高知県の海岸線は、太平洋に面した美しい砂浜と豊かな生態系で知られる一方、気候変動による海面上昇、台風の激化、そして深刻な海岸侵食に直面している。これらの課題は、地域の防災や観光、さらには生態系の保全に大きな影響を及ぼす。
国土交通省高知河川国道事務所の渡邊国広所長は、海ガメの研究者から転身した異色の経歴を持ち、15年にわたり海岸と河川管理の最前線で活躍してきた。本記事では、渡邊氏のインタビューをもとに、高知の海岸・河川管理の現状、気候変動への対応策、そして地域と共生する河川づくり、海岸づくりの可能性を探る。
研究者から行政へ 海ガメ研究の知見を活かす
渡邊氏のキャリアは、一般的な官僚とは一線を画す。東京大学海洋研究所で海ガメの産卵環境、遊泳生態、集団遺伝学を研究し、博士号を取得。ポストドクターとして数年間活動した後、30歳を目前に安定した就職先を求めた。「研究者を目指していたが、博士号取得後の就職は大学のアカデミックポストに限られ、競争が激しかった。どこでもいいから入れるところに入ろうと決意した」と渡邊氏は振り返る。
2009年、国土技術政策総合研究所(NILIM)の公募採用に応募し、採用された。選考の背景には、渡邊氏の海ガメ研究で培った知見があった。海ガメは砂浜で産卵するため、砂浜の環境変化に敏感だ。静岡県や徳島県のフィールドワークを通じて、砂浜の生態系と海岸保全の関係を深く理解していた渡邊氏は、「海岸の環境に関する研究実績」を求めるNILIMの募集要件に合致した。「海岸管理なら、自分の知識を活かせると思った」と語る。
NILIM入所以降、渡邊氏はサンドパックを活用した浸水対策や、砂浜の自然環境を活かした防災技術の開発に注力。特に印象に残るのは、宮崎海岸でのサンドパック導入だ。海外では実績があったが、日本では初の試みだったため、耐久性や設計基準を一から構築する必要があった。「袋材の耐久試験や布の強度基準を定め、手引きを作成して現場に導入した。この一連のプロセスは、新技術を現場に適用する醍醐味を教えてくれた」と渡邊氏は語る。
自然の防災機能強化のための砂浜回復、グリーンインフラ
高知河川国道事務所が管轄する海岸事業は、土佐市から南国市にかけての海岸侵食対策が中心だ。気候変動による海面上昇や台風の影響で砂浜が急速に失われており、渡邊氏は「砂浜の回復を通じて自然の防災機能を強化する」ことを重視する。従来のコンクリート構造物による硬直的な防護ではなく、砂浜や植生を活用した「グリーンインフラ」を推進。砂浜は波のエネルギーを吸収し、侵食を抑えるだけでなく、観光資源や生態系保全にも寄与する。
現在、事務所は土佐市から南国市までの範囲で砂浜回復事業を進めている。具体的には、侵食された砂浜に土砂を供給し、自然の海岸線を再構築する取り組みだ。さらに、香南市の海岸では、堤防の耐震化が不十分なため、国直轄事業として予算要求を進めている。「南海トラフ地震はいつ起きてもおかしくない。県の予算だけでは対応が難しいため、国が主導して迅速に進める必要がある」と渡邊氏は強調する。
グリーンインフラの一例として、渡邊氏は砂浜の重要性を挙げる。「砂浜は自然の防波堤だ。波のエネルギーを吸収し、背後の集落を守る。コンクリート構造物に頼らず、砂浜を回復させることで、防災と環境保全を両立できる」と語る。また、砂浜の回復は海水浴場の魅力向上にもつながり、地域の観光振興に貢献する。事務所は、県や市町村と連携し、砂浜の管理や清掃活動を住民参加型で進める計画も検討中だ。
河川と海岸の連携 総合土砂管理というアプローチ
渡邊氏が特に注力するのは、河川と海岸の連携だ。高知の仁淀川や物部川は、海岸に土砂を供給する重要な役割を担う。しかし、上流のダムに土砂が堆積し、下流や海岸では土砂不足が深刻化している。「河川と海岸の両方を管轄する当事務所の強みを活かし、総合土砂管理を推進したい」と渡邊氏は語る。
総合土砂管理とは、川の上流から下流、海岸まで土砂の流れを一元的に管理するアプローチだ。例えば、ダムに溜まった土砂を下流や海岸に計画的に供給することで、砂浜の再生や河床の安定化を図る。「上流では土砂が溜まりすぎて困り、下流や海岸では足りなくて困っている。このミスマッチを解消できれば、河川と海岸の両方でメリットが生まれる」と渡邊氏は説明する。
しかし、土砂の動きは複雑だ。「濁水に含まれる土砂量や、どのタイミングでどれだけ流出するかは、現在の技術では完全には把握できない」と渡邊氏は認める。事務所では、ダムの上流から土砂を試験的に供給する実験を行っているが、物理的なメカニズムの解明にはさらなる研究が必要だ。「土砂の粒径や流出条件によって挙動が異なる。シルトのような細かい粒子は水と一緒に動くが、大きな礫は予測が難しい」と語る。
気候変動への対応 流域治水2.0とダム再編
気候変動は、河川管理にも大きな影響を与えている。渡邊氏は、仁淀川と物部川については、気候変動の影響を踏まえた「流域治水2.0」を推進中だ。これは、河川本体の対策に加え、県や市町村と連携して田んぼダムや森林管理といった流域全体の治水策を統合する取り組みだ。「田んぼダムは、農地が雨水を一時的に貯めることで洪水を軽減する。技術的な効果算定は国が支援し、市町村の計画を後押しする」と渡邊氏は説明する。
田んぼダムの導入には、地域住民の協力が不可欠だ。事務所は、農家や自治体と連携し、田んぼダムの規模や効果をシミュレーションする技術支援を提供。「どの程度の規模でどれだけの効果があるかをデータで示すことで、導入のハードルを下げる」と渡邊氏は語る。また、特定都市河川の流域に指定された地域は、国の補助を活用した市町村の治水対策や、雨水浸透を阻害する開発の制限が強化される。これにより、洪水リスクの低減が期待される。
さらに、上流のダム再編も課題だ。物部川上流の永瀬ダムなど3つのダムについて、改良や再生の計画を検討中。「気候変動による降雨パターンの変化に対応するには、ダムの運用見直しが不可欠。具体的な計画はこれからだが、洪水調節機能を強化する必要がある」と渡邊氏は指摘する。
デジタル技術の活用 衛星データとDXの可能性
海岸事業におけるデジタル技術の活用も、渡邊氏の関心事だ。特に人工衛星を活用したモニタリングに注目する。「従来は年に1回の現地測量が精一杯だったが、衛星データを使えば高頻度で海岸の変化を把握できる。台風による急激な侵食も追跡可能だ」と語る。内閣府が進める小型衛星コンステレーション計画により、10分おきの観測が可能になれば、砂浜の動態や土砂の流れを詳細に分析できる。
「衛星データは、オープンで無料のものが増えた。台風後の海岸変化をリアルタイムで把握できれば、事業計画の精度が上がる」と渡邊氏は期待を寄せる。例えば、台風による砂浜の消失や土砂の堆積を迅速に検知し、補修や土砂供給の優先順位を決められる。こうしたデータ駆動型のアプローチは、限られた予算と人員での効率化にもつながる。
ただし、デジタルトランスフォーメーション(DX)はまだ道半ばだ。「3D測量やドローンは導入が進んでいるが、業務全体を変革するレベルには達していない」と渡邊氏は課題を挙げる。事務所内の業務効率化も遅れており、「限られた人員で多くの仕事を回すため、デジタルデータの活用をさらに進めたい」と語る。特に、土砂の動きを可視化する技術は未成熟だ。「濁水に含まれる土砂の量や流出タイミングを正確に予測できれば、事業の効果を最大化できるが、まだ研究段階」と認める。
地域と一体となった、人が楽しめる海岸づくり
渡邊氏が最も力を入れるのは、地域と一体となった海岸づくりだ。「防災だけでなく、海岸を人が楽しめる場所にしたい。海水浴客が減り、人が海から遠ざかっている今、環境改善や観光振興を通じて地域を元気にしたい」と語る。砂浜の回復は、防災効果だけでなく、ビーチの魅力向上にもつながる。事務所は、県や市町村と連携し、砂浜の管理や清掃活動を住民参加型で進める計画を検討中だ。
高知県日高村の放水路など、自然環境を活用したグリーンインフラの事例も参考になる。「砂浜や湿地は、自然の防護機能を発揮するだけでなく、地域のアイデンティティを高める。防災と利用のトレードオフをどうバランスさせるかがカギ」と渡邊氏は言う。住民参加型の清掃活動や植生管理を通じて、地域が主体的に海岸に関わる仕組みづくりを目指す。
生物多様性の保全も重要なテーマだ。渡邊氏は、渡り鳥や昆虫が生息できる環境整備を検討中。「砂浜や河川敷を整備することで、生態系の多様性を守り、地域の魅力を高めたい」と語る。例えば、仁淀川の河川敷では、住民ボランティアによる草刈りや植生管理を通じて、生物多様性を高める取り組みが始まっている。「こうした活動は、地域住民の意識を高め、海岸や河川への愛着を育む」と渡邊氏は期待を寄せる。
働き方改革と組織の挑戦
事務所の運営にも課題は多い。渡邊氏は、職員の残業削減や柔軟な働き方の実現をミッションに掲げる。「子育てや育休のニーズが増え、多様な勤務制約を持つ職員が活躍できる環境を整えたい」と語る。特に、男性の育休取得期間が長くなる傾向にある中、従来の働き方を見直す必要がある。「具体的な施策は模索中だが、柔軟な勤務体系を導入し、誰もが気持ちよく働ける職場を目指す」と渡邊氏は意気込む。
また、ICT施工や3D測量を活用した業務効率化も推進中だが、「業者側は進んでいるが、事務所内の取り組みは遅れている。省力化に向けた工夫が必要」と課題を認識する。熱中症対策として、現場のモニタリング装置設置や作業時間の調整も進めているが、「夏の暑さは年々厳しくなる。安全確保と効率化の両立が求められる」と語る。
人材育成も課題だ。事務所の職員は河川管理が中心で、海岸事業に特化したスペシャリストは全国でも数名程度。「海岸事業は国際的な枠組みでの取り組みも多く、専門性を活かせる魅力的な分野。後進の育成にも力を入れたい」と渡邊氏は展望を語る。事務所では、若手職員向けに海岸管理の研修を強化し、専門知識の継承を進めている。
海岸は海を通じて世界とつながっている
渡邊氏は、海岸事業の魅力をこう語る。「河川は地域で閉じた仕事が多いが、海岸は海を通じて世界とつながっている。国際学会や津波対策のグローバルな枠組みに関われるのは刺激的だ」。高知の海岸は、南海トラフ地震のリスクを抱えつつ、観光や生態系保全のポテンシャルも秘める。渡邊氏は、国際的な視野を持ちながら、地域に根ざした事業を進めることにやりがいを感じている。
「海岸事業は、防災だけでなく、地域の文化や経済にも影響を与える。たとえば、砂浜の回復は観光客を呼び戻し、地元の飲食店や宿泊施設に活気をもたらす。こうした多面的なインパクトが、海岸事業の魅力だ」と渡邊氏は語る。また、国際的なネットワークを通じて、海外の先進事例を学び、高知に適したカタチで導入することも視野に入れる。「オランダやオーストラリアの海岸管理は参考になる。彼らのグリーンインフラの手法を、高知の風土に合わせてカスタマイズしたい」と展望を述べる。
気候変動や地域課題と向き合いながら、高知の海岸を次世代へ
高知の海岸と河川は、気候変動や地域の課題と向き合いながら、持続可能な未来を模索している。渡邊氏の研究者としてのバックグラウンドと現場での経験は、グリーンインフラ、デジタル技術、地域共生といった新しいアプローチを可能にする。砂浜の回復、流域治水、住民参加型の海岸づくり――これらの取り組みは、高知を、そして日本のインフラをより強く、魅力的なものにするだろう。
渡邊氏のリーダーシップのもと、高知の海岸は新たな価値を生み出しつつある。防災機能を強化しつつ、地域が誇れる海岸を次世代に引き継ぐ――その挑戦は、高知の風土と人々の暮らしに深く根ざしている。砂浜の波音とともに、高知の未来が静かに、しかし力強く築かれている。