防災現場、国際協力経験活かし、日本の技術力の発信へ。荒川下流河川事務所長・菊田友弥さんの軌跡

国土交通省荒川下流河川事務所の所長を務める菊田友弥さんにお話を伺う機会を得た。岩手県盛岡市出身の菊田さんは、幼少期の経験や阪神・淡路大震災をきっかけに土木の道を志し、東京工業大学で学びを深めた後、2004年に国土交通省へ入省。河川防災を中心に、国内の災害対応から国際協力まで幅広いキャリアを築いてきた。

本記事では、菊田さんの原点から現在の取り組み、そして未来への展望まで、その情熱と知見に迫る。

※取材は2025年1月下旬

土木への第一歩 父親の影響と震災の衝撃

菊田 友弥氏

――菊田さんが土木の道に進むきっかけは何だったのでしょうか。

菊田さん 私は岩手県盛岡市出身なんです。父親が建設コンサルタントとして働いていて、それが大きな影響を与えています。父親は岩手大学で農業土木を学び、地元でコンサルタント会社を立ち上げたメンバーの一人でした。代表ではなかったものの、会社設立から関わり、県や国の仕事を手がけていたんです。

小さいころから、父親に現場に連れて行ってもらった記憶があります。たとえば、岩手県の遠野市の山間部で、父親が設計したワサビ田を見せてもらったり、「ここをつくったんだよ」と教えられたりしました。そうやって幼少期を過ごしたことが、土木への興味の原点ですね。

――具体的な出来事が進路を決めた瞬間はありますか。

菊田さん 中学3年生の時、阪神・淡路大震災が起きました。1995年のことです。当時、私はテレビでその映像を見て、幼いながらに大きな衝撃を受けました。神戸は岩手から遠く離れていますが、「何とかならないのか」と強く思ったんです。

その後、地元の理数科のある高校に進学し、大学でインフラや防災を学ぶなら土木だろうと考えました。それで、東京工業大学に進学したんです。土木の中でも構造やコンクリートなど色々な分野がありますが、私は水系の研究グループで、衛生工学の研究室に所属しました。

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環境ホルモンとの出会い

――大学ではどのような研究に取り組まれたのですか。

菊田さん 4年生の時、研究室で環境ホルモンの分解の研究に取り組みました。当時、社会問題として注目されていて、人の尿や医薬品に含まれる微量物質が生態系に悪影響を及ぼすのではないかと言われていました。それが下水処理場でどれだけ除去できるのかを調べる研究です。

土木の授業で学ぶ構造力学などとは少し違っていて、微量物質を検出するために分析化学を一から勉強する必要がありました。実験室で白衣を着て、下水処理場からサンプルを取ってきて、実験室内の活性汚泥で処理し、どれだけ除去されるかを測定するような研究でした。化学実験に近い研究ということもあり、ちょっと一風変わった経験でしたね。

――その研究が後のキャリアにどうつながったのでしょうか。

菊田さん 大学院の修士課程まで進み、指導教官から博士課程への誘いもありました。でも、私は研究者として働くイメージが持てなかったんです。もともと「現場に出たい」という気持ちが強かったので、博士課程には進まず、2004年に国土交通省に入省しました。

入省の決断 就職氷河期と父親の助言

――なぜ国土交通省を選ばれたのですか。

菊田さん 入省した2004年は就職氷河期の真っ只中でした。ゼネコンが潰れてしまうかもしれないと言われ、公共事業も削減傾向にあった時代です。当時の総理大臣は小泉純一郎さんで、大学の同級生の中には、土木を学んでも、銀行や保険業界に進む人もいました。公共事業が悪者扱いされる時代背景もあったのかもしれません。それくらい就職がキビしかったんです。

私も民間の情報通信系の会社やシンクタンクを受けましたが、一番やりたかったのは土木系の仕事でした。「絶対に潰れない就職先はどこか」と考えたとき、国土交通省が浮かんだんです(笑)。少しネガティブな理由に聞こえるかもしれませんが、社会的に公共事業が批判される中でも、インフラの仕事に携わりたいという思いが強かったんです。

――ご家族の反応はどうでしたか。

菊田さん 父親からは「この分野で働くなら発注者になるべきだ」と言われました。大きな仕事ができ、コンサルタントやゼネコンとも連携できる立場だと。それも入省の後押しになりましたね。

初任地での試練 災害対応の洗礼

――入省後の初任地はどこだったのでしょうか。

菊田さん 初任地は新潟県の長岡市でした。2004年のことです。その年は災害が多くて、入省して3ヶ月ほど東京や他の地方で研修を受けた後、7月から本格的に仕事を始めたら、新潟・福島豪雨が発生しました。7.13水害と呼ばれるものです。

さらにその年は台風が連続で日本を襲い、日本全国に被害をもたらした10月の台風23号では、信濃川中流部でも戦後5番目の洪水が起きました。その対応が終わった2日後に、新潟県中越地震が発生したんです。もう年中、災害対応に追われていましたね。

――初めての現場で大変だったでしょうね。

菊田さん 普通の河川の工事や管理の仕事ではなく、災害対応から始まったので、初年度から濃い経験をさせてもらいました。1年3ヶ月ほど長岡にいて、その後は富山県の事務所に道路の担当として異動しました。そこでまた、平成18年豪雪という大雪に見舞われ、交通規制や通行止めの対応をしました。

初めの2年ちょっとで災害を多く経験したことが、その後のキャリアに活きたと思います。当時の上司にも「これまでの経験を活かしなさい」と言われ、次のステップに進むきっかけになりましたね。

内閣府での学び 防災の総合行政を体感

――その後はどちらに?

菊田さん 3年目に内閣府の防災担当に出向しました。旧国土庁の防災局が省庁再編により内閣府に移った部署です。そこで初めて、防災が国交省だけでなく、全省庁が役割分担を持って取り組む総合行政だと学びました。

たとえば、災害救助法は当時は厚生労働省が担当しましたし、大規模な災害では金融庁が支援に関わったりします。出向者が多い部署で、インフラ省庁だけでなく全省庁と仕事を調整する役割を担っています。

――具体的にどんな業務を経験されましたか。

菊田さん 全国で災害が起きたら対応しなければならず、広報や報道対応、企業の防災対策、風水害への備えなど、幅広い業務を経験しました。当時は小さな組織でしたが、意思決定が早く、大臣にすぐ話が上がるような環境でした。霞が関の仕事の仕方を学び、各省庁の考え方や行政全体での防災の重要性を体感できた貴重な時間でしたね。

東日本大震災 被災地の復興に奔走

――東日本大震災の際はどちらに?

菊田さん 2010年4月から秋田の湯沢河川国道事務所で勤務していたんですが、2011年3月に東日本大震災が発生しました。秋田でも相当揺れて、揺れ始めには、東北出身の多くの所員は「ついに、(想定されていた)宮城県沖地震が来たか」と言っていました。4~5分も揺れが続いたので、「これはただ事じゃない」と感じました。

翌朝から太平洋沿岸への支援が始まりました。私は調査課長として派遣者の人選を補佐し、夜のうちから準備をして翌朝には現地に向かう段取りをしました。8月には、仙台の本局に異動になり、被災した海岸堤防の復旧を担当しました。

――復旧事業で難しかった点はありますか。

菊田さん 岩手、宮城、福島の被災3県で、海岸堤防をどの高さで復旧するかが大きな議論でした。堤防の高さが決まらないと復興まちづくりが進まないと言われかねない状況で、早急に方針を決める必要がありました。当時、中央防災会議において、「最大クラスの津波に対しては命を守り、頻度の高い津波に対しては資産も守る」という概念整理がされました。

専門的には「L1津波」「L2津波」と呼びますが、住民に伝えるには分かりやすい表現が必要でした。各県と調整し、「頻度の高い津波は施設で守り、最大クラスの津波には多重防御と避難で命を守る」と説明に回りました。被災自治体の首長さんたちに直接お会いして説明するなど、時間がない中で大変でしたが、やりがいのある仕事でしたね。

国際協力への挑戦 日本の技術を世界へ

――その後、どちらに?

菊田さん 東日本大震災の日本の経験を、海外で活かすように、ということだったのかもしれませんが、2012年からJICA本部に出向しました。また、2019年から2023年まで、インドネシアのジャカルタで長期専門家として働きました。現地の公共事業省で、水資源・防災分野の政策支援や技術支援、新規プロジェクトの案件形成の支援を担当しました。

たとえば、フィリピンのミンダナオ島で台風被害を受けた河川の治水計画や、ジャカルタの洪水対策マスタープランの見直しに携わりました。日本の技術を現地に伝えつつ、一緒に計画を作るスタイルが特徴です。インドネシアでは、ジャカルタの抜本的な洪水対策として地下放水路を提案し、日本からの技術支援を決定してもらったこともあります。ダム再生事業も日本の得意分野で、堆砂したダムを改良するプロジェクトを進めました。

インドネシアでは経済発展が優先され、防災インフラが後回しになりがちでした。ジャカルタは見た目は都会なのに洪水が頻発する状況で、日本が60年以上支援してきた歴史を活かし、現地のニーズに合わせた提案を心がけました。

また、2015年には仙台で開催された国連防災世界会議に関与しました。そこで「事前防災投資」の重要性を日本が主張し、「1ドルの投資で15ドルの復興費用を削減できる」と訴えました。途上国が自然災害で発展を阻まれるのを防ぐため、日本の経験を伝えたいと思ったんです。

――印象に残っていることはありますか。

菊田さん コロナ禍で2020年3月に日本に一時帰国した時、テレワークでインドネシアの仕事を続けました。2020年12月に現地に戻った後、コロナに感染してジャカルタの病院で入院したんです。39度の高熱が1週間続き、CTスキャンで肺が真っ白だと診断されました。現地の隔離病棟で治療を受け、PCR検査で陰性になるまで退院できず、インドネシア語でのやり取りも大変でした。心細い思いをしましたが、命が助かったのは幸いでしたね。

もう一つは、天皇陛下のジャカルタ訪問です。2023年に陛下が即位後の最初の公式訪問先としてインドネシアを選ばれ、かつての日本の協力で復旧した排水機場を、現地でご案内しました。陛下は水問題をライフワークにされており、日本の支援で復旧した施設を熱心にご覧になっておられました。現地に駐在する専門家として貴重な機会をいただいたことは、忘れられない思い出です。

荒川下流での挑戦 京成本線橋梁架替とDX

――現在、菊田さんが所長を務める荒川下流河川事務所の主な取り組みは何でしょうか。

菊田さん 一番大きな事業は、京成本線の荒川橋梁架替プロジェクトです。荒川下流域には戦前からの地下水くみ上げによる広域地盤沈下で、ゼロメートル地帯が拡がっており、堤防も部分的に低くなっているところがあります。特に、この橋梁付近は堤防が部分的に低くなっている治水上の弱点で、2019年(令和元年)の東日本台風では、河川の水位が桁下1.2メートルまで迫りました。

対策として、上流側に新しい橋を架け、線路を移設して堤防をかさ上げします。730億円の事業で、2023年から工事を開始しました。営業線に影響を与えないよう夜間の工事も多く、2037年に完成する計画です。荒川を挟む2駅をコントロールポイントとして、その間で架け替えする制約もあり、既設橋から15メートル上流に新たに架橋するという限られた範囲で工事を進めています。京成電鉄さんに工事監理を委託し、安全第一で取り組んでいますね。

――DXにも取り組まれているそうですね。

菊田さん はい、河川管理のDXを進めています。たとえば、ウェアラブルカメラで巡視を効率化し、報告などの対応に要する時間を3分の1に減らしました。デジタル管内図を公開して、外部からの問い合わせにかかる時間を減らしたり、オンラインで工事工程会議を行ったりしています。年間1,200万人以上が訪れる荒川の河川空間を管理する中で、職員が「もっと楽に効率化できないか」と工夫しているんです。

また、RFI(技術情報提供依頼)という取り組みも始めました。民間企業に新しい技術情報を募集し、実証フィールドとして荒川下流管内の現場を提供しています。河川巡視や点検、除草の自動化・効率化の技術を求めていて、既に複数の情報が寄せられています。これから現地での実証実験も進める予定です。

現場で汗を流す人々と政策をつなぐ役割

――国交省の仕事の魅力は何だと思いますか。

菊田さん 現場と政策が組織としてつながっている点が最大の魅力です。私は21年間で13のポストを経験しましたが、転職せずに、バラエティに富んだ新しい仕事に挑戦できる環境は、ほかにないと思います。河川防災を中心に、国内から海外まで成長の機会を与えてもらっています。

たとえば、海外での経験を通じて、日本の技術力の高さを再認識しました。インドネシアで「防災といえば日本」と言われた時、それはゼネコンやコンサル、地域の皆様のこれまでの積み上げがあってこそだと感じました。現場で汗を流す人々と政策をつなぐ役割にやりがいを感じますね。

――今後の展望をお聞かせください。

菊田さん 荒川放水路は昨年10月に通水から100周年を迎えました。気候変動の影響で大雨が増える中、地域の安全を守る使命は変わりません。新しい技術を取り入れつつ、建設業界や地域の皆様と協力して進めていきたいです。荒川下流には、青山士さんが基幹施設となる岩淵水門の設計と建設に携わったりと、新たな技術や施策を導入してきた伝統があります。その精神を引き継ぎ、DXやRFIで未来を見据えています。

日本の土木や防災の技術力は世界から信頼されており、それを支える皆様に感謝しながら、次の100年を考えたいですね。とくに、荒川水系の河川整備基本方針を今年1月に気候変動対応に改定したように、前例のない課題に立ち向かうため、流域に関係するあらゆる皆様との連携を深めていきます。地域の安全・安心を確保しつつ、日本の技術力を内外に発信していきたいです。

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