お金持ちの施主が居住してる建物の増築改修工事
建築人生60年の中で一番「精神的」に疲れた現場といえば、やはり施主が居住している建物の増築改修工事を思い出す。
これは海外の建築案件ではなく、日本国内の10階建て賃貸マンションについて、内部改修、部分増築、耐震工事、外壁タイル貼替えを実施する工事だった。最上階には施主が住んでいて、しかも場所は都心のど真ん中。住宅街も近く、周囲には小学校、病院、警察があって、法的な制約も多い。その他にも様々な制約がたくさんある現場だった。
施主は年配独身の女性で、親の財産を相続し無職。週5日ほどお手伝いさんが通ってくる、いわゆるお金持ちなのだが、本人いわく、それはそれで苦労が絶えないらしい。今回の増築改修工事も「将来を見据えて老朽化が進まないうちに」という親族の意向が働いているそうだ。工事の契約者は本人。工期は1年以上になるため、様々な条件が付いた。
200世帯向けの住民説明会で、怒号の矢面に立つ
まずは恒例の住民説明会。全200世帯を1件ずつ回り、挨拶と説明会の資料を配布。会場探しにも苦労した。
説明会当日、冒頭の挨拶で施主が「住人の皆さんには決してご迷惑は掛けません!」と宣言。 私はビックリして、あわてて訂正した。施主の気持ちは分かるが、絶対に言ってはいけない言葉だ。工事で迷惑を掛けないことはあり得ないし、迷惑の掛けっぱなしになるので嘘になる。
工事概要、工期等を説明し、工事の進め方に関してはその都度回覧を回すことと、問題点は誠意を持って対処する約束をして、質疑応答になった。200世帯もあれば、200通りの意見があるのは覚悟はしていたが、出るわ出るわ!これでもか!と言うほど次から次へと質問や意見が飛んでくる。施工管理者としてここで大切なのは、たとえ的外れの言い分でも、怒る住民たちに言いたい事を何でも言って貰うことだ。そして、その場でYES・NOの返事をしないことが鉄則だ。
「私の家には受験生が居るから、騒音で勉強出来ないと困る!」
「迷惑を掛けるんだから家賃を減額してくれ!」
「家に病人が居るから、うるさいのは困る!」
「工事関係者を含め、見知らぬ人の出入りで物騒になるのが心配」
「足場やネットが掛かったら、部屋が暗くなってしまう」
「そんな工事 やらなくて良い!」
「建物が綺麗になるのはいいが、工期一年は長過ぎる!」
「そんな工事したら家賃を値上げするのか?」
「引っ越すから引越料を出してくれ!」
「工事の間、どこか別の部屋を提供してくれ!」
「もっと早く 知らせるべきだ!」
「先月入居したばっかりだが、そんな話は聞いていない!」
「住人の考えを先に聞こうとは思わなかったのか?」
・・・こんな意見に対して、施工管理者はちょっとした言葉使いにも、細心の注意が必要だ。たった一言でも誤解されるような言い方をすれば、怒涛のように責め立てられる。住民説明会では、とにかく誠実な態度やモノの言い方に気を付けなければならない。
午後1時に開始した住民説明会は5時近くまで続き、次回の開催日を約束して散会となった。ちょっと世間知らずのお金持ちな施主も、さすがにここまで問題が噴出するとは思っていなかったらしい。
一般的に施主はこの手の集会には出席しないものだ。なぜなら、施主が主席すると最終決定者として、その場で決断を求められることがあるからだ。それでも主席しますか?と事前に話しておいたのだが、この施主は「最初だけでも出席するのが施主の義務ですから」と出席し、この集会後、具合を悪くして2~3日寝込んでしまった。施主はその後、二度と集会には出席しなかった。
住民説明会という仕事は本当に疲れる!しかし本当の難題は、この後に控えている「近隣住民への説明会」だ。間違いなく近隣住民の方が100倍大変になると思ったほうがいい。
住民説明会よりも壮絶な「近隣住民への説明会」
一週間後、近隣住民への説明会を開いた。覚悟はしてたが、やっぱり住民説明会よりも壮絶だ!
ここでも施工管理者にとって大切なのは、どんな感情的な意見でも真剣に聞き、記録をとること。そして、絶対に言ってはいけない言葉がある。それは「法律に従い、役所の確認申請も取得しているから、何ら違法な部分はなく全て合法なので、予定通りに進めさせて欲しい」というセリフだ。
理屈はその通りなのだが、これは喧嘩を売ってるのと同じである。説明を聞く側もそんな事は百も承知だし、法律も万全ではない。「法律さえ守れば何やってもいいのか!」という怒号も返ってくる。さらに、ちょっと知識のある人なら、建築基準法と民法に相反する条文があることぐらい知っている。理屈で押し通そうとしても、紛糾するだけだ。
そこで施工管理者としては、工事説明の際、周辺への気配りを盛り込んだ提案を用意することが重要となる。その後で近隣住民の思いを徹底的に聞く事だ。
この話し合いの中で、誰が中心で、何が出来て何が出来ないかを判断しながら記録をとり、それを正確に施主に知らせる。これをやっておかないと、後で施主から「外で誰々と会ったが全然知らない事で文句を言われた」とか「何故しっかり伝えてくれないのか!」という苦情にもつながる。少なくとも施主とは一枚岩になっておかないといけない。
当然、近隣住民たちの全ての要望は叶えられないが、後日、一つ一つ丁寧に回答する事が後々生きてくる!工事期間は長いし、迷惑を掛けっぱなしの日々が続くので、出来ることなら、周囲の皆さんを味方につける位の気持ちが欲しい。口で言うのは簡単だが、これは大変な事だ。しかし可能な限り、味方を作る事を念頭に入れておくだけで、工事は随分とやりやすくなる。
こうしたことを何もやらなければ、ちょっとした事で役所に苦情の電話が行き、ちょっとした騒音で警察に連絡がいき、パトカーが現場にやって来る。それで一度目を付けられたら、レッカー等の道路使用の申請をするだけでも、念書などの余分な手続きが必要になったり、施主にも連絡が行き、 施主からも苦情を言われたりする。
工事開始後の具体的な対策
工事開始後の現場でも、住民と近隣住民の感情を逆撫でしないための対策が必要となってくる。
まず私は、現場に出入りする職人を含めた全員に、「朝、誰かに会ったら大きな声で“おはようございます!”と挨拶する事」を徹底させた。また、工事関係者である事が一目で分かるよう、ヘルメットにステッカーを貼り、胸に氏名を書いたバッジをつけ、住民からも名前が分かるようにした。住民たちの名前を覚えることも心掛けた。名前で呼ばれると、人は心を開きやすくなる。
ダンプや生コン車の出入りの際は、ガードマンを通常の倍となる人数を配置し、歩行者優先を徹底した。ガードマンが足りない時は、私を含め工事関係者全員で歩行者保護に専念。通学路のための安全通路には屋根をつけ、一本先の横断歩道にまでガードマンを配置した。さらに、朝礼後に毎朝15分間、マンションの周囲だけでなく、近隣の歩道や道路まで清掃を行い、ゴミ集積所の掃除もやった。
私の会社からは「何もそこまでやらなくてもいいだろう!」と散々言われたが、色々な評判や施主からの言葉がそれを黙らせた。
改修工事のハツリ工事で騒音が問題に!
しかし、改修工事ならではの問題も噴出した。解体してみないと、どうなってるか分からないのだ。図面は全て現場合わせ寸法となり、変更変更の連続で工期が大幅に遅れた。そうした工事の報告や相談を施主にするのは、どうしても現場が落ち着いた6時頃となってしまうが、実はこうした報告の小さな積み重ねが、ボディブローのように後々効いてくる。
私は耐震補強の際の外壁のカッター入れ、ハツリ、アンカー削孔の騒音が半端じゃないことを施主に説明すると同時に、外壁タイルの張替えに関しては、浮きの調査を行い、裏面にエポキシ樹脂注入とピン固定を提案した。タイルの提案は施主に受け入れられたが、騒音に関しては妙案がなく、どうしようか?と工期とにらめっこになった。
足場からコンパネを外壁に密着させ、ガラを決して下に落とさず、少量づつ袋の入れてロープで下に降ろすまでは考えたのだが、騒音に関しては無振動のチッパー使っても大して効果がないのは分かっていた。結局、騒音についてはどうにもならず、住民に正直に話すことにした。並みの騒音では無い事、はつり取ったガラは下に落とさず、袋に入れて降ろす事、その後の耐震補強のためのアンカー設置も同様にドリルの音が大きい事、などを説明した後で、いつどんな時期にやるのが一番迷惑を最小限に出来るか考えたが、決定的な案が未だ浮かばないと素直に話した。
例えば、お盆で帰省する家族が多い日に集中して工事する。あるいはアンケートを実施して多数決で工事日を決める。または時間と場所を限定して工事を行うなどを提案したが、どれも大した案ではない。しかもマンションの住民だけでなく、近隣住人にも配慮しないとならない。住人からも特に意見はなく「本当に耐震工事をやらなければ駄目なのか?」という質問があったぐらいだった。
従来の計画では、コンクリートのブレースを柱梁間の外側に掛けて、構造を補強する予定だったが、それを鉄骨かプレキャストで出来ないかとも私は考えた。同じ補強効果で多少は騒音を軽減出来るのではないかと考えたわけだ。しかし、このアイディアは計画の変更に伴う新たな申請が必要になり、会社の同意も得られなかった。
作業員と住民たちで宴会を開催!
私はいい事、悪い事を全て施主に報告した。施主はお金持ちの悪い癖で、すぐ金で解決しようとした。最終的な決断は施主がすべきだが、私は少なくとも直接お金を手渡すことには反対だった。お金を手渡したという話は、人々の間ですぐに広がり、逆効果になる可能性すらある。私は、どうせお金を使うなら現金ではなく、気持ちが伝わる方法を考えるべきだと伝えた。
何も妙案が浮かばないまま学校は夏休みに入った。施主からは常々「何かいいアイデアがあれば話して頂戴」と言われてたので、ある日、施主にいつもの報告をする際、こう切り出してみた。
「何か結果が期待できる訳でもないですが、お盆前に現場の職人たちも含めて、食事会を現場で開こうと思ってるんです。学校も夏休みに入ったし、ここの住民たちをその食事会に招待しませんか?」
施主は「それはいいわ!それなら多少カンパ出来るし!」と言うので、 どこの現場にも必ずいるような宴会係に協力を頼んだ。施主からは30万円が資金として提供された。開催日は土曜日の午後3時からと決め、案内状を配った。金額は伝えなかったが、多額の援助が施主からあったと報告し、宴会が始まった。
現場の作業員に慣れていない大人たちは、何か遠慮気味だったが、子供たちのために考えた作業員と対決するゲームコーナーは好評だった。作業員の中にはまだ十代の若い連中もいたので、格好の遊び相手になったようだ。中にはテキヤの仕事をしていた作業員もいて、たこ焼き、カキ氷、焼肉は大好評。予定の2時間はアッと言う間に過ぎた。家から出られない病人の居る家にも、それらの料理を運んだ。
これぐらいのことで、住人の気持ちがどうにかなるなんて これっぽちも考えなかった。ただただ、作業員たちの慰労と同時に、住人たちに楽しんでもらえればいい。施主にも下手な期待は禁物だと言っておいた。実際、宴会後に何かが飛躍的に変わったわけではない。ただ朝の挨拶で、徐々に大人も子供も多くの住民が挨拶を返してくれるようになった。これは嬉しかった。
建築工事だけじゃなく、自転車のパンクも直す施工管理者
結局、一番の難題だった外壁のハツリ工事は、階毎の希望する時間帯を聞き、その時間に集中して工事させて貰った。階毎と言っても、その上下の階も相当うるさいので、工事中は外出していただくなど協力して貰った。本当に感謝している。
工事期間中は、住民の困り事にも極力対処した。配管のつまり、ドアのがたつき、ちょっとした錆落しとペンキ塗り、 自転車の修理やパンク直しまで何でもやった。たまに会社の連中が視察に来ると「そんなことまでやってるのか?」と言う。事情を知らない連中は色々ガタガタ言うが、私は一向に気にしない。現場は、建築工事だけやってりゃいいってもんじゃない!いい建築を造るのは当たり前。安全もそうだし、いい建築を造るためには、そのために必要な他の作業がいっぱいある。
竣工の目処がつきそうになったのは、着工から1年後の春先だった。竣工はそれから3ヵ月後の夏休み直前。竣工式の後で、施主に「ありがとうね!」と言われた時には不覚にも、汗が目から流れそうだった。
この現場から10年以上経った今、私はアフリカのある国でODAの工事に関わってるが、気持ちはあの頃と何ら変わっていない。私の方から全ての関係者に「ありがとう!」と言わなくちゃいけないと思いながら働いている。