熊本県を流れる川辺川は、鮎などが泳ぐ清流として知られ、地域の文化と生態系の象徴だ。しかし、その美しさの裏には、集中豪雨による壊滅的な被害の歴史が刻まれている。
1963年の水害では、死者・行方不明者12名、全半壊流失家屋212戸、浸水家屋296戸を出した。その後も、幾度となく水害が流域に襲われた。そして2020年7月に見舞った豪雨は死者67人、浸水家屋約1万棟という未曾有の被害をもたらした。
ダム計画から半世紀以上を経た現在、国土交通省九州地方整備局川辺川ダム砂防事務所は治水と環境を両立すべく「流水型ダム」の建設を推進している。ただ、この間には、ダム建設の凍結、水害、ダム建設の復活という幕間があったことは忘れてはならない。
流水型ダムは、いわゆる穴開きダムで、平常時は水を流し、洪水時は水を貯めるという機能を備える。平常時に水を流すことで、生態系や環境を守り、洪水時は水を貯めることで、水害から守ることが期待されている。
そんな川辺川ダムを巡っては2025年6月13日、川辺川ダム砂防事務所で「第1回川辺川の流水型ダムに係る環境保全対策アドバイザリー会議」が開かれた。生態系や河川などの専門家たちが一堂に会し、洪水対策と清流の保全を両立させる流水型ダムの環境対策を巡り議論した。
本記事は、この会議のWEB傍聴を機に、ダム事業の過去と現在地、流域治水とのシナジー、未来への展望と課題などを総括しようとする試みだ。
経緯:川辺川ダム計画の凍結と復活
計画の始まりと初期の反対運動
川辺川ダム計画は、1966年に建設省(現・国土交通省)が球磨川水系の治水と利水を目的に発表したことに端を発する。当初は、洪水調節、灌漑用水の供給、水力発電を目的とした貯水型ダムとして構想され、五木村の中心部が水没する計画だった。このため、村内では故郷の喪失を危惧する強い反対運動が巻き起こった。1970年代から1980年代にかけて、環境保護団体や漁業関係者も加わり、川辺川の清流と鮎などの生態系を守るため、「ダムは自然を壊す」と訴えた。
この時期、ダム建設は地域の伝統的な生活様式や観光資源としての清流の価値を脅かすとされ、反対運動は全国的な注目を集めた。地元住民の中には、経済的補償よりも故郷の文化や歴史を優先する声が強く、計画は早くも暗礁に乗り上げた。
2008年の計画凍結:蒲島知事の「ダムによらない治水」
2008年、熊本県の蒲島郁夫知事が就任後、川辺川ダム計画の凍結を宣言した。知事の看板政策「ダムによらない治水」は、河川改修、遊水地の整備、森林管理といった代替策で治水を実現し、環境破壊や地域社会への影響を最小限に抑えることを目指した。この方針は、環境保護団体や一部住民から熱烈な支持を受けたが、治水効果の不確実性を指摘する専門家や、洪水リスクに直面する下流地域の住民からは懸念の声が上がった。
2009年、民主党政権の「コンクリートから人へ」スローガンのもと、全国のダム事業が見直され、川辺川ダム計画は事実上中断した。凍結期間中、球磨川流域では河川改修や堤防強化が進められたが、気候変動による極端気象の増加に対応するには不十分だった。
2020年の計画復活:令和2年7月豪雨と流水型ダムの提案
2020年7月の豪雨は、球磨川流域に死者67人、行方不明2人、浸水家屋約1万棟という壊滅的な被害をもたらした。境田橋周辺の映像は、濁流が街を飲み込む苛烈さを全国に伝えた。蒲島知事はダム計画の再検討を表明し、従来の貯水型ダムではなく、環境への影響を軽減する「流水型ダム」を採用する方針を打ち出した。流水型ダムは、洪水時にのみ水を貯め、平常時には川の自然な流れを維持する設計で、鮎の回遊や河川生態系の保全に配慮している。
この方針転換は、治水の必要性と環境保全の両立を目指す妥協案として提示されたが、賛否両論を呼んだ。治水を重視する住民や行政側はダムの効果を評価したが、環境保護団体や一部住民はダム建設そのものに反対し、五木村では過去の計画による地域衰退や移転負担が再び注目された。
2020年7月の豪雨の後吹き出した「人災論」
人災論:ダム中止が被害を拡大
2020年7月の豪雨後、川辺川ダム計画の中止が被害を拡大させたとする「人災論」が浮上した。主な論点は次の3つだ。
- 2008年の蒲島知事によるダム凍結と、2009年の民主党政権による事業見直しが、治水インフラの整備を遅らせた。
- 川辺川ダムがあれば、球磨川の氾濫を抑制し、被害を軽減できた可能性がある。
- ダム反対を煽ったメディアや環境保護団体のキャンペーンが、科学的根拠を欠いた「脱ダム」ブームを助長し、合理的な治水議論を妨げた。
一部では、ダム反対派が「鮎を守れ」と訴えたことが、治水の優先順位を誤らせたと主張されている。特に、豪雨被害を受けた下流地域の住民からは、ダムがあれば被害が軽減されたとの意見が強く、過去の政治的判断への不信感が広がった。
人災論への反論:ダムがあっても被害を防げなかった可能性
一方、人災論には異議も多い。地元住民や一部の学者は、川辺川ダムがあったとしても、2020年7月の豪雨の降雨量(球磨川流域で1時間に100mm超)はダムの容量を超え、被害を防げなかった可能性があるという指摘がある。
さらに、ダム建設自体が新たなリスクを生むとの反論もある。貯水型ダムの場合、堆砂や濁水が生態系に影響を与え、観光資源としての清流の価値を損なう可能性が指摘された。
妥協論:流水型ダムで治水と環境を両立させる
結果として、治水と環境を両立させるため、ダム型式を洪水調整専用の流水型ダムに変更した上で、ダム建設を再開することで、半世紀以上にわたった議論もひとまず収束を見た。可能性の議論であれば、どちらの立場であれ、いくらでもできるが、実際に水害被害が発生してしまった以上、いたずらに時間を費やすことは社会的に許容されるものではない。
流水型ダムは、河川の水質への影響は少ないとされているが、巨大な構造物を建設する以上、水質をはじめ、周辺の生態系や植生といった環境へのネガティブな影響が及ぶ懸念は残る。建設プロセスや関連工事を含め、流水型ダムによる環境負荷をどう低減させるかが、これからの最大の論点になる。
流水型ダム建設、緑の流域治水、そして共創の流域治水
流水型ダム建設に向けた進捗
川辺川ダム砂防事務所によると、流水型ダムの調査・検討は2021年から本格化し、2024年には設計段階に進んでいる。ダムの構造設計や洪水調節機能の最適化に向けた技術的検討が進行中で、2024年9月25日には、樅木川第3砂防堰堤の工事着手が発表された。これは、砂防事業と連携した総合的な治水対策の一環だ。
環境保全へのコミットメントは、流水型ダム事業の核心にある。2024年10月に公表された環境影響評価レポートは、ダム建設による生態系への影響を詳細に分析。具体的には、魚類の回遊を確保する魚道の設置、絶滅危惧種のカワシンジュガイ(淡水真珠貝)の保全、建設中の濁水対策として沈砂池の設置が計画されている。さらに、周辺の植生回復に向けた植樹や、河川の透明度を維持するための水質モニタリングが進行中だ。これらの取り組みは、流水型ダムが「環境に優しいインフラ」として地域社会に受け入れられるための基盤を築いている。
2021年度に設置された「流水型ダム環境保全対策検討委員会」は、専門家や地域住民の意見を反映し、科学的根拠に基づく対策を策定。2024年度には「環境保全対策アドバイザリー会議」が開催され、環境再生策として、ダム下流の河川環境を模した人工湿地の創出や、鮎の産卵場整備が提案された。これらは、観光資源としての清流の価値を高め、地域のブランド力を強化する可能性を秘めている。
第1回環境保全対策アドバイザリー会議の概要(令和7年6月13日開催)
2025年6月13日、国土交通省川辺川ダム砂防事務所と熊本県が共催した「第1回川辺川の流水型ダムに係る環境保全対策アドバイザリー会議」が公開形式で開催された。
この会議は、流水型ダムの環境影響最小化と自然再生に向けた具体策を検討するもの。生態系や河川など9名の専門家が、2027年度の本体工事開始と2035年度の試験湛水を前提に、モニタリング計画や動植物保全を議論する。
席上、専門家からは「カジカガエルの移転先選定には、繁殖期の生態を考慮すべき」、「土砂や支川の影響を評価する項目が不足」、「鹿害が土砂災害を増幅。農林水産省との連携が必要」、「試験湛水時の土砂堆積を事前調査すべき」などの意見が出された。
国と県の連携、科学的根拠に基づく保全策、地域共創を通じて、持続可能な治水と清流の未来を目指す議論が展開された。
緑の流域治水と共創の流域治水の具体的な取り組み
熊本県が推進する「緑の流域治水」は、球磨川流域(川辺川を含む)を対象に、ダムや堤防だけでなく、森林の保水力、農地の遊水機能、住民の防災意識向上を組み合わせた戦略だ。2020年7月の豪雨からの「創造的復興」を掲げ、以下の3つの柱で構成される:
- 自然の活用:森林や湿地の保水・貯水機能を強化し、洪水のピーク流量を抑制。
- 地域参加:住民や企業と連携し、避難体制の強化や防災教育を推進。
- 多様なインフラ:ダムや遊水池に加え、リアルタイム水位情報や早期警報システムを統合。
県は3パート構成の啓発動画を制作し、公式ウェブサイトやInstagramで公開。動画では、森林の間伐や植樹による土壌保水力の向上、農地を活用した遊水地の整備、住民参加型の防災訓練が紹介されている。
2024年度には、球磨川流域復興局が中心となり、防災マップの更新や、リアルタイム水位情報を提供するスマートフォンアプリの導入を推進。これらは、流水型ダムの自動制御システムと連動し、洪水時の迅速な対応を可能にする。
具体例として、上流の五木村では、間伐による森林管理プロジェクトが進行中だ。これにより、土壌の保水力が向上し、豪雨時の流出量が抑制される。下流の八代市では、農地を活用した遊水地の試験運用が始まり、洪水ピークを最大20%軽減する効果が確認されている。これらの取り組みは、流水型ダムの治水効果を補完し、流域全体のレジリエンスを高めている。
熊本ウォーターポジティブ・アクションをドライブする共創の流域治水
緑の流域治水の枠組みの中で、熊本県立大学が主導する「共創の流域治水」プロジェクトが、持続可能な地域社会の構築を目指して進んでいる。このプロジェクトは、球磨川流域の10年後を見据え、流域治水を核とした「熊本ウォーターポジティブ・アクション」を推進するものだ。共創の流域治水では、地域住民、企業、行政、研究機関が協働し、自然環境と経済的価値を両立させる新たな治水モデルを構築することを目指している。
具体的には、以下の要素が強調されている。
- 多様なステークホルダーの連携:住民、企業、NPO、大学が共同で治水計画を策定。2025年3月には、熊本県木村敬知事や大西一史熊本市長が参加したキックオフイベントが開催され、産学官民の協働が始動した。
- グリーンインフラの推進:森林保全や遊水地の整備に加え、雨水貯留施設や緑地帯の活用を拡大。これにより、水害リスクの低減と生態系の保全を同時に実現。
- 地域経済の活性化:治水インフラを観光や農業と結びつけ、流域全体の経済的価値を高める。例えば、遊水地周辺でのエコツーリズムや、森林管理による木材生産の振興が計画されている。
- 教育と啓発:防災教育やスタディツアーを通じて、流域住民の治水意識を向上。熊本県立大学は「緑の流域治水スタディツアーマップ」を公開し、流域の治水スポットを紹介している。
共創の流域治水は、緑の流域治水の理念をさらに進化させたアプローチだ。緑の流域治水が行政主導のインフラ整備に重点を置くのに対し、共創の流域治水は、地域住民や民間企業の主体的な参加を促し、社会的イノベーションを加速させる。2025年度の「流域治水オフィシャルサポーター制度」では、企業が治水活動に資金や技術を提供する枠組みが整備され、持続可能な資金調達モデルが模索されている。
このプロジェクトは、川辺川の流水型ダムと密接に連携する。ダムの洪水調節機能が、共創の流域治水のグリーンインフラ(森林や遊水地)と連動することで、洪水リスクの分散と生態系の保全が強化される。熊本県立大学は、米国での流域治水事例を参考にした視察動画を公開し、国際的な知見を取り入れている。 これにより、共創の流域治水は、科学的根拠と地域のニーズを融合させた次世代の治水モデルとして、国内外に向け情報発信されている。
地域との対話 透明性と住民参加
川辺川ダム事業では、「川辺川ダム事業審議委員会」を通じて、住民や関係者との対話が継続的に行われている。第1回から第3回までの議事録が公開され、五木村の水没予定地における「現地再建ずり上がり方式」や、移転世帯への支援策が議論の焦点だ。事務所は、オンライン申請システムを導入し、住民とのコミュニケーションを効率化している。
緑の流域治水でも、住民参加が重視されている。熊本県は、ワークショップや防災訓練を通じて、地域住民が治水計画に積極的に関与する機会を設けている。共創の流域治水では、住民参加がさらに進化している。熊本県立大学は、地域住民を「流域治水サポーター」として認定し、防災訓練や環境保全活動に積極的に関与する仕組みを構築している。
ダムとの共生:環境保全と観光振興への道筋
流水型ダムの建設と運用
流水型ダムは、現在の設計段階を経て、早ければ2025年以降に建設工事に着手する見込みだ。洪水調節容量の最適化や、熊本県の地震リスクを考慮した耐震設計が重視されている。気候変動による降雨パターンの変化に対応するため、最新の気象データや洪水シミュレーション技術が活用され、ダムの運用にはリアルタイム水位監視システムやAIを活用した自動制御技術が導入される予定だ。これにより、洪水時の迅速な対応と、平常時の生態系保全が両立する。
環境再生プロジェクトも注目される。ダム周辺では、カワシンジュガイの保全や鮎の回遊環境整備が進められ、観光資源としての清流の価値を高める計画だ。たとえば、ダム下流に設置予定の魚道は、最新の流体力学に基づく設計で、魚類のストレスを最小限に抑える。これにより、川辺川の「清流ブランド」が強化され、釣り客や観光客の増加が見込まれる。
緑の流域治水と共創の流域治水の拡大
緑の流域治水は、2028年までに、森林保全や遊水地整備の具体的な成果を出すことを目標としている。企業との連携による「流域治水ファンド」の設立や、清流を活用した観光振興が検討されており、地域経済の活性化に寄与する可能性がある。たとえば、五木村では、森林管理プロジェクトに伴う雇用創出が期待され、八代市では遊水地周辺のエコツーリズムが新たなビジネスチャンスを生む。
共創の流域治水は、このビジョンをさらに加速させる。熊本ウォーターポジティブ・アクションを通じて、流域全体の水循環を最適化し、治水と経済的価値の両立を目指す。熊本県立大学は、2025年度中に共創の流域治水のモデル地区を指定し、パイロットプロジェクトとして遊水地や緑地帯の整備を進める予定だ。 また、国際的なネットワークを活用し、米国や欧州の流域治水事例を参考にした技術導入も計画されている。これにより、共創の流域治水は、日本国内の他の流域や海外の治水プロジェクトに影響を与える可能性がある。
ダム事業自体も、建設工事による直接的な雇用創出や、インフラ整備によるアクセス向上を通じて、地域経済に長期的なメリットをもたらす。熊本県は、ダム周辺にサイクリングロードや自然観察ゾーンを整備する計画を検討しており、観光客の誘致と地域の魅力向上を目指している。ただし、これらの恩恵が五木村や八代市など流域全体に公平に分配されるよう、行政と住民の連携が不可欠だ。
流水型ダム、緑の流域治水、共創の流域治水の統合は、流域全体のレジリエンスを飛躍的に高める。ダムの洪水調節機能が、森林の保水力や遊水地の貯水機能と連動することで、洪水ピークを効果的に抑制。熊本県の試算では、この多層的な治水システムにより、2020年7月の豪雨と同規模の洪水でも被害を30~40%軽減できるとされている。このモデルは、気候変動による極端気象への適応力を高め、全国の河川事業の先駆けとなる可能性を秘めている。
ダム建設に伴う環境影響評価 バランスの追求の難しさ
環境影響の不確実性
前にも触れたが、流水型ダムは水質に配慮した設計だが、建設中の濁水や生態系への影響は回避できない。たとえば、ダム本体や魚道の建設中に発生する濁水は、河川の透明度や水生生物に一時的な影響を与える可能性がある。緑の流域治水や共創の流域治水の森林管理、遊水地整備も、植生の変化や土壌攪乱により、予期せぬ生態系への影響を及ぼすリスクがある。川辺川ダム砂防事務所と熊本県は、継続的なモニタリングと適応管理を約束しているが、環境保護団体からは、長期的な影響への懸念や、モニタリングデータの公開透明性を求める声が上がっている。
地域社会との摩擦
五木村の465世帯移転は、ダム計画が地域社会に与える負担の大きさを物語る。過去の計画の二転三転は、住民の信頼を損なう要因となり、2020年7月の豪雨後の計画復活は、一部住民に「また振り回される」との不信感を生んだ。
緑の流域治水や共創の流域治水の住民参加型アプローチも、一部で「負担増」と受け止められる場合がある。農地を遊水地として提供する農家からは、補償や運用ルールの明確化を求める声が上がっている。共創の流域治水のサポーター制度は住民の積極的な参加を促すが、高齢化が進む地域では、参加のハードルが高いとの指摘もある。川辺川ダム砂防事務所と熊本県は、審議委員会や住民説明会を通じて対話を重ねているが、完全な合意形成には時間がかかる。
財政とスケジュールの制約
流水型ダム、緑の流域治水、共創の流域治水は、多額の予算と長期的なスケジュールを必要とする。随意契約結果の公表が九州地方整備局に移管されたことからも、財政管理の厳格化が伺える。しかし、資材価格の高騰、労働力不足、気候変動による工事遅延リスクは、予算超過やスケジュール遅延の要因となり得る。特に、2020年7月豪雨後の復興需要が重なり、建設業界の人材不足が深刻化している点は、事業の大きな障壁だ。共創の流域治水の「流域治水ファンド」は、民間資金の導入による財政負担軽減を目指すが、企業参入のインセンティブ設計が課題となっている。
環境イデオロギーは自然現象の前には無力だった
川辺川ダム計画の二転三転と2020年7月豪雨の人災論は、治水、環境保全、地域社会の利害が交錯する複雑さを象徴している。過去の「ダムによらない治水」や「脱ダム」政策は、環境意識のイデオロギーを反映した一方、水害という自然現象という現実には無力だった。
流水型ダム、緑の流域治水、共創の流域治水は、技術革新と地域参加を通じて、このギャップを埋める試みだ。流水型ダムは「自然との調和」を、緑の流域治水は「流域全体のレジリエンス」を、共創の流域治水は「社会イノベーション」を追求し、従来の治水パラダイムを進化させている。
しかし、技術だけでは不十分だ。人災論が示すように、インフラ開発の責任は、政治家、行政、住民、メディアのすべてが共有する。蒲島知事の凍結宣言や民主党政権の事業見直しは、当時の社会的要請に応じたものだったが、結果として被害を拡大させたとの批判は、意思決定の長期的な影響を考える重要性を浮き彫りにする。共創の流域治水の多ステークホルダーアプローチは、この責任を分散させ、住民や企業を意思決定の主体に据えることで、過去の失敗を繰り返さない仕組みを模索している。
川辺川の挑戦は「持続可能性」と「適応力」の試金石だと言える。環境影響の不確実性、地域との対立、財政的制約を克服するには、科学的根拠に基づく透明な意思決定と、住民との継続的な対話が不可欠だ。このプロジェクトは、日本のみならず世界のインフラ開発に影響を与える可能性がある。気候変動による極端気象が世界中で頻発する中、川辺川の多層的な治水モデルは、都市計画や災害対策の新たなスタンダードとなり得る。だが、その成功は、地域住民の声と自然の声を等しく尊重する姿勢にかかっている。
自然や自然現象に人はどう向き合うべきか
過去のダム建設計画の二転三転、2020年7月豪雨の人災論は、治水の複雑さと責任の重さを悔恨を伴うカタチで教えてくれた。たとえば、流行りのイデオロギーに安易に乗っかって、インフラの是非を判断すると、最悪の結果を招くといったことだ。
川辺川の流水型ダム、緑の流域治水、共創の流域治水は、この教訓をもとに、自然や自然現象というリアルな課題に人はどう向き合うべきかという問いに回答しようとする試みだ。これらが正解なのかどうか、当然まだ誰も知らないが、せめて正解に近づいているものであってほしい、と願うばかりだ。