に山の西側の木を使うといった究極の仕事をするために、“木を買わず、山を買え”なんて言葉もありますし、できる限り実践しています。でも、まあ原木市場に足を運んでいる大工なんて僕くらいですね(笑)」。
木へのこだわりはこれだけではない。根っこには「木は生きている」という信念がある。
「乾燥も今は高温であっという間にしてしまいますが、それをやると木が傷んで全くの別物になってしまうのでやりません。それと木にも上下や腹と背がありますから逆木なんかは絶対にやりません。宮大工界では罰当たりとされていました」。
木にこだわることは自らの技術にこだわることと同義でもある。
「宮大工として培ってきた技術を100%発揮するため、木にこだわっている部分はあります。短時間で熱を加えた木とかは繊維がおかしくなってノミで切れないですからね。道具にもやはりこだわります。いい道具を使うと木が喜ぶ感じがするんですよ。道具にも当たり外れがあるのですが、たとえ100枚に1枚でもものすごく切れる奴に出合うと最高に嬉しいですね」。
何気なく置かれている工具も、実は日本を代表する名工による逸品。
全てが衰退する中で秘める揺るぎない思い
木、道具、伝統技術。北村社長のアイデンティティとも言えるこの3つの要素は残念ながら今の時代、失われていく運命にある。本人も重々自覚していて「棺桶に足を突っ込んだまま仕事をしとるようなもん」と自嘲気味に笑う。
「もう全てが衰退していますよ。木はここ60~70年で劇的に変わってしまって、プレカットが95%を占めるようになりました。手加工はせいぜい5%です。戦後、山を切りまくったことで環境も激変しています。林業も衰退しています。宮大工も道具を作る職人ももう本当にいないんです。日本の文化は無いに等しいですね。伝統構法が今後、盛り上がることもないでしょう。僕らのような人間が完コピして維持するので精一杯ですから」。
そんななか、北村社長はことさらに危機感を叫ぶわけではない。実に泰然自若としている。その心を問うと、
「こういう効率重視の流れができている以上、僕個人が何を言っても仕方ありません。本当にどうしようもないときが来るまでは続くのだと思います。でも、いよいよ打ち止めになって、“じゃあどういう方法がある?”となったらうちらのやり方しかないはずです。元々あったものに戻るしかない。そのとき、自分は死んでると思うけど、技術はつながっているかもしれないし、僕が手掛けたものが未来の人たちの道しるべになるかもしれない。そんな思いで自分が今できることをやっています」。
会社があるのは鳥取県大山町の御来屋駅の近く。北には日本海、南には名峰大山が広がる。
いつかは木と会話ができる職人に
今の時代にはマッチしていない。でも、本質的な仕事だからいつか必ず求められる日が来る。そんな北村社長の考え方は、命に対する畏敬の念から生まれているようだ。つまり、かつては木が生き物として扱われていたが、現代は木がモノとして扱われているということ。
「僕は自分が使う木がどこでどんな環境で育ってきて、いつ切られたものなのかわからないのが嫌なんです。木にも個性があって、谷の方は素直なので化粧材に向いていたり、頂きの方は暴れん坊なので構造材に向いていたり。それとこれは本当に不思議なんですけど、若い木を切るときより樹齢300年の木を切る方が気疲れするんです。同じ作業をしても疲れが全然違うんですよ」。
北村社長は最後に夢を話してくれた。それは、「木と会話できる大工になること」。
「生き物である以上、木にも思いがあるはずです。“建築物のあの部分に使って欲しい”とか“こいつの家には行きたくない”とかね(笑)。そういう思いをキャッチして、木の思いに応えてあげたい。木の寿命を人間の都合で縮めているとはいえ、僕は家を建ててからも木って呼吸をしていると思います。これからも木の声に耳を澄まして、かつての宮大工達に恥じない仕事をしていきたいですね」