本記事は「月刊土木技術」とのパートナーシップにもとづく転載記事であり、理工図書株式会社の許諾を得て掲載しています
“今、会いたい” 土木業界で話題の人を訪ねる【東急建設】
「スポットライト」とは、月刊誌「土木技術」で掲載されているインタビュー記事です。“今、会いたい”土木業界の第一線で活躍されている人のクロニクルをインタビュー形式でお聞きする好評連載企画です。
今回は、東急建設株式会社の寺田光宏様にお話を伺いました(聞き手:田中編集委員、インタビュー取材日時:2020年2月)。
スポーツよりも音楽に魅了された学生時代
田中(大成建設) 寺田さんのご出身はどちらでしょうか?
寺田(東急建設) 静岡県の磐田市です。実家は農業をやっていて、思い出というと繁忙期には田植えや稲刈りに駆り出されていて、遊び場も田んぼでしたね。
田中 磐田市と聞くとサッカーで有名ですね。
寺田 私が幼少の頃はまだジュビロ磐田というチームもなかったので(前身のヤマハ発動機サッカー部は1972年創設)、今のようにスポーツの街では全然ありませんでしたね。
田中 寺田さんご自身は何かスポーツをされたりしていたのですか?
寺田 私はスポーツは全くやっていなくて、中学・高校とずっと吹奏楽部でサックスを吹いていました。高校の陸上部がインターハイで優勝するような学校でしたので、そういったときにパレードで演奏していました。
田中 サックスですか。かっこいいですね。サックスですとジャズになりますか。
寺田 ジャズは好きでしたね。学生時代はジャズのコンサートをよく聴きにいきました。特にスイングジャズが好きですね。当時はグレン・ミラーが流行っていました。この前も東京に来日した際に聴きに行きました。
田中 素敵ですね。
寺田 吹奏楽部と一緒に応援団があったのですが、その応援団が怖くてね。「声が小さい!」とか言われていつも怯えながら応援練習をしていました(笑)。
インフラ巡りをするほど”土木好き”
田中 大学時代もサックスを?
寺田 当時はフォークソングが流行った時代でしたから大学からはギターですね。世代的にはアリスが大ヒットしていた時代です。
田中 なるほど。大学は徳島大学工学部に進まれるわけですが、そもそも土木に興味をもったきっかけは?
寺田 先ほども申し上げたように、当時の磐田市はサッカーもなく、特段何かがあるとこではありませんでした。ただ実家が東海道新幹線のすぐ脇にあったものですから、そこの盛土なんかで凧揚げをして遊んでいました。
新幹線の開通が1964年10月なので、私が小学校低学年でした。それに近くに天竜川があり、そこに橋梁がたくさんある。あとは遠足で佐久間ダムなんかを見に行ったりして、その規模感に魅了されて土木の道に進もうと。
田中 それは割と早い段階で?
寺田 私の高校は2年生で文系理系に分かれていたので、土木に進もうと思ったのは、3年生頃でしょうね。
田中 大学に進まれてからはどのような研究をされていたのですか。佐久間ダムのお話が今出ましたが、ダム好きだったとか、当時の思い出をお聞かせ下さい。
寺田 卒論は土質の研究室でロックフィルダムの材料の内部摩擦角とせん断破壊時の破砕率の関係についての研究でした。大型の三軸圧縮試験機があるわけではないので、砂を使って三軸圧縮試験を行い、せん断破壊後に粒度分析して、どの程度潰れているのかということを延々と繰り返す細かい研究でした。
田中 なかなかハードな研究ですね。
寺田 特段「ダム」が好きだった、「土質」が好きだったというわけではなく、土木全般が好きでしたね。
田中 徳島と聞くと阿波踊りを連想するのですが、やはり寺田さんも踊られたりしましたか?
寺田 徳島大学というのは、変な大学で(笑)、入学すると学科ごとの阿波踊り用の浴衣を買わされました(笑)。今でこそ綺麗に見えますが、当時、学生の踊りは、一升瓶をぶら下げて踊るので、みんな酔っ払い。酷いものでしたよ。
田中 さすがですね(笑)。
寺田 私はギターの他にサイクリング部に入っていたので、印象に残っている大学生活といえば、やはりそのサイクリングですね。夏休みに北海道を2週間ぐらいかけて走ったりしましたね。
田中 四国から北海道へは当時ですと、どのような経路で?
寺田 学生でお金がないものですから、舞鶴まで出てフェリーで32時間かけて小樽港に行くという方法でしたね。日本海のど真ん中なので32時間景色が全く変わらない(笑)。
小樽港からは旭川、網走、釧路、納沙布まで行って北方領土を見たりしていました。北海道の中でも、摩周湖は格別で、普段は半分ぐらいが霧にかかっているそうですが、私が行ったときは真っ青で、まるで写真かなと思えるぐらいに綺麗でしたね。
田中 当然、四国も走られたりは?
寺田 ええ。2回ほど四国を周りました。四国は剣山という険しい山があります。そこは避けて走ったのですが、高知から愛媛に抜けるところも結構な難所で良い思い出ですね。
サイクリング部(三重と奈良の県境、高見峠標高899mヒルクライム)
田中 自転車は今でも走られているそうですが、月にどれぐらい?
寺田 月1回ぐらいですね。本当はもっと走りたいのですが……。今は多摩川沿いを走っていますが、あそこの土手の近くに水門があるんですね。
休憩しようと自転車を降り、ふっとその銘板を見てみると偶然にも「施工 東急建設」と書いてある(笑)。そういうインフラ巡りも含めてですね。
少し話はそれますが、インフラ巡りの話で、新潟県の大河津可動堰の竣工式に2011年に土木本部長として出席させていただきました。そこに記念館がありまして、私の尊敬する青山士あきらの記念碑があるんです。
記念碑には「人類のため、国のため」と書かれており土木技術者として感動するものがありますね。一昨年(2018年)も見に行きました。
大学時代にも徳島には吉野川という大きい川が流れていて、たくさん橋梁があるのでよく見に行っていましたね。当時からインフラ巡りをしたりしていたので、土木全般が好きでしたね。
大規模な街づくりに魅かれて「東急建設」へ
田中 インフラ全般が好きだったと仰られていましたが、東急建設へ入社されたのは、特に電車が好きだったとかそういう事情からなのでしょうか?
寺田 いえいえ、特に電車好きというわけではありません。どちらかというと当時から当社は大規模な街づくりのイメージをパンフレットなどで打ち出していたので、それに魅かれて選びました。多摩田園都市の開発写真ですね。
田中 入社されてからの配属は?
寺田 そういう街づくりといった大規模なことがやりたかったので、造成現場の希望を出したら、その通り造成現場に配属になりました。最初は神戸の垂水の現場。確か54haぐらいで計画人口が1,500人ぐらいの団地だったと記憶しています。
田中 その造成の現場の後に今度は鉄道の現場へ?
寺田 当社の仕組みで7年目に定期異動というものがありまして、その時にいきなり東京へ転勤だということで、そこからは延々と鉄道工事の現場をやっていました。造成の現場では夜勤は2、3回ぐらいしか経験していなかったのですが、都市土木になると週に2、3回は夜勤が当たり前で生活環境も大きく変わりましたね。
私の場合は、主に大きな現場を3つほど経験しました。1つは池上線の連続立体交差工事。2つ目はあざみ野駅の改良工事、そして3つ目は二子玉川駅の改良工事です。
現場時代(2列目左から3番目、池上線立体交差工事)
田中 特に思い出に残っている現場はどこでしょうか?
寺田 現場は全て思い出深いですね(笑)。池上線の連続立体交差工事は、一晩で地下に線路を切替える直下地下工法を採用するというかなり大変な工事でした。
3月に切替工事が決まっていて、2月の毎週土曜日夜にその実験を繰り返すわけですが、うまくいかず、毎週日曜日の朝、うなだれて帰ってくる(笑)。切替え本番当日は何とかうまくいって良かったです。
2つ目のあざみ野駅の改良工事は、3年間で横浜市の高速鉄道の駅をつくるという計画なんですが、誰がどうみても工期が間に合わない(笑)。当時、バブルの時代で職人さんも不足していて、鉄筋工が昼間は集まらないので夜マイクロバスで来てもらったりして、何とか間に合いました。
最後の現場が二子玉川駅改良工事です。今は、再開発も終わってとても綺麗になっていますが、その再開発をするために当時の線路を入れ替えて、配線替えしないといけない。配線替えといっても、平地で走っている線路を変えるのではなく、すべてが高架橋でしたので、高架橋全てを取り壊さないといけない。
しかも電車は運行しながら。とにかく2次元の図面をみても全くわからないんですね。ですから当時からCGを使ってお客さんや現場でも説明するのですが、その説明に苦労しましたね。複雑な工事でもう1回あの工事をやれと言われても、私にはできませんね(笑)。
田中 昔から、東急建設さんがやられる工事は難しいところばかりだという印象があります。
寺田 当社に「何が得意ですか?」と聞かれた際は、「狭いところをやるのが得意です」と答えていますね(笑)。田園都市線に乗られた際は二子玉川駅の手前で大井町線が見えますが、そこのカーブがとても綺麗になっているので、見てほしいですね。
鉄道現場は大変なことばかりでしたが、その都度、いろいろな場所で仲間ができ、プロジェクトに携われるのは建設業の醍醐味ですし、土木技術者でよかったと思えることです。
渋谷の再開発を経て、さらに都市開発へ意欲
田中 東急建設さんというと何といってもやはり渋谷の再開発だと思うのですが、そのあたりのことをお聞きできますか。
寺田 昨年の11月に渋谷駅の真上にスクランブルスクエアがオープンしました。JR、首都高、明治通り、銀座線、さらには渋谷川が流れているので5重苦というような大変な現場でしたが、関係各社と社員が大変な思いをしてつくりあげてくれました。
またお正月には銀座線の移設工事も無事に終了し、おかげさまでお客様からも喜ばれ、よかったと思っています。今後も年代・国籍・性別に関わらず多種多様なものが融合するエンターテインメントシティにしていけるようにお手伝いができればと考えています。
田中 土木の工事は、普段あまり表には出てこないものですが、渋谷のような都心のど真ん中で工事となるとタイムラスプ等を使った撮影がマスコミからも注目されましたよね。学生の採用活動にも影響があるように感じるのですが。
寺田 そうですね。学生さんの受けは良いと思っています。今では当社のPRも多摩田園都市線の写真から渋谷の再開発に変わろうとしています。やはり渋谷で働けるというのは、魅力の一つになるようですね。都心の再開発というイメージでしょうか。
田中 少し話題は変わりますが、代表取締役になられてから特に力を入れられていることはどんなことでしょうか?
寺田 やはりコミュニケーションですね。本当は現場に行った際に機会をみつけて現場の若手の話を聞いて、私の気持ちも話すという姿勢はもっていたいなと思っています。同じことは執行役員クラスともそうですね。とにかく人の話を聞いて、コミュニケーションをはかっていくことを心がけていこうと思っています。
田中 次に業界のことについてですが、働き方改革ですとかダイバーシティのことなど問題が山積している中での取組みをお教えいただけますでしょうか。
寺田 社員の皆さんには健康で働いてもらわないといけませんので、とにかく過重労働は何がなんでもやめていこうという話はしています。一方で、早く一人前になりたいという声もあるわけでして、それは効率よく仕事をして自分で時間をつくってもらうということですね。
若手の人材育成については、現在新入社員は10カ月間、現場や内勤、富士の教育センターやお寺へ合宿に行かせるなどしています。東京で学生だったのにいきなり東北の山のトンネルに勤務となるとギャップが激しいですからね。今、2年終わったところですが、軌道に乗りつつあります。
田中 10カ月間というのはとても手厚いですね。最近ですと、大学の学科によっては構造力学や土質力学を勉強しない学生さんも増えていますよね。
寺田 そうなんです。だから大学5年生みたいな感じですね。
田中 女性技術者についてはいかがでしょうか?
寺田 女性の新卒も積極的に採るようにしてはいるのですが、人数的にはまだまだ応募者数が少なくて、採りたくても採れないというのが現状ですね。ただ入社してくれる女性は非常に優秀ですし、頼りになっています。
土木技術者であることに誇りを
田中 最後に若手技術者へのメッセージをお願いできますか。
寺田 私は郷里が青山士と同じ静岡県磐田市ということもあって、彼の言葉にある「人類のため、国のため」という言葉が好きなのですが、この言葉からもわかるように、土木技術者というのは大変やりがいのある職業だと思っています。
誠実にモノをつくって、社会に貢献してほしいですね。青山士の恩師である内村鑑三が『後世への最大遺物』という講演記録を残しています。恐らくこれを読んでから青山は「自分が何になるのか」ということを考えて、パナマ運河に行ったのではないかと思うんです。
その人生がどのようなものであったかは定かではありませんが、やはりやりがいのある仕事だったことに間違いありません。ですから若い人にも土木はやりがいのある職業だという誇りをもって仕事をしてもらえればと思っています。
田中 本日はありがとうございました。
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