【対談】真の土木技術者の条件とは何か?
土木技術者とは、読んで字のごとく、土木に関する技術を持った人間のことを指す。多くの人間が「技術」という言葉を当たり前のように使っているが、あるとき「技術」とは何を指すのだろうか、という疑問が湧いた。
実務経験を積んでスキルを身につけることか、難工事を完成させることなのか。それとも多くの資格を取ることなのか、よくわからない状態が続いた。
そこで思いついたのが、高知大学の原忠教授と、礒部組の宮内保人技術部長の対談だ。学術研究と施工管理。一見かけ離れた世界のようだが、「二人はきっと響き合う」という予感があった。
この二人なら答えを出せると考えたわけではない。答えを導き出そうとするプロセスの中で、ヒントになる話を聞けるだろうと考えたわけだ。シナリオも打ち合わせもなく、二人の対談は始まった。
土木にはエリートも必要だが、馬鹿も必要だ
宮内 保人 有限会社 礒部組 技術部長
宮内 以前、「施工の神様」に「土木は学歴のない馬鹿のやる仕事」という記事がありました。しかし、そうではないですよね。優秀な人材やエリートも必要でしょうが、馬鹿の存在もまた必要。エリートと馬鹿のチームワークと総合力で勝負するのが土木だと私は考えています。
原 そうですね。私も、おっしゃることはよくわかります(笑)。一つの目標に向かってみんなで汗をかきながら、がむしゃらに頑張る。その結果一つの答えが見えるのが土木だと思います。想像力というか、突拍子もないアイデアをパッと出すことが実は大事です。そのためには、基礎的な学力に加えて現場に行ってモノを見る経験が必要になります。研究も同じところがあって、ペーパーを読んでいるだけでは良い研究はできません。頭と体を動かさないと。
宮内 そういえば、原先生は、「施工の神様」のインタビューで、「実際の現場に行って、感じ取ることが大事だ」とおっしゃっていましたね。
原 ええ。最近の学生は全体的に基礎学力に優れ、優秀ですが、個性的な学生はわずかしかいません。いくら学力があり成績の良い学生であっても頭でっかちでは、総合力がある人間とは言えません。実際の現場を見ることで、感性を磨くことも大事な教育と考えています。研究室として、いろいろな人からお話しを聞く場を持つのも、個々の想像力を磨く上で必要なことだと考えています。
研究室のゼミでは立場や仕事の内容が異なる方々にそれぞれの見方や経験をお話しいただいていますが、みなさんどこか共通するところがあります。それが聴いていて面白い、学生も私もためになっています。
土木の感性は、試行錯誤の努力で得られる
原 忠 高知大学 教育研究部 自然科学系理工学部門 教授
宮内 学問研究の分野で、感性は磨かれるものですか?
原 もちろん最初はうまくいきません。むしろうまくいかないことに気づくのが大事ではないですか?
宮内 そうです。とても大事です。
原 うまくいかないからこそ学生は四苦八苦する。時間をかけて自分なりの答えを見つけ出していく。ヒントは友達などに与えてもらっても良いでしょうが、最終的に自分で物事と向き合い、ある時パッと答えを見つける。見つかったら後は楽しみながら研究を進める。
一方でいつまでも言われたことだけをやっている、与えられた問題だけを解く、作業するだけの技術者にはなって欲しくない、というのが私の教育面からの思いです。
宮内 今の先生の言葉は、私が仕事をするとき、常に心の中に留めている言葉と重なります。30年くらい前、高知県を代表する設計技術者の方に、「君らは、設計にない構造物をどうやって決めるんだ?」と質問されたことがありました。
私は「標準図集を現場に当てはめます。当てはまらない場合は、経験と勘ですね」と、ロクな経験と勘もなかったくせに答えました。するとその人は、「まさにそこなんだよ。設計で大切なものは経験と勘、計算ありきの世界ではないんだよ」と言われました。それ以来、その言葉が心の中にずっと残っています。
「勘」と言うと、直感的な何かと捉えられがちですが、私の言う「勘」はそういうものとは違います。経験を積み重ね試行錯誤をした結果によって得られるものです。
原 経験や現場での裏付けに基づいた勘ですよね。
宮内 そうです。原先生が言う感性に近い。
原 芸術的な感性という意味ではありません。失敗を重ねながらも自分の責任で物事を考え続け、一つの方向性を見出す努力の積み重ねによって培われるものです。研究も常に新しいことにチャレンジしなければなりません。先輩が素晴らしい研究をしていたとしても、時間がかかってもすべて自分で理解し、体感しないと次の答えは出ないと思います。
宮内さんのおっしゃる勘と同じことです。学生も何度も現場に行くと、ちょっとしたことかもしれませんが創造性が働く。ちょっと周りを見渡して「ここでこういうことをすべきだ」とか、作業の優先順位のつけ方、スケジュールの考え方などいろいろ気づき始めます。
宮内 ひょっとして原先生のような大学教授は一般的ではない?
原 一般的ではないかもしれませんね。
宮内 でしょうね(笑)。
「図面通り作った」は、主体性のないイマイチな技術者だ
原 なぜ私が創造性にこだわるかというと、「施工の神様」の記事にも出ていますが、民間のコンサルタントで働いた経験があるからです。一流の技術者は個人の能力、資質が常に問われます。カタにはまったことだけやっていれば良い、というわけにはいきません。そういうことを大学で学ぶには、研究を通じた活動しか体験できません。土木に必要な勘、技術、人付き合いを学ぶのは大学の研究室が重要な過程ということです。
宮内 そういう原先生の考え、私は好きですね。土木にはトータルな思考や能力が必要というところが。
原 基礎学力は必須ですが、世の中、学問だけではありませんからね。
宮内 大事なことです。ところが、現場の人間にも、トータルなものが必要だと考える人間は意外と少ないんですよ。例えば、そのひとつの現れとして、「設計図書の通りに仕事をすれば良い」と考える人がけっこう多いということが挙げられます。かつて、部下とこういうやり取りがよくありました。
宮内「なんでこういうモノを作ったの?」
部下「いや、図面通り作りました」
宮内「お前、図面通りに仕事したらいかんわ」
確かに、「設計図通り作った」というのは、一応の免罪符にはなりますよね。結果的にダメなものができたとしても「設計指示が悪いからでしょ」と言える。でも「それでいいのか?」という話です。
原 本人に主体性、仕事に対する誇りがないのでしょうね。
宮内 そうです。私に言わせれば「それでもプロか?」ということです。
原 誇りや経験もその人の持つ能力の一つです。単に作って完成検査を受けておしまいではなくて、その後のことを考えた対応策など、自分なりの工夫は必要です。標準図表にこういうモノを足したのだというものが。そういう工夫をするには責任を伴います。責任をとるためには知恵、知識が必要になります。主体的に一歩踏み出す、頼りがいがあり度量の広い人が土木には必要です。
宮内 そういう意識を持てるようになれば、土木はものすごく面白くなります。と同時に奥が深くもなります。
原 そうなると、貪欲になるでしょう。新しいことをドンドン学ぶようになる。新しいことを学ぶかどうかは自己判断ですが、日々頭を使って考えて想像している人。そういう人こそ、真の技術者だと思っています。
宮内 土木はそういうところがありますね。仕事以外のことが確実に仕事のプラスになります。ただ、そういった別分野での経験を応用するというのは、誰でもできることではありません。
原 それができるようになるのも、やはり経験ではないですか。1年、2年では難しいでしょう。大学でも大学院まで進まないと応用力は身につきません。懇親会の段取りなどもそうです。経験や先の見通しがつくかつかないかで、動きがずいぶん違ってきます。
宮内 私も昔、若い人を育てるのに、まずは酒席の段取りを任せていました。「飲み会の段取りもできないヤツは、仕事の段取りもできない」という考えからです。ただ、私の弟子には、飲み会の段取りは一流でも、仕事はイマイチっていうやつもおりますが(笑)。
真の土木技術者は、夢を語れるトータルな存在
宮内 もうひとつ原先生の「施工の神様」の記事で印象に残ったのは、「お役に立つ」というフレーズが何度も出てきていたことです。「人のお役に立つ」「社会の役に立つ」という言葉が随所に出ていたことを覚えています。私にとっても、「お役に立つ」という言葉がとても重要なキーワードですから。
原 土木工学はそれが使命ですから。
宮内 その通りです。
原 技術者にとって、プロフェッショナルなスキルを持つことはもちろんですが、それ以外に倫理観とか社会性なども問われる職業だと考えています。それが技術者、エンジニアです。一方で、溶接とか測量とか個々のスキルに特化した方は、その道のプロフェッショナルですが、そういう方は技能者、テクニシャンであるというのが私の意見です。良い悪いではなく、役割が違うということです。
宮内 それって、土木の世界だけとは言いませんけど、ある意味で土木独特のことではないでしょうか。ただ、現実には先生がおっしゃる地点までに至ることができる人間は、そんなにはいないかもしれません。倫理観や社会性が要求される立場の人間であるにもかかわらず、実際には、そのレベルに達していないか、「そこは自分ではない」と思っている人が多いのではないでしょうか。
技術者として、一つの現場を回していく場合、必然的にテクニックやスキルだけではダメな部分が出てくるわけですが、にもかかわらず、それに気づかない技術者は多い。施工の現場は、その現場だけで閉じているわけではなく、世間との接点です。原先生のおっしゃる倫理観に相当する部分が、そこでは求められる場合があるのですが、「そこは俺じゃない」という技術者はけっこういるものです。土木技術者という概念は、そういう部分も含めた総合的なものなんです。
原 おっしゃることは良くわかります。工学的な知識と経験工学的なものも兼ね備えた存在こそが、信頼ある真の技術者であるという点では、同じことをおっしゃっていると思います。土木の仕事は自然を相手に真摯に向き合っていかないと、うまくいかないところが出てくるでしょうね。
宮内 ひとくちに土木技術と言いますが、「狭義の土木技術」と「広義の土木技術」というものがあると私は考えています。「土木技術」と言うと、「純粋土木技術」とでも言うか、狭い意味でしか捉えられない場合が多いのですが、広い意味で解釈すると、倫理観とか社会性への考察が入って来ざるを得ないでしょう。私も、原先生の意見に同感です。
原 大局的に土木の仕事は何かと考えると、責任のある仕事であるし、夢を語らなければならない仕事だと思うのです。私が言った倫理観はそういうものを含んだ言葉なのです。構造物の精度はもちろんですが、最後まで仕事に責任を持ち、夢を実現させるのが真の技術者だと言っているのです。そういう意味では軽々に技術者を語ったり、名乗ったりしてはいけないのかもしれませんね。一芸に秀でたからと言って技術者ではなく、もっと総合的な能力を持った人間こそが初めて技術者と呼ばれるべきなのかもしれませんね。
宮内 そうですね。土木技術者はゼネラリストであるべきですね。
同じ土木でも、土と構造では世界が違う
――土木の世界にも、ホワイトカラー、ブルーカラーという線引きはあるのですか?
原 私にはそういう見方はないですけどね。
宮内 職種にもよるかもしれませんね。構造系にはそういう線引きをする人がおるかもしれません。私のような、主に土を相手にしてきた人間にはそういうのはあまりないんじゃないでしょうか。
原 土は非線形で複雑な構造を持つので、机上の検討が難しい部分があります。土質は地形などによって千差万別で、性状も全然違います。結局はすべて現場が教えてくれる学問ですね。
――同じ土木でも、土と構造で世界が違うのですか。面白いですね。
宮内 私は、いつの間にか土工、しかも危険分野を担当することが多くなりました。岩盤や土をずっと相手にしてきました。一方で、コンクリート構造物や鋼構造がメインの現場もあるわけですが、主要な相手が土や岩である私は、いつも「地球を相手に仕事をしているんだ」ということを強く感じています。
原 われわれ学問の世界でも、土と構造の学者は少し毛色が違いますね。土の学者はどうしても自然を相手にしないといけませんので、フィールドワークを好む方が多い気がします。
宮内 土には、人智を超えた部分があるんです。何十年も地面を相手にしてきて、まだまだわけのわからないことが起こります。ほんの小さなことが生死を分ける場合もあります。だから、面白くもあるんですけどね。
原 土質と構造、両方知った上で仕事をするようになれば鉄壁です。考え方も違ってくるのではないでしょうか。
土木技術者には、オープンマインドが必要だ
――技術者にとって必要な素養を一つだけ挙げよ、となると?
宮内 私の場合は「感性」ですね。
――「感性」を磨く方法は?
宮内 常に「オープンマインド」でいることです。
――オープンマインドとは?(笑)
宮内 (笑)。直訳すると「心を開け」とでもなるんでしょう。でも、先日、私の村に住むアメリカ人に訊くと、ちょっと違う言葉が返ってきました。それが、私が言うところのオープンマインドにより近い意味かもしれません。彼の回答は「いつも新しいことにチャレンジする、みたいな意味かな」でした。「心を開く」とばかり思っていたので、その返事は意外だったのですが、私が考える「感性を磨く」にピッタリな言葉だと感じたので、最近どっちも使うようにしています。
私は、いろいろなところにアンテナを張って、吸収し、実地体験をしようと日々心がけています。その積み重ねが感性を磨く上で、一番大切なことじゃないかと考えています。実地体験をしないと、失敗することもできません。失敗から学べるかどうかはその人次第とはいえ、やはり失敗から学ぶことは多いですから。
どんなに優れた人がいたとしても、誰でもがその人から何かを学べるとは限りません。それは学ぶ人次第です。たとえ、たいした人からじゃなくても、学ぶ気持ちがあれば、必ず何かを学びとれます。どちらがより大切かというと、学ぼうとする側の姿勢です。私が言うところの、感性を磨くとかオープンマインドというのは、そういうことを指しているのです。
原 同感です。私がゼミなどでいろいろな人にお話しいただく目的の一つは、新しいことを吸収するチャンスを広げることにあります。そういう知恵を出し合う学びの場がないと、技術の研鑽も滞ります。オープンマインドという言葉をおっしゃいましたが、私の研究室のホームページの研究に関する基本方針には「社会に開かれた研究室」と書いています。まさに宮内さんのおっしゃる通りで「閉じた自分の中」だけで研究するのではなく、いろいろな人の意見を伺い評価いただきながら進めていくと、学生自身も気づきがあると考えています。
宮内 学生時代にそれに気づくことができれば、すごく幸せですね。
原 在学中に気づくのはなかなか難しいことではありますが(笑)。
――土木構造物に手がけた人間の人間性が反映されるということはありますか?
宮内 一般の人にはわからないでしょう。ただ、同業者が見たらわかるということはあります。私も丁寧にやった仕事は、パッと見たら分かります。例えば、土佐弁で目が行き届いた仕事のことを「手のたった仕事」と言うのですが、おそらくその工事を担当したチームの誰かが「手のたった仕事」をしているのでしょう。完成した工事でもそれはわかりますが、施工中の現場だと一目瞭然です。
原 先日、JICAの「草の根技術協力事業」の一環で、ネパールで蛇籠の擁壁を現地の人間と一緒に積み終わったのですが、3か所目の現場が一番きれいでした。昨年施工した2つの現場に比べ、経験を重ねながら各国の技術者、研究者が意見を出し合い、皆が真剣に設計・施工に取り組んだからです。皆がお互いを信頼し暗黙のチーム力が生まれたことで、同じことに取り組んでいるのに出来栄えが明らかに変わりました。
宮内 蛇籠という構造物は、シンプルなのでよけい出来栄えが分かやすいでしょうね。私はああいう構造物が好きですね。
若者に接する方法は「一旦降りて、一緒に上る」
――技術者の育成にはご苦労されているようですね。
宮内 私も上の世代には、「今の若いもんは」と言われた口でしょうから、若者をひと括りにして、こんなことを言うのはよくないことは承知していますが、最近の若者には決定的に違うところがあると思っています。われわれの世代の頃は、放ったらかしにしていても、人が育っていました。私自身、どこへ行っても事細かく教えられた記憶がありません。聞けば教えてくれる人もいましたが、聞いても教えてくれない人もいたりしました。
ただ最近は、こちらから話しかけてやらないと人が育たないということを実感しています。田舎の小さな会社なのでそうなのかもしれませんが、少なくとも今の私は、「上がって来い」ではなくて、「一旦降りて、一緒に上る」方法を採用しています。いわゆる手取り足取りとなる場合もあります。それが正しいかどうかは分かりません。暗中模索です。
原 われわれの世代もその名残がありました。実験の方法などは細かく教えてくれませんでした。今が昔と違うのは、情報が多様化したことと思います。今はインターネットからなんでも情報を集めることができます。物事を自分で考えなくても、短絡的な答えが出る時代になっています。それなりの答えはインターネットに出ているわけです。最近の若者は、自分で考える能力が低下していると言うか、情報があり過ぎて考える力が衰え、主体性がなくなった感じがします。
宮内 でも彼らの責任ではないですよね。
原 ええ。宮内さんから手取り足取りというお話がありましたが、私も学生の研究指導を行う場合、はじめはある程度のレールを敷くことから始めます。ある程度動き出したら、研究に対する考え方や解決法、使う機材などについて学生にアドバイスをしています。ただし、あえてこちらで答えは言いません。いつの時代であっても自分で考えないと、やりがいが出てこないと思うのです。学生に自分で考えてもらうためには、研究室を運営する私自身が一生懸命やるしかありません。私が手を抜いたら学生も手を抜きます。情熱も意欲もない教員に学生はついてきませんから。
宮内 先生の研究室の学生さんはそこを感じ取ってますよ。