オープンシステム創始者、山中省吾氏
CM分離発注方式を軸にした建築の手法で、建築主と設計事務所と専門業者の三者がパートナーの関係となって建築物を完成させる「オープンシステム」。
この「顧客主導の建築革命」とも言われるオープンシステムを始めたのが、山陰を代表する商都、鳥取県米子市にある「プラスエム設計(旧山中設計)」だ。
オープンシステム第一号の建築物が完成した1993年以来、今年でちょうど25年が経過した。この四半世紀の間に一体どんなことがあったのか、またこの先にどのような未来を描いているのか。
プラスエム設計代表でオープンシステム創始者の山中省吾氏に話を聞いた。
突き詰めてみたい建築方法との出会い
プラスエム設計代表、山中省吾氏
プラスエム設計の前身である山中設計の創立は1988年。山中代表、34歳のときだった。地元の高専卒業後、3つの設計事務所を渡り歩き、公共工事や住宅、マンション建築と幅広く実績を積み、大小様々な規模の会社に所属した末、満を持して独立を果たした。
「高専にいるときからやがて独立したいと思っていたので自然な決断でした。ただ、前の会社の経営状態が悪く、取締役を勤めていた私は自ら借金をしていましたので苦しいスタートでした」。ところが、ここで追い風が吹く。まさにこの頃、日本はバブル景気に突入したのだ。
「ディベロッパーやゼネコンから仕事が立て続けに入って、当時は忙しかったですね。夜中の12時まで仕事をするのは当たり前でした。3、4年はバブルの恩恵を受けたと思います」。
そんな折、レストランの改修工事の依頼が入り、オープン日をずらせないことから、やむを得ず工務店を通さない分離発注を選択。この経験が山中代表にとっての大きな分岐点となった。
「同じ建物をつくるのに、発注の仕方が違うだけで3割も価格が抑えられたのです。建築業界ってどうなっているのだろう?と疑問を持つと同時に、このやり方を突き詰めてみたいという思いが湧いてきました」。
順調だった経営状況から一気に仕事ゼロに
大きな可能性を感じる建築手法。一方で、従来型の仕事でも多くの案件を抱えており、山中代表は両者の矛盾に引き裂かれていく。
「オープンシステムとそうでない仕事を並行してやっていくのは無理があると結論しました。そこで当時付き合いがあったゼネコンや工務店一社一社に、“設計のお手伝いができなくなります”と挨拶しに行きました。“そんなやり方が成り立つわけないぞ!”などと色々言われましたね」。
当然、新規の受注はゼロに。半年間で手持ちの仕事が底をついた。当時、山中代表の他に社員は3名。未曾有のピンチだった。なぜあえていばらの道を選んだのか。山中代表はこう語る。
「賭けみたいなものです。ただ、勝算はありました。どう考えても、この手法の方が優れている。だから、最後は必ず勝つ」と。
仕事がないおかげで有り余る時間は、オープンシステムの説明文の執筆や飛び込み営業に費やされた。また一見、やけっぱちとも思えることを山中代表は行う。社員を引き連れてヨーロッパ視察旅行を敢行するのだ。「私は元来、楽天家なのできっとすぐに忙しくなるだろうと思ったんですよね(笑)」。実際、帰国するとすぐに仕事の依頼が舞い込んだ。
天井が高く、開放感に満ちたプラスエム設計のオフィス。インタビュー当日も各所で打ち合わせが行われていた。
オープンシステム黎明期の困難
その依頼は酒の量販店からだった。山中代表の腕が鳴った。
「建築業者の見積もりは約5000万円。一方、専門業者の見積もりを集計したら約3500万円になりました。大幅に予算を抑えながらも無事に完成すると、依頼主から喜ばれましてね。お店に“この建物はオープンシステムで建てられました”と応援の看板を掲げていただくほどでした」。
以後、山中代表は主に住宅でオープンシステムによる建て方を追求していく。当時は今よりもオープンシステムのやり方が浸透していない時期だけに大変なことも多かった。
「専門業者一社一社に“オープンシステムとは何か”ということを根気よく説明し続けました。それと設計事務所の設計士は実際に現場でどの業者が、どのような業務内容を、どのくらいの時間をかけて行っているのか概略しか知りません。全てを知りたかったので連日、朝から晩まで現場を見ていましたね」。
身振り手振りを交えて熱く語る、山中省吾プラスエム設計代表
専門業者を巻き込み、現場で知見を広げ、仕組みや制度を整えることでオープンシステムは少しずつ形になっていった。ユニークな取り組みだったため、業界専門誌から取材を受けることもあった。やがて90年代後半から2000年代初頭にかけて、オープンシステムは一気に知名度を上げていく。ブレイクするのだ。
降ってわいたブレイクと全国組織の結成
きっかけは日経アーキテクチュア創刊20周年記念号「現代のすご腕」で、山中代表が9人の建築家の一人に選ばれたことだった。この記事が日本建築学会PM・CM特別研究委員会の目に留まり、日本建築学会のシンポジウムで事例発表することに。他の設計事務所に技術やノウハウを提供する必要性も生じ、オープンネット(現イエヒト)というオープンシステム推進のための組織を設立した。
掲示されたスローガン。「原価で建てる」はオープンシステムの特徴を端的に表現している。
そんな折、テレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」の取材が入り、「建築家たちの建築革命」と題した特集が組まれて放送。また、建築情報誌CCIで「オープンシステムって何?」という連載を山中代表が持ったり、その連載をもとに『価格の見える家づくり』という書籍を出版したりと目まぐるしい状況が続いた。さらに、NHKの「クローズアップ現代」でも取り上げられた結果、反響が反響を呼び、全国組織は一気に拡大した。
山中代表は自らの設計事務所を離れる決断を下す。「この頃、山中設計のスタッフに“私を死んだものと思って仕事を進めてくれ”と伝えた記憶があります」。山中設計の運営をスタッフに任せ、山中代表は全国組織の構築に奔走する。
雑誌出版への挑戦が挫折に終わるまで
北は北海道から南は沖縄の石垣島まで。山中代表は文字通り、東奔西走していた。オープンシステムの創始者である。全国に広がるイエヒト会員から引っ張りだこだったのだ。「2001年のことでしたかね、その頃は半年間で47都道府県全てを回るような生活でした」。
その後、山中代表は誰もが予想していなかった次なる一手を打つ。雑誌の出版だ。これまでにない建築手法ということは、これまでにない新しい建築雑誌も作れるということ。ビジネスとしても成立するように思えた。
「全くの素人でしたが“新しい雑誌を作りたい”という一心で、雑誌『イエヒト』創刊にこぎ着けました。編集長は私。編集長自ら全国を取材で駆け回り、執筆を行いました」。ところが、販売部数は低迷。出費も莫大で継続することができなくなり、雑誌『イエヒト』は3年であえなく休刊に至った。
「オープンシステムを広げるのだという使命感に燃えていましたからね、休刊後は燃え尽き症候群に陥りました。そのときに思いました。オープンシステムの認知度は確かに広まって全国組織もできた。でも、あれは偶然の成功でしかなかった、と。それを自分の力だと錯覚してしまったんです。振り返ってみれば、雑誌の出版もかなり甘く見ていましたね」。
ところが、そんな失意の山中代表を奮起させる依頼が舞い込む。
プラスエム設計のオフィス内にはバーカウンターも。この空間で来客をおもてなしすることもあるそう。
無理難題が導いたシステムの完成
それは、遠隔地でのオープンシステムによる住宅建築の依頼だった。依頼主は山口県、建設地は大分県、設計監理者が鳥取県という異例の案件だった。しかも工期は短い。常識的に考えれば無理難題だった。が、山中代表は挑戦。そこで思いがけず大きな発見をした。設計監理者が現場にいられないハンデを補うために導入した、関係者全員参加によるメーリングリストがオープンシステムの弱点を補ってくれたのだ。
「メーリングリストの導入で設計監理や各種調整が簡単になると同時に、依頼主が熱い思いや感謝の気持ちを職人達に伝えることで、家づくりの最大の戦力が依頼主自身であることがわかったのは大収穫でした」。ここにオープンシステムは技術的な完成をみた。以後、山中代表はマーケティングに注力する。
「まずはHPをリニューアルし、2年かけて準備をしたうえでテストマーケティングを実施しました」。結果は山中代表自身が驚くほどだった。「確かにお金は使いましたが、売上が前年比1.5倍、翌年は3倍と増え、最も成果のあったテストマーケティングは、広告費用の100倍以上回収できました」。
このタイミングで山中設計はプラスエム設計(エムはMANAGEMENTのM)と改名。2018年現在、米子、飯塚、東京、海老名の4拠点体制で運営を行っている。
中央の冊子は、マーケティングの一環で山中代表自らが執筆した会社案内。
日本の建築のスタンダードに向けて
「会社をつくって30年、オープンシステムを始めて25年、本当にカタツムリのような歩みですね」と山中代表は自嘲気味に微笑む。だが、その目は鋭い。
プラスエム設計は10人規模のオフィスを全国に100拠点、つまりオープンシステムを熟知する1000人の建築士集団の構築を目指しているという。「そこまで持って行けて初めて、ハウスメーカーやゼネコンに対抗できるようになると思うんです。全ては、オープンシステムを日本の建築のスタンダードにするためです」。
今春、プラスエム設計の飯塚オフィスが福岡県田川郡糸田町の公共施設「いとよーきた」を受注した。公募型プロポーザルでプラスエム設計が採用されたのだ。これはオープンシステムの歴史でも初となる公共施設の案件だ。「役場の主な部署には現場からの報告がメーリングリストで配信されました。この一件が公共工事の発注方法を見直すきっかけとなればいいですね。なかなか難しいとは思いますが」。
山中代表は最後にこう語ってくれた。「これから先も安定の道と困難な道に分かれていると思いますが、安定の道を選ぶことはないと思います。安定を求めるようになったら、経営の最前線から身を引きます」。