渡良瀬遊水地は、栃木県、群馬県、埼玉県、茨城県の4県にまたがる、日本最大の遊水地だ。利根川、渡良瀬川、思川、巴波川が合流する広大な氾濫原に位置し、約3,300haの面積を持つこの施設は、洪水対策の要として明治時代から整備が進められてきた。近年では、単なる治水施設を超え、生物多様性の保全や地域住民の参加を軸とした「グリーンインフラ」としての役割が注目されている。
本記事では、利根川上流河川事務所の担当者への取材をもとに、渡良瀬遊水地の歴史的背景、治水機能、生態系保全、そしてグリーンインフラとしての意義に迫る。
歴史的背景:氾濫原から遊水地へ
渡良瀬遊水地の起源は、足尾銅山鉱毒事件に遡る。明治時代、足尾銅山から流出した鉱毒が渡良瀬川流域を汚染し、周辺地域に深刻な被害をもたらした。この問題を解決するため、政府は鉱毒を含む洪水を一時的に貯める場所として、渡良瀬川下流の氾濫原を遊水地として整備することを決定。1900年代初頭から本格的な工事が始まり、戦後には治水機能の強化と拡張が進められた。
「元々この地域は、複数の河川が合流する低平地で、洪水が頻発する場所でした。鉱毒問題がきっかけでしたが、洪水を貯める場所として遊水地化することで、治水と鉱毒対策を同時に実現しようとしたのです」と、利根川上流河川事務所の担当者は語る。しかし、この整備には代償も伴った。遊水地化に伴い、谷中村(現在の栃木県栃木市藤岡町付近)に住む住民が強制的に移転させられるなど、地元コミュニティへの影響は大きかった。
それでも、渡良瀬遊水地は今日、首都圏の洪水リスクを軽減する重要なインフラとして機能している。2019年の台風19号では、約1億6,440万㎥の水を貯留し、下流の利根川の栗橋観測所で水位を約1.6m下げる効果を発揮したと推定されている。「もし遊水地がなければ、計画水位を大きく超え、甚大な被害が出ていた可能性があります」と強調する。
治水機能の詳細:首都圏を守る洪水対策の要
2019年の台風19号で満水状態となった渡良瀬遊水地(利根川上流河川事務所提供)
渡良瀬遊水地の最大の特徴は、その卓越した治水機能にある。遊水地の総貯水容量は約1億7,000万㎥で、これは一般的なダムの2~3倍に相当する規模だ。「この容量は、首都圏に近い中流域に位置する遊水地としては非常に大きく、洪水時の水位上昇を抑制する効果が期待できます」と担当者は説明する。
遊水地の治水メカニズムは、周辺の河川堤防より低い「越流堤」を通じて洪水を自然に取り込む方式を採用している。洪水が発生すると、利根川や渡良瀬川の増水が越流堤を越えて遊水地内に流入し、一時的に水を貯留。これにより、下流域への水の流れを緩和し、氾濫リスクを軽減する。特に、2019年の台風19号では、この仕組みが顕著な効果を発揮した。「台風19号は、遊水地がこれまで経験した中で最も多くの水を貯め込んだ事例です。栗橋観測所での水位が約1.6m低下したと推定され、計画高水位(安全に流せる水位)を完全に超える事態から防ぎました」と振り返る。
この治水効果は、首都圏全体の洪水リスク軽減に大きく寄与している。渡良瀬遊水地がなければ、利根川下流域の都市部—東京都、千葉県、埼玉県など—で深刻な浸水被害が発生していた可能性が高い。「直接的な因果関係を証明するのは難しいですが、遊水地の存在が首都圏を洪水から守ったと言えるほどの役割を果たしています」と語る。
さらに、遊水地の治水機能は、単なる洪水貯留にとどまらない。遊水地内には、第一調整池、第二調整池、第三調整池という3つのエリアがあり、それぞれが異なる役割を果たす。第一調整池は主に渡良瀬川からの洪水を貯留し、第二・第三調整池は巴波川や思川からの流入を管理。これにより、複数の河川からの洪水を効率的に制御する。「3つの河川が合流する複雑な地形を活かし、洪水を分散させて貯める仕組みは、渡良瀬遊水地のユニークな強みです」と指摘する。
しかし、気候変動による豪雨の激化に伴い、従来の治水機能にも限界が指摘されている。「これまでは自然流入に頼っていましたが、洪水のピーク時に容量が不足するリスクがあります。本来、流せる水を先に貯めてしまい、必要な時に容量が足りなくなる可能性があるのです」と担当者は懸念を示す。この課題に対応するため、現在、流入制御型の施設への改良が検討されている。これは、洪水調節施設を徹底的に有効活用するため、技術革新を推進し、無動力・省力化を図った可動堰化の越流堤とする仕組みだ。「技術的に実現可能かはまだ未知数ですが、専門家を交えて基礎調査を進めています。気候変動に対応するには、こうした機能強化が不可欠です」と強調する。
グリーンインフラとしての特徴:治水と生態系の両立
渡良瀬遊水地にいるコウノトリ(利根川上流河川事務所提供)
渡良瀬遊水地が「グリーンインフラ」として注目される理由は、治水機能と生態系保全の両立にある。グリーンインフラとは、自然の機能を活用して社会課題を解決するアプローチを指し、渡良瀬遊水地はそのモデルケースとして評価されている。
1.ラムサール条約湿地としての価値
2012年4月、渡良瀬遊水地はラムサール条約の登録湿地に指定された。ラムサール条約(正式名称:特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約)は、1971年にイランのラムサールで採択された国際条約で、湿地の保全と持続可能な利用を目的としている。世界的に重要な湿地を登録し、生物多様性の維持と地域社会の利益を両立させる取り組みを推進する。この背景には、地元住民や市民団体の長年にわたる環境保全活動がある。「登録前から、湿地環境の価値に注目していた地元の方々が、積極的に保全活動を展開していました。遊水地周辺の4市2町の市民団体や関係団体が中心となり、行政と連携して登録を目指した結果です」と説明する。
渡良瀬遊水地は、ヨシ原や湿地、河川、湖沼といった多様な環境が広がり、約1,000種以上の植物と2,000種以上の昆虫が生息。特に、コウノトリやチュウヒなどの絶滅危惧種が確認されており、生物多様性の宝庫となっている。コウノトリの野生復帰プロジェクトでは、小山市が中心となって人工巣を設置し、冬期湛水田(冬水田んぼ)を整備。餌場となる水辺環境を整えたことで、2019年以降、6年連続でコウノトリの繁殖が確認されている。「地元が主体的に取り組んだ結果、コウノトリが定着しました。私たちは工事や管理の面で配慮しつつ、支援する役割です」と語る。
2.住民参加と地域活性化
グリーンインフラのもう一つの柱は、住民参加による地域活性化だ。渡良瀬遊水地では、渡良瀬遊水地保全・利活用協議会や渡良瀬遊水地湿地保全・再生検討委員会、渡良瀬遊水地エリアエコロジカル・ネットワーク推進協議会といった場を通じて、自治体、市民団体、研究者が連携。湿地の保全や利活用策を議論している。「なかでも渡良瀬遊水地保全・利活用協議会は、地元が主体となって運営されています。当初は国が事務局を担っていましたが、近年、事務局は地元に移行され、現在は栃木市が事務局を担っており、自治体の役割が強まっています」と言う。
こうした取り組みは、地域の誇りにもつながっている。たとえば、小山市では冬水田んぼの取り組みが農業と生態系保全を両立させ、地域ブランドの強化に貢献。コウノトリの繁殖成功は、地元住民にとって環境保全の象徴となり、観光や環境教育の資源としても活用されている。「渡良瀬遊水地の事例を他の地域に発信することで、グリーンインフラの考え方を広めたい」と意気込む。
3.気候変動への適応:治水機能の進化
気候変動による豪雨の増加を受け、渡良瀬遊水地の治水機能も進化を迫られている。従来、遊水地は周辺の堤防より低い「越流堤」を通じて自然に水を取り込む仕組みだったが、担当者は「これでは、本当に必要な時に容量が不足する恐れがある」と指摘。新たな計画では、流入量を制御し、必要なタイミングで水を貯める「流入制御型」の施設への改良が検討されている。
「技術的にどこまで可能かは未知数ですが、気候変動に対応するには、既存施設の能力を強化する必要があります。専門家を交えた検討を進めていく段階です」と語る。このような機能強化は、グリーンインフラの理念とも合致する。自然の地形や生態系を最大限に活かしつつ、最新の技術で治水効果を高める試みは、渡良瀬遊水地が未来のインフラモデルとなる可能性を示している。
課題と展望:自然との共生をどう実現するか
1.イノシシ問題と生態系管理
渡良瀬遊水地が直面する課題の一つは、イノシシの急増だ。2025年3月の調査では、遊水地内に1,044頭のイノシシが確認され、堤防の掘り返しや農作物への被害が深刻化している。「令和元年の台風19号以降、急激に増えた印象です。地元住民も困っており、県や地元市町と連携して捕獲や管理を進めていますが、頭の良い動物なので簡単ではありません」と語る。
イノシシ問題は、グリーンインフラの難しさを象徴している。自然環境を保全する一方で、人間活動とのバランスを取る必要がある。「適度な数に抑える管理が理想ですが、繁殖力が旺盛でその線引きは難しい」と担当者は認める。鹿や他の野生動物の増加も含め、生態系全体のモニタリングと管理が今後の課題だ。
2.デジタル化と情報発信
グリーンインフラの価値を広く伝えるため、デジタル技術の活用も検討されている。たとえば、ドローンで撮影した遊水地の映像をウェブ上で公開したり、イノシシの出没情報をリアルタイムで共有するマップの作成がアイデアとして挙がる。「現時点ではアナログな情報発信が中心ですが、ニーズに応じてデジタル化を進めたい」と言う。こうした取り組みは、利用者の安全確保や環境教育の充実にもつながるだろう。
3.地域との対話と理解の深化
渡良瀬遊水地の整備には、過去に住民移転という痛みを伴った歴史がある。担当者は「事業の必要性を正確に説明し、住民の理解を得ることが重要」と強調する。近年、気候変動の影響で豪雨や猛暑が身近な問題となり、治水施設の必要性に対する理解は高まりつつある。しかし、「被害が起きないと効果が見えにくい」という治水事業のジレンマは依然として存在する。
グリーンインフラとしての遊水地は、この課題に対する一つの回答だ。自然環境を活かしながら治水を実現することで、住民の理解を得やすく、地域全体のレジリエンスを高める。「遊水地は、環境破壊の象徴と指摘されてきたダムとは異なり、共生のモデルとして受け入れられやすいのかもしれない。ただし、過去の歴史を忘れず、丁寧な対話を続ける必要があります」。グリーンインフラとしての渡良瀬遊水地の多面的な役割に関する積極的な情報発信も必要だ。「渡良瀬遊水地の事例を他の地域に広めたい。他の遊水地などでも、グリーンインフラの視点を取り入れることで、地域が活性化し、持続可能な社会が実現できるはずです」続ける。
現代のインフラに求められる自然と共生する姿勢
現代のインフラ開発において、自然との共生はもはや選択肢ではなく、必須の視点ではないだろうか。従来の鉄やコンクリート中心の「グレーインフラ」は、洪水や災害リスクを軽減する一方で、生態系の分断や地域の景観破壊といった負の影響をしばしば引き起こしてきたし、これからも引き起こすリスクがある。
渡良瀬遊水地が示すグリーンインフラのアプローチは、このパラダイムを根本から変える可能性を秘めている。自然のプロセス—たとえば、湿地の水貯留機能や植生の土壌安定効果—を最大限に活用することで、インフラは単なる機能的構造物を超え、地域の生態系や文化、住民の生活と調和する存在となり得る。
渡良瀬遊水地の事例は、インフラが自然と共生するモデルとして、重要な教訓を提供する。コウノトリの繁殖やラムサール条約登録は、自然環境の保全が地域のアイデンティティを強化し、住民の誇りを育むことを示した。一方で、イノシシ問題や気候変動への対応は、自然との共生が単なる理想論ではなく、複雑な課題への継続的な対処を必要とする現実であることを浮き彫りにする。インフラ開発の未来は、こうしたバランスを取るための技術革新と、地域住民や専門家との協働にかかっている。
グリーンインフラは社会全体のレジリエンスを高める。渡良瀬遊水地が洪水を防ぎつつ生物多様性を守るように、自然を基盤としたインフラは、気候変動や都市化の圧力に適応する柔軟性を持つ。これは、都市計画や交通インフラ、エネルギーシステムにも応用可能な考え方だ。たとえば、緑地を活用した雨水管理や、再生可能エネルギーと生態系を統合した施設設計は、持続可能な社会の基盤となり得る。渡良瀬遊水地は、こうした未来のインフラ像を具体化する先駆者であり、その成功は他の地域や分野への波及効果を約束する。
自然との共生をインフラに組み込むことは、単に環境を守る行為ではない。それは、人間社会が地球と調和しながら繁栄するための、新たな社会契約を築く試みだと言いたい。渡良瀬遊水地が切り開いた道は、インフラが地域の歴史や生態系、そして未来の世代と深くつながる可能性を示している。この共生のモデルを広げることで、私たちはより強靭で、調和の取れた世界を築くことができるだろう。