奥村組で40年の大ベテラン現場所長
株式会社奥村組(本社:大阪市阿倍野区)には、入社40年目の大ベテランの現場所長がいる。
加藤寛樹さんはこれまで、国内外で14本の山岳トンネル工事、海外で2件のシールド工事を手掛けてきた「トンネル屋」で、技術士(建設部門[トンネル])も持つ。2016年に定年を迎えたが、引き続き雇用延長で、現在もトンネル工事現場の最前線に立ち続けている。
そんな加藤さんのトンネル屋人生はどのようなものなのか。トンネルの魅力とは何か。発注者との付き合い方などを含め、いろいろ話を聞いてきた。
人生初のトンネル工事はボルネオ
――奥村組に入った理由は?
加藤さん 九州の大学で土木を学び、4年生の就活時に、中学からの友達が関西に就職していたので久しぶりに会えるかなと思って奥村組の面接を受けに行きました。
建設会社の本社だから高いビルだと思い、上を見ながら天王寺界隈を歩き回っていたら、一度通り過ぎた木造2階建ての郵便局のような建物が奥村組の本社と判明(笑)し、大変驚いたことを記憶しています。
大学の就職担当教授からは「ゼネコンの中ではかなり仕事に厳しい会社だぞ!」と言われましたが、結局奥村組の面接しか受けず、面接では「大きな仕事がしたいです」と言ったことを思い出します。
――奥村組ではこれまでどのようなお仕事を?
加藤さん 奥村組に入社したのは1979年です。最初の配属先は大阪市営地下鉄(当時)5号線(千日前線)の隣り合った二つの工区を奥村組が施工する開削工事の現場でした。2年目は、西宮中津浜幹線のφ2600の推進工事の現場、3年目は新設東大阪生駒電鉄の明かり工事の現場に行ったのですが、4ヶ月目にマレーシアのボルネオ島のトンネル工事の現場に派遣されました。
この工事は、奥村組が単独で受注した初めての海外工事で、後に奥村組と前田建設工業がJVで施工したバタンアイダム建設に向け、川の流れを変えるためのトンネルを建設する工事でした。
このように私の初めての本格的なトンネル工事は、首狩り族の子孫が住むボルネオ島のマレーシア・クチンという町から約300km離れたインドネシアとの国境沿いの山の中で始まり、この工事に1年間携わることになりました。
その後、工事の完了とともに帰国して、当時の本社部門の外国部に4年ほど籍を置き、海外入札に必要なPQという資格審査資料の作成などを行っていました。最後の年には、当時奥村組で行われていた海外研修制度に応募し、アメリカのMaclyn Grove社というゼネコンに1年間出向、ニューヨークのマンハッタン島の地下200mに建設中であった水道トンネル工事に従事しました。
もっと英語を勉強したかったので、会社に「もう1年出向させて欲しい」と言ったのですが、「もう1年居ても一緒だろう、帰って来い」と言われ、帰国に至りました(笑)。
当時、奥村組は香港のトンネル工事や下水処理場を手掛けていましたが、為替の変動によって大きな損失を出したことをきっかけに、海外工事から撤退したんです。海外で仕事をするため、せっかく海外研修に行ったのに、しばらく海外から遠ざかることになってしまいました(笑)。
台湾の支店長を務め、定年。再びトンネル現場へ
――帰国後はどのような現場を?
加藤さん 帰国後は、六甲山を横断する第2新神戸トンネルの新幹線新神戸駅近くの工事現場に赴任しました。新神戸駅附近の地質は、布引花崗閃緑岩という墓石などに使われる硬い岩が分布しており、当然発破で掘削すべきところですが、駅や民家が近く、発破が使えなかったので、当時奥村組が特許を持つスロット・ドリリングという無発破工法で掘削した現場でした。
その後、隣の既設新神戸トンネルの入口部を、300mに亘って断面約70m2から約230m2に徐々に拡幅し、西神方面へのトンネルの入口部を新設する工事に従事しました。この工事もスロット・ドリリング工法で掘削しています。次に、岐阜と福井を結ぶ油坂峠道路のトンネル現場に赴任し、4本あるうちの1本を奥村JVで施工しました。
次に、四国の松山市内から空港方面に抜ける岩子山トンネル、徳島自動車道の新境目トンネルなどのほか、神戸市鈴蘭台でφ3.1mのTBM(Tunnel Boring Machine)を使った汚水幹線移設工事を担当しました。
そして、新神戸トンネルの2期事業として、新幹線新神戸駅前のトンネル入り口部を南側に延伸し、出入り口を増設する工事を行いました。開削で施工できない交差点の直下、土被りが約4m程度のところを通行止めせずにNATM工法で200mほど施工しました。
その後、受注したばかりの静岡県大井川東側の第二東名高速道路の島田第五トンネルに赴任し、約1,350mの190m2に及ぶ大断面トンネルを2本同時に施工する工事に5年間従事しました。そして、それから岩手県釜石自動車道の1,860mほどの白土トンネル工事に3年間従事しました。
現場を案内する加藤さん
話は変わりますが、奥村組は1985年に海外工事から撤退していましたが、1992年から台湾でシールド工事の技術支援をしていました。これが縁で、2001年から現地のゼネコンとJVを組み、地下鉄のシールド工事を数々受注しています。
台湾の地下鉄工事では、避難通路として、上りと下りのトンネルをつなぐ連絡トンネルを手掘りのNATM工法で掘る必要があったのですが、桃園空港にアクセスする地下鉄シールド工事の担当者が大変忙しい思いをしているとのことで、白土トンネルの工事完了後、半年ほど応援に行くことになりました。
さらにその半年後、台北の別の地下鉄シールド工事の所長が日本に帰国することになったため、社命により、そのまま残って所長を引き継ぐことになりました。2年ほどその工事の所長を務めた後、台湾など海外の土木工事を担当する土木第4部長を、続いて台湾支店長を務め、定年を迎えました。
定年を機に日本に戻り、雇用延長で北陸新幹線新北陸トンネルの敦賀寄りの工区で副所長を2年ほど担当し、その後、今の現場に所長兼監理技術者として赴任し、現在に至ります。
いかにセンス良く、小ギレイに仮設するか
――トンネル工事の魅力は?
加藤さん やはり貫通したときの感動ですよね。若いころは、ちゃんとキレイに貫通するか不安で、ドキドキしていました。トンネルの切羽(掘削面)は毎日変わるのですが、経験を積んだ今ではそれを観察するのが好きになりました。
また、トンネル工事は、施工する人間によって仮設のやり方が全然違ってきます。トンネルを造るのは一緒ですけどね。どこになにを配置するかについて、自分なりにいろいろ考え抜いて決めていくわけですが、それがトンネル工事をする上で、面白いところです。
建築現場のようにキレイな仮設は難しいのですが、そこをいかにセンス良く、小ギレイに配置するかがウデの見せどころで、現場では常にその辺を考えながら巡視しています。外部から見学や視察に来られたときに、現場がちゃんと整理整頓されていると印象が良くなりますからね。私自身、他の現場に行ったときには、その辺りを注意して見ています。
ホワイトボードに花を添えるあたりに、加藤さんのセンスが光る
「片付けて(整理整頓)! 身に付けて(保護具の着用)! 考えて(危険予知)!」という「安全の3″て”」という言葉があります。私は若いころ、これを上司に叩き込まれ、今でも実践しているわけです。
自分の技術力をアピールするために、技術士を取得するべし
――加藤さんが若いころは、どんな教え方でしたか?
加藤さん 「仕事は自分で覚えろ」という感じでしたね。今のように、新人に親切丁寧に教える雰囲気はありませんでした。直属の上司から教えてもらうぐらいで、所長と会話すること自体めったになかったです。
――人材育成で気をつけていることは?
加藤さん 若いころは、とにかく現場に出て、現場のことを覚えてほしいです。特に安全教育については徹底する必要があると考えており、私自身、安全大会や安全衛生協議会などの場で周知しています。「自分の身は自分で守れ」と事あるごとに言っています。
また、自分の技術力を第三者にアピールするには、やはり技術士の資格を取得することだと思います。仕事をしながら勉強するのは非常に大変なことですが、私は仕事の合間や休日を利用して勉強し、なんとか取得することができました。
大学卒なら基本7年経てば技術士に挑戦できるので、若い人には是非頑張って欲しいですね。技術士を持っていると、発注者に説明するときに説得力が増し、一目を置いてもらえます。
発注者を毎日訪問、顔を合わせてしっかりコミュニケーション
――現場ではコミュニケーション能力が大事だという話を聞きますが。
加藤さん そうですね。私は昔から、作業員さんと話をするのが好きでした。トンネル工事には地方から来られる作業員さんが多いので、方言を交えながら話をするのは今でも楽しみのひとつです。
――発注者とのコミュニケーションはどうですか?
加藤さん 私の場合、工事の初めの段階で毎日のように発注者を訪問し、コミュニケーションをとるようにしています。今の現場でも、発注者の事務所の近くに仮事務所を設け、何度も打ち合わせに行っていました。毎日顔を合わせることが、お互いの信頼関係を築くには一番ですね。
良い関係ができてくると、設計変更なども理解していただきやすいと思います。発注者とのコミュニケーションは、現場所長にとって一番大切で大変な仕事だと思っています。
また、設計変更については、発注者の担当者が上司の方に説明しやすいような資料をいかに早く作るかも常に心掛けています。