関東地方整備局は、日本経済と文化の心臓部に当たる首都圏のインフラ整備を担うセクションだ。この巨大な都市圏を支えるインフラの中でも、河川事業は特に重要な役割を担う。利根川や荒川といった日本を代表する河川は、洪水から都市を守り、首都圏の生活を支える水を供給する一方で、豊かな自然環境の保全という使命も背負っている。しかし、気候変動の影響が顕著になる中、これまでの治水・利水の枠組みでは対応しきれない新たな挑戦が求められている。
そんな重い使命を担う関東地方整備局の河川部長として、以前取材した国土交通省の室永武司氏が2025年4月に就任した。室永氏は、関東の河川事業における「革新と挑戦」をどう捉えているのか。DX、GXへの取り組みを中心に、お話を伺った。
室永武司のキャリア 関東地整での勤務経験がもたらす視点
室永氏のキャリアは、関東地方整備局と縁が深い。室永氏は3度の本局勤務を経験している。河川計画課長、広域水管理官、そして現在の河川部長という3つのポジションを通じて、関東の河川事業の全体像を俯瞰してきた。
「たまたま出目が全部関東に揃って、しかも全部本局。事務所勤務の経験がないのは、かなり珍しいパターンだと思います」と指摘する。この連続性は、過去のプロジェクトの進捗を追い、仲間との信頼関係を築く上で大きな強みとなっている。特に、政権交代期に担当した八ッ場ダム事業や、霞ヶ浦導水事業の裁判対応など、複雑なプロジェクトを一貫して見届けてきた経験は、現在の河川部長としての仕事に直接活きている。
「当時の流れを組んでいる仕事を今もやっているので、非常にやりやすい。気心の知れた仲間と一緒に仕事できるのも大きいですね」と語る。その言葉からは、関東の河川事業が持つ連続性と、チームワークの力が伺える。
気候変動という切迫した課題 令和元年台風第19号の衝撃
室永氏が最も力を入れる課題は、気候変動への対応だ。2025年現在、気候変動は単なる未来の脅威ではなく、目の前の現実として河川事業に影響を及ぼしている。特に、令和元年(2019年)の台風第19号は、室永氏にとって決定的な転換点だった。「利根川の堤防の数メートル下まで水が来たんです。日本で最も整備が進んでいる利根川で、もしあの台風がもっと強かったら、氾濫していたかもしれない。あの光景は、気候変動が頭でわかっていたことを現実に突きつけられた瞬間でした」と振り返る。
台風第19号は、那珂川や久慈川で複数箇所の氾濫を引き起こし、関東地方に甚大な被害をもたらした。利根川でも、堤防が耐えられる限界に近い水位を記録した。この経験から、室永氏は「これまでのインフラの容量では、将来の気候変動に対応しきれない」と確信する。2025年3月に変更された利根川水系利根川・江戸川河川整備計画では、気候変動を明確に視野に入れた対策が盛り込まれた。「次の10年、20年で本気の気候変動対策を進めないと、次に台風第19号級の災害が来たときに耐えられない可能性がある。この切迫感は常に持っています」と強調する。具体的な対策としては、堤防の強化や調節池の拡充に加え、流域治水の推進が挙げられる。
流域治水 全員野球で挑む新たな治水のカタチ
関東地方整備局が推進する「流域治水」は、河川管理者だけでなく、自治体、住民、企業など流域全体が連携して洪水リスクを低減するアプローチだ。この概念は、鶴見川や中川・綾瀬川といった都市化が進んだ地域での成功を背景に、全国に広がりつつある。「鶴見川は、流域治水の原点とも言える場所。下流部は河床勾配が緩く、かつ蛇行し流水が滞留しやすい。そのため、川だけで洪水を防ぐのは難しく、下水道や都市計画と連携して対策を進めてきました」と説明する。中川・綾瀬川でも、調節池の整備、雨水タンクや校庭貯留などの流域の対策を進め、洪水負荷の軽減に効果を上げている。
流域治水の強みは、都市部だけでなく、今後開発が進む地域にも適用可能な点にある。「首長さんたちと一緒に、開発のペースやエリアの役割分担を議論する。これからのフェーズでは、災害リスクの少ないまちづくりをどう誘導するかがカギ」と言う。東京都の「グリーンビズ」施策や、世田谷区の雨水貯留施設の取り組みも、流域治水の一環として連携が進む例だ。「流域治水は全員野球。河川管理者が起点となりつつ、自治体や民間が一緒になって地域を守る。この考え方は、関東の職員にはすでに染みついています」と室永氏は自信を見せる。関東地方整備局は、流域治水においても、トップランナーとして全国にそのモデルを発信する役割を担っている。
グリーンインフラとDX 先進的な取り組みの二本柱
関東の河川事業の変革を象徴する2つのキーワードがGXとDXだ。どちらも、これまでの河川事業を次のレベルへと引き上げるテコとなる。
グリーンインフラ 渡良瀬遊水地の多面的な価値
渡良瀬遊水地は、関東地方整備局のグリーンインフラの象徴だ。面積33km²、総貯水量1億7,000万㎥を誇る日本最大の遊水地は、洪水調節や水道水の供給だけでなく、豊かな生態系の保全にも貢献している。2012年にはラムサール条約湿地に登録され、1,000種以上の植物や270種の鳥類が生息する生物多様性の宝庫として知られる。
特に注目すべきは、コウノトリの野生復帰に係る取り組みだ。渡良瀬遊水地では、2014年に27年ぶりのコウノトリの飛来が確認され、2020年には人工巣塔でヒナの孵化・巣立ちが実現。周辺自治体の首長や住民が一体となり、6年連続で野外繁殖が確認されている。「コウノトリが生息できる環境は、生き物が豊かな証。治水施設を超えた価値を地域に提供できている」と胸を張る。
利根川下流でも、高水敷を活用した自然再生プロジェクトが進む。高水敷を意図的に水が溜まるように改修し、ワンド(川の水とつながった池のような地形)や湿地を創出。地元中学生や学術研究者と連携し、野生生物の生息地を創出している。「エコロジカル・ネットワーク」と名付けられたこの取り組みは、渡良瀬遊水地で育ったコウノトリが下流に飛来するなど、流域全体での生態系のつながりを生み出している。「環境は、かつては治水の付随的な要素と見られがちだった。でも、関東では1997年の河川法改正の精神を現場で実践し、環境保全・創出を事業の柱に据えてきた。グリーンインフラは、その最前線です」とチカラを込める。
DX 管理の効率化とサービスの高度化
一方、DXは河川事業の生産性向上とサービス向上を目指す取り組みだ。特に、建設現場では「i-Construction」として知られる自動化技術が進展している。霞ヶ浦導水事業では、シールドマシンによるトンネル工事や、自然由来の重金属を含む残土の自動分別が導入され、ゼネコン主導で効率化が進む。「建設分野のDXは、民間の技術提案のおかげでかなり進んでいる」と評価する。
しかし、室永氏は、河川管理分野のDXは「道半ば」と評価する。荒川下流河川事務所の出張所では、3D点群データや専用アプリを活用した河川管理の効率化が始まっているが、これを全域に一般化する必要があるからだ。「管理のDXは、省力化だけでなく、国民へのサービス向上にもつながる。たとえば、草刈りの自動化はコスト削減だけでなく、作業員の労働環境改善にも貢献します」と言う。
草刈りは、堤防の点検を目的とする重要な作業だが、炎天下やヘビ・ハチといったリスクの中で行われる。遠隔操作や自動化を段階的に導入することで、作業員は空調の効いた環境で作業でき、効率も向上する。「最終的には、人と機械の役割分担を明確にし、10年後の完全自動化を目指したい」と意気込む。
ただし、DXには落とし穴もある。「なんでも『DX』と叫ぶだけではダメ。ニーズを明確にし、汎用性を高めて全国に広げる視点が必要」と指摘する。管理分野のDXを加速させるため、河川部長在任中に一定の成果を上げることを目指す。
上下水道の統合 水管理の新たな地平
2024年から、関東地方整備局の河川部は上下水道の管理も担うようになった。これは、水資源の統合管理(Integrated Water Resources Management)に向けた確実な一歩だと言える。
従来、下水道は地整レベルでは建政部所管(本省レベルは下水道部)であり、水道に至っては厚生労働省所管だったが、上下水道事業の整備面が国土交通省に一本化されたことに伴い、地整レベルでも河川部所管に移行した。この移管により、河川・ダム・水道・下水道の一元管理体制が一歩進んだカタチになる。
室永氏は、上下水道統合の意義について、「水道事業者と河川管理者が同じ組織にいることで、互いのニーズを直接理解できる。10年後には、効率的で統合的な水管理を実現できる人材が育つはず」と期待を寄せる。実際、2025年1月の八潮市の下水道陥没事故では、河川部と道路部が連携し、埼玉県を全面サポートした。現場を知る河川部の強みが発揮された事例だ。
「首長さんたちから、これまで本省とのみの会話が多かったが、河川部長と現場目線で話せるので嬉しいといった声を多く聞きます。従来の本省とのやり取りとは違う、現場力ある地方整備局ならではの頼もしさを感じてもらえている」と手応えを語る。水の循環サイクルを一元管理するこの取り組みは、アカデミズムが長年提唱してきた理想の姿に、少しずつではあるものの、着実に近づいているようだ。
若手育成と組織の未来 純粋な志をどう引き出すか
河川事業の未来を担うのは、若い世代だ。しかし、待遇面で民間企業に劣る公務員の採用は、近年厳しい状況にある。室永氏は、若手の純粋な志をどう引き出し、組織の魅力を伝えるかに腐心している。
「若い職員は、洪水から人々を守りたい、自然環境を良くしたいという純粋な気持ちを持っている。利根川下流の自然再生プロジェクトも、若手が主体的に取り組んでいる例です」と語る。こうした仕事の価値を伝え、自己実現の場を提供することが、採用のカギだと考える。
「待遇面は組織として頑張るしかないが、地域や自然のために直接貢献できる仕事の意義は大きい。リクルートでその価値をどう伝え、希望する配属で自己実現を支援するかが重要」と強調する。
関東から全国へ、変革の波を
関東地方整備局の河川事業は、気候変動への対応、流域治水、グリーンインフラ、DX、上下水道の統合といった多様な挑戦を通じて、変革の最前線を走っている。室永氏のリーダーシップの下、過去の経験と未来のビジョンが融合し、首都圏の安全と豊かな自然環境を守る新たなモデルが生まれつつある。
「関東は、流域治水やグリーンインフラのトップランナー。気候変動という現実を前に、私たちは次のステージに進まなければならなりません」と意気込む。その言葉には、首都圏を守る重責と、全国に変革の波を広げる使命感が込められている。
関東の河川事業は、単なるインフラ整備を超え、人と自然が共生する未来を切り開く挑戦とも言える。この変革の波は、関東から全国へ広がっていくことが期待される。