台湾の支店長を務め、定年。再びトンネル現場へ
――帰国後はどのような現場を?
加藤さん 帰国後は、六甲山を横断する第2新神戸トンネルの新幹線新神戸駅近くの工事現場に赴任しました。新神戸駅附近の地質は、布引花崗閃緑岩という墓石などに使われる硬い岩が分布しており、当然発破で掘削すべきところですが、駅や民家が近く、発破が使えなかったので、当時奥村組が特許を持つスロット・ドリリングという無発破工法で掘削した現場でした。
その後、隣の既設新神戸トンネルの入口部を、300mに亘って断面約70m2から約230m2に徐々に拡幅し、西神方面へのトンネルの入口部を新設する工事に従事しました。この工事もスロット・ドリリング工法で掘削しています。次に、岐阜と福井を結ぶ油坂峠道路のトンネル現場に赴任し、4本あるうちの1本を奥村JVで施工しました。
次に、四国の松山市内から空港方面に抜ける岩子山トンネル、徳島自動車道の新境目トンネルなどのほか、神戸市鈴蘭台でφ3.1mのTBM(Tunnel Boring Machine)を使った汚水幹線移設工事を担当しました。
そして、新神戸トンネルの2期事業として、新幹線新神戸駅前のトンネル入り口部を南側に延伸し、出入り口を増設する工事を行いました。開削で施工できない交差点の直下、土被りが約4m程度のところを通行止めせずにNATM工法で200mほど施工しました。
その後、受注したばかりの静岡県大井川東側の第二東名高速道路の島田第五トンネルに赴任し、約1,350mの190m2に及ぶ大断面トンネルを2本同時に施工する工事に5年間従事しました。そして、それから岩手県釜石自動車道の1,860mほどの白土トンネル工事に3年間従事しました。
話は変わりますが、奥村組は1985年に海外工事から撤退していましたが、1992年から台湾でシールド工事の技術支援をしていました。これが縁で、2001年から現地のゼネコンとJVを組み、地下鉄のシールド工事を数々受注しています。
台湾の地下鉄工事では、避難通路として、上りと下りのトンネルをつなぐ連絡トンネルを手掘りのNATM工法で掘る必要があったのですが、桃園空港にアクセスする地下鉄シールド工事の担当者が大変忙しい思いをしているとのことで、白土トンネルの工事完了後、半年ほど応援に行くことになりました。
さらにその半年後、台北の別の地下鉄シールド工事の所長が日本に帰国することになったため、社命により、そのまま残って所長を引き継ぐことになりました。2年ほどその工事の所長を務めた後、台湾など海外の土木工事を担当する土木第4部長を、続いて台湾支店長を務め、定年を迎えました。
定年を機に日本に戻り、雇用延長で北陸新幹線新北陸トンネルの敦賀寄りの工区で副所長を2年ほど担当し、その後、今の現場に所長兼監理技術者として赴任し、現在に至ります。
いかにセンス良く、小ギレイに仮設するか
――トンネル工事の魅力は?
加藤さん やはり貫通したときの感動ですよね。若いころは、ちゃんとキレイに貫通するか不安で、ドキドキしていました。トンネルの切羽(掘削面)は毎日変わるのですが、経験を積んだ今ではそれを観察するのが好きになりました。
また、トンネル工事は、施工する人間によって仮設のやり方が全然違ってきます。トンネルを造るのは一緒ですけどね。どこになにを配置するかについて、自分なりにいろいろ考え抜いて決めていくわけですが、それがトンネル工事をする上で、面白いところです。
建築現場のようにキレイな仮設は難しいのですが、そこをいかにセンス良く、小ギレイに配置するかがウデの見せどころで、現場では常にその辺を考えながら巡視しています。外部から見学や視察に来られたときに、現場がちゃんと整理整頓されていると印象が良くなりますからね。私自身、他の現場に行ったときには、その辺りを注意して見ています。
「片付けて(整理整頓)! 身に付けて(保護具の着用)! 考えて(危険予知)!」という「安全の3″て”」という言葉があります。私は若いころ、これを上司に叩き込まれ、今でも実践しているわけです。
加藤さん、島田でお世話になった村崎建設の湊です。62歳でリタイアして今79歳になりました。スマホで施工の神様の写真を観ました。私はお世話になった奥村組からトンネル専門会社の村崎建設に再就職。約5年間、金谷、三ケ日、八甲田等沢山に思い出がありました。これからも御身体を大切にして、会社の発展の為、また若手の教育に笑顔で頑張って下さいね。