引き渡し日の前倒しをゴリ押しする施主
私は今、プラント現場に従事しているのだが、施主が建物の一部の引き渡し日を一か月前倒しで希望してきた。
こんなことは良くあることだ。当然ながら施主は素人なので、法的なことなど一切考えず、自分たちの都合だけで予定をゴリ押ししてくる。
実際問題として、プラントそのものが完成しておらず、同じ敷地内にある建物だけ竣工検査を受けて施主に引き渡すことは、通常では考えにくい。
だが、今回の工事は国をあげた案件なので、役所もそれなりの判断をするだろう。多少のことは拡大解釈して、手続きを進めると思う。
施主は本当に理解しているのか?
施主が早期の引き渡しを希望し、役所も部分使用を認めたとしても、実際の工事は予定通りにしか進まない。
施主側は、引き渡しされた後、什器と機器を運び込み、早速必要な作業を開始しようとするだろう。
しかし、建物前面の道路の舗装はその時点ではまだ完了していない。地盤改良が必要で、建物と前面道路の高低差は800もある。人の出入りや機器などの搬入は、想像以上に大変だ。搬入車両の止められる位置から、手運びで運搬してもらわなければならない。
また、建屋に出入りする人たちの駐車場はまだないので、4~500mも歩いてもらわなければならない。
しかも、土木工事はまだまだ擁壁や地盤改良、アスファルト工事があり、そのための振動、騒音、土ぼこり等は避けられない。
これらの説明が施主に十分されているのか? と疑問に思ってしまう。彼らは「建物外部の外構などまだ完成していないのは承知の上なので、多少不便なのは十分理解しています」と言うのだが、往々にして自分勝手な解釈をしている。恐らく、当たり障りのないことしか聞かされてないのだろう。
最終的には、我慢してもらわなければならないことばかりになるので、だからこそ施主には言いづらいことほど先に伝えておかなければいけない。
先延ばしすればするほど、問題はこじれるばっかりだ。
商業施設の引き渡し日は絶対厳守
こんな話は、建築の現場でも良くあることだ。
どんな建築物でも、引き渡し日は厳守が建前だが、一番厳しいのは複合商業施設だろう。多くのテナントが関わっているため、オープン日を目指して突貫工事の連続となる。
印象深いのは、東京駅前の超高層の建物に関わった時だ。
60階建てのビルの内、地下3階から地上4階部分がテナントエリアで、私はその階の店舗と食堂エリアが担当だった。
仕上げの段階になると、各店舗毎に契約した内装業者が乗り込んでくるのだが、70店舗以上あり、内装業者に機器搬入業者、オーナーたちとの対応は非常に大変だった思い出がある。オープン初日に全店舗が開店してることが最低条件なので、その準備のために内部は壮絶な状況になる。
特に、食堂エリアの厨房部分の設備と店舗部分の内装の完成は、モノが大きいだけに各店舗の職人同士が運搬や場所の占有を巡ってケンカ腰の怒鳴りあいも起こる。それらを調整するのも私の役目で、オープン前1週間くらいは各店舗も徹夜の連続で、皆の目が血走ってくる。
また、登録業者用の名札を作るが、どこにどんな業者が入っているか、それぞれが店先で広げる材料など、全部は到底把握しきれない。
さらに、特に困ったのが、盗難が多発したことだ。工具やオートレベル、パソコンなどが無くなり、不審な動きをする作業員がいないかチェックするのだが、何百人もいる人たちの動向を管理するなど出来るはずがない。「自分のモノはしっかり自分で管理してくれ!」としか言い様がなかった。
そんなこんなで、ようやく迎えたオープン初日。裏方である私たちは、直前までエレベーターやエスカレーターの点検、掃除を行い、遠くからオープンのセレモニーを見ていた。
華やかな店舗とは裏腹に、バックヤードに運び込まれたゴミや不用品の整理にも2~3日掛かったが、いかに完成引き渡し日が重要なのかを思い知った現場だった。
“億ション”は、何が何でも期日に間に合わせろ!
マンションや事務所ビル等も、入居日が契約で決まっている。
ただ、商業店舗ほど厳しくはなく、万一の場合は入居後にも工事を継続させてもらえる場合が多い。
しかし、最近多い”億ション”と呼ばれるマンションはそう簡単ではない。
全てに代理弁護士が立ち会って引き渡しを行い、鍵は入居後の新しい鍵を使用し、工事中の鍵は一切使えない様にするなどの手続きが行われる。
万一、工事が終了していない場合は、違約金として一日いくらの賠償金が当然のごとく請求される。しかも、元値が元値だけにその金額はべらぼうだ。
「何が何でも、期日に間に合わせろ!」と言い続けた思い出がある。
ちなみに、今のプラント工事のオープン日は、商業建築などとは比べものにならないほど地味だろう。私はオープン日、つまり運用開始日までは居ないだろうが、大体想像はつく。
まあ、建築工事は関わるほとんどの人たちが竣工前には居なくなるのだが、”何となく終わって、引き上げる”のがちょっと寂しいと毎回思う。