なぜ復興現場で働くのか
震災復興に携わっているのは、現地に住む方々だけはない。「微力でもいいから力になりたい」と、これまでの生活や仕事を捨ててまで、被災地での復興に自らの技術や経験を還元する人も多い。
石巻で働く夘野孝司さんもその一人。長らく広島のゼネコンで働いていたが、過去に出張で仕事をしていた宮城県亘理町が津波に飲み込まれる様を見て、会社を辞め、被災地の復興現場で働くことを決めた。
しかし、現場に入った当時、夘野さんは”よそ者”であり、現地の方からは必ずしも歓迎されてきたわけではなかった。「地元の方に求められていないのでは」という葛藤に苛まれることもあった。
それでもなぜ、被災地で働き続けるのか。そして、復興現場に携わったからこそ見えてきたものについて聞いた。
出張先の亘理町が津波で壊滅
――土木の道へと進んだキッカケは?
夘野さん 元々は、建築がやりたかったんですけどね。父が不動産業を営んでいた影響もあって、幼いころから何となく”建築”というものが刷り込まれていたのか、「自分もこの(建築の)道にいかにゃいけんのかな」と思うようになっていました。ただ、受験では土木系しか受からなかったので、その中でも建築についても学べる広島工業大学の土木工学科に進学し、同時に地元の福岡県北九州市から出てきました。
就職活動では、自然と土木の道へと進んでいましたね。家業もありましたし、北九州にUターン就職する選択肢もありましたが、最終的には広島の地場ゼネコンに就職しました。そこでは主に管渠工事に携わっていました。その後は広島の方と結婚して子どもも生まれ、広島に家も建てました。
――元々は東北にゆかりはないんですよね?
夘野さん ええ。ただ、新卒で入社した会社を10年で辞めて、2007年の33歳の時に別の広島の建設会社に転職し、この時から一般土木工事にも携わるようになったんですが、翌年に常磐自動車道の山元ICから亘理IC間の建設工事に出張で行くことになったんです。このとき初めて東北の地に入り、海沿いにある亘理町の荒浜地区というところに住みながら、業務に当たっていました。
この現場は2009年に完工し、道路も開通したので、その後は広島に戻って働いていたのですが、その2年後に震災が起きました。ヘリコプターからの映像で亘理町が映ったとき、津波に完全に飲み込まれているのを見て愕然としました。亘理町は町の面積の47%が浸水し、壊滅的な被害を受けていました。Google mapで見ると、当時住んでいた家は基礎だけになり、周辺も野原のようになっているような状況で。
仕事としてであっても、ゆかりのある土地が被害を受けるのを見て、居ても立ってもいられない気持ちになりました。それに、看護師の妻は「災害支援ナース」として、石巻赤十字病院からの要請を受けて発災後すぐに支援に行きました。こうした姿を見たことも東北への思いを強くしました。
ですが、広島の会社ではそれなりの立場にいましたし、何よりまだ小学生の子どももいました。当時はなにかしたいという気持ちはあっても、仕事や家族を放り投げていくわけにもいきませんでした。
5年越しの思いが叶い、東北・石巻の現場へ
――なにを機に、震災復興に携わるように?
夘野さん 震災復興に貢献したいという気持ちはずっと持ち続けていましたが、子どもが最優先でした。ただ、子どもも中学3年生になり、手も離れたので、東北への思いも少しずつ強くなっていました。
ですが、「行きたい」という気持ちだけではどうにもなりません。東北の会社に転職するしかないのかな、何か手段はないかなとぼんやり考えていたら、地元・広島の友人が宮城の復興工事現場に入ることになりました。先ほど話した常磐道工事でも一緒にやっていて、同い年で腐れ縁のような男です。
その友人が、復興工事に強い人材派遣会社を紹介してくれたんです。これも縁だと、思い切って妻に「東北へ行きたい」と伝えました。妻自身も過去に我を通して被災地に入っていたこともあって、2年間を条件に許しを得て、紹介してもらった派遣会社に入社し、2016年から宮城では大手の地場ゼネコンの現場で働くことになりました。
――どんな工事を担当された?
夘野さん 最初の現場は、津波の被害を受けた宮城農業高校の内陸への移転工事で、次に東松島野蒜の長浜海岸で防潮堤工事をやっていました。延長は1kmで相当デカい規模でしたね。長浜海岸ではすべて流されていて何もありませんでしたし、工事区域の中で人骨が出ることもありました。警察に届けて、DNA鑑定して、遺族に引き合わせて、花を手向けに来ることもありましたね。
そのうち、約束の2年が経ったので、広島に戻らなければならなくなってしまって。一応、「広島のゼネコンに採用されたら、広島に戻る」という約束だったので、絶対に受からないと思って高を括っていたんですが、採用されてしまって…。しぶしぶ帰ることになりました。
広島に戻ってからは、抜け殻みたいになってましたね(笑)。もう、広島で定年まで勤めあげようという気持ちで帰ってはいるというか、そう思うことにしていたんですが、やっぱり気が入らなかったですね。
そんな姿を見た妻が、「東北に戻っていいよ」とポロッと言ったんですよ。一言も戻りたいなんて言っていなかったんですけどね。やっぱり家族だから分かるんでしょうね。「アンタのやりたいことしいや。家はウチがおるけえ、大丈夫」って。
広島では誰もが知っているような、安定した良い会社だったんですけどね。親からも「ここで腰据えるんやろ?」と言われてたんですが、ダメでしたね。この会社に定年までおれるか?と考えたら、身が入らんわけですよ(笑)。
結局、広島の会社は3カ月で辞めました。妻の一言が無かったら、今もボケーッと働いてたでしょうね。
――石巻に戻ってきてからは、どんな工事を?
夘野さん 本当は広島に戻る前にやっていた防潮堤工事に入りたかったんですが、タイミングが合わず、震災遺構の荒浜小学校が残っている若林区の荒浜地区で名取川と七北田川の10km区間の復興道路の建設工事をやりました。
その後は、橋梁の上部工を中心に担当してきました。上部工は特殊工事で、広島だと大手でなければなかなか携わる機会がなかったんですよね。なので、まったく手掛けたことはなかったんですが、任せていただくことになって。仙台や名取、東松島から郡山にも行きましたね。今は石巻市鮎川浜の湊川橋の現場に入っています。
防災工事に、地元住民から非難の声も
――仕事は大変なのでは?
夘野さん 確かに大変ですが、まったく苦にはなりませんね。東北での経験はボクにとっても大きくて、濃い。広島での倍以上の経験値を得ている感覚があります。現地では、多種多様な工事が発注されています。造成、防潮堤、道路、橋梁・・・。広島でこんなに色々な経験ができるかと言ったら無理ですから。
――紆余曲折ありましたが、東北に来てよかったですか?
夘野さん そうですね。めちゃくちゃやりがいがありますし、言葉が適切かは分かりませんが、楽しいですよ本当に。広島のときは、楽しいなんて思ったことないし、ツラいことしかなかったですから。
もちろん、ジレンマはありましたよ。東北に入った当初、防潮堤工事を担当していた時には、地元の方々から「海が見えん」とか「潮干狩りができなくなるじゃないか」とか、そういうことばかり言われたこともありました。本当にこの工事に意味はあるのか。何のために造っているのか。地元の方が望んでいないことをしているのではないか。そんな葛藤も常に抱いていました。
でも、それも最初だけで。なんだかんだ東北の方ってみんな優しんですよ。本当にあったかい。「これ持って帰って食べ」って何かいただくことなんかしょっちゅうですよ。昨日もサバをいただきましたからね(笑)。
行くところ行くところで新しい発見もありますしね。車でシカを轢きそうになってしまったり。そんな経験すること、広島にいたらないですから(笑)。
――今後も東北で?
夘野さん 今の現場の工期は5月末までなんですが、それ以降のことはまだ考えてないですね。先日、宮城県が来年度の予算案を発表しましたが、宮城県の震災対応予算は昨年度比で8割減(410億円)で、しかもそのほとんどがインフラ整備以外に充てられる予定です。つまり、確実に工事量は減るんですよ。どれだけ復興に携わりたいと思っても、求められなければ働けません。「震災10年で一区切り」という風潮は現地にもあります。
ですが、「橋ができた」「道路ができた」では復興とは言えません。そこに人が戻って、根付いて、初めて復興だと思うんです。特に、今の現場がある牡鹿半島は仕事で来られている人ばかりで、住まわれている人はほとんどいません。現地のガソリンスタンドの方からは、震災前から6割も人口が減ったと聞いています。私たちが手掛けた工事によって、昔住まわれていた方々が安心して戻ってこれるようになったり、新しく移住される方が増えてくれれることが、技術者として一番の喜びです。