木藤健二郎さんは、慶応大学環境情報学部で建築とランドスケープを学んだ後、日本国内のコンサルタント会社勤務を経て、アメリカに留学し、ランドスケープアーキテクチャについて学んだ。その後、北欧のコンサルタント会社3社を渡り歩き、合計20年間に上るランドスケープアーキテクトとしての実務経験を積んだ。
現在は、九州大学大学院芸術工学研究院の准教授として、新たなフィールドでのチャレンジを始めている。ランドスケープアーキテクチャとはなんなのか、その魅力はどこにあるのかといったことについて、これまでの経歴を振り返ってもらいつつ、聞いてきた。
地域の文脈をどうデザインに落とし込んでいくか
――木藤先生は学生時代、どういった研究をされてたんですか?
木藤さん もともと建築設計をやりたくて、慶応大学の環境情報学部に入ったんです。なのでそのころは建築をメインにやっていました。とくに、いろんな建築家の方が、どういう思想を持ち発想してデザインしていくかみたいな、プロセスや思考のほうに興味があって、そういうことを勉強していましたね。
その一方で、石川幹子先生のランドスケープの研究室、景観の研究室ですけども、そこに入って、ランドスケープも学んでいました。いわゆる里山とか、農村集落とか、自然地形のような、デザイナーがデザインするものじゃないものが持つ秩序にも興味があったからです。そういった地域の文脈みたいなものを、どう読み込んで、建築デザインに落とし込んでいくか、みたいなことを考えていました。
慶大生時代、恩師石川幹子先生らとクリスマスパーティを楽しむ木藤さん(右端、本人提供)
――地域の文脈ですか。
木藤さん 地域の文脈と言うと、その地域の素材、瓦の色とかの取り合わせのような表層的なことを考えてしまいがちですが、そうではなくて、空間構造としてどう読み込んでいくのか、ということのほうが本質的なんじゃないかという考えがありました。
とくに公共空間についてはそう思っていました。公的な場所というのは、やっぱり、地域のシンボルとしてのその場所がどうあるべきかが大事なので。まず、その地域がどのような場所なのかがあって、その次に、そこにとってどのような場所が必要なのかという順番で考えることが、本質的なことであり、必要なことだと考えていました。
自然や景観が好きだった
自然が残る東京郊外で遊ぶ幼いころの木藤さん(本人提供)
木藤さん 最近思い出したんですけど、自分がちっちゃいころ、けっこう自然の中で遊んでいたんです。東京郊外で生まれ育ちましたが、自然が意外と残っていて、そういう場所で遊ぶのが好きでした。
高校は川越でしたが、今でも古い蔵造りと城下町の街並みが残っています。高校時代はしょっちゅう川越のまちを探索していました。
大学ではデザインとして建築を学びたいと思っていましたが、それ以前の原体験としては自然や景観が好きでした。これらがあとあと結びついてきたということに最近気づきました。
建築とランドスケープの研究室を掛け持ち
――自然と景観、建築とデザイン、どちらにも興味があったと。
木藤さん そうですね。どちらかと言えば、当時は建築だったのだと思います。環境情報学部は、研究室の掛け持ちができるんです。だから、自分も建築の研究室と石川先生の研究室、両方入ってました。
――2つの研究室に同時に在籍すると、どういう状況になるんですか?単純に大変そうですが。
木藤さん 修士も、学部も、論文を仕上げるのは、どっちかがメインになるという感じです。両方やらなきゃいけないという感じじゃないです。論文なり、卒業設計をやるのは、両方の先生に指導してもらいながら、まとめていくというカタチです。
――寡聞にして、研究室の掛け持ちOKという大学の存在を初めて知りました。
木藤さん 珍しいと思います。自分には、この環境がすごく合っていました。たとえば、建築メインの人も、ランドスケープメインの人も、みんな友だちでした。先生方も寛容で、むしろ掛け持ちを推奨していました。分野をまたいで、新しいことを探してください、という感じで。なので、研究室の掛け持ちは普通のことでした。そういう雰囲気がすごく好きでした。
――掛け持ちしながらも、メインは建築だったと。
木藤さん そうですね。要するに、建築とランドスケープは重なっている部分もあるわけです。そこで建築を設計するに際して、その地域のランドスケープの成り立ちの分析から構想していくことにチャレンジしていました。
国際コンペをきっかけに、自分のランドスケープを極めようと決意
――卒業後のビジョンはあったのですか?
木藤さん 卒業したら建築のアトリエとかと思っていました。
大学院修了直後に、建築家の伊東豊雄さんと石川先生が協力して取り組む公園の国際コンペに研究室のリーダーとして参加する機会がありました。その公園は、多種多様なレクリエーションの場であると同時に植物や紫外線などによって下水を浄化するシステムでもあって、広大な森をつくることで、マドリッドの暑くて乾燥した気候を緩和する構想でした。
かなり専門的な知識を要するコンペでして、技術書などを調べながらコンペ要綱が想定する水のシステムを理解して、そのシステムにカタチを与えるようなコンペでした。これが自分にはすごくおもしろくて、「持続的なインフラと、人の体験のあり方を同時に模索することがランドスケープには可能なんだ」と気づきました。
これは、それまでに自分が知っていたランドスケープとは全然違っていました。こういうアプローチを自分のランドスケープの核にしよう、ランドスケープを極めようと思いました。ちなみに、このコンペはわれわれのプランが優勝しました。プランの一部は変更されましたが、公園はできあがっています。スペインのマドリード郊外にあるガヴィア公園がそれです。
中国の巨大プロジェクトに日常的に携わる
木藤さんが関わったハン川の自然公園プロジェクト(瀋陽市、2008年設計、本人提供)
――それで、その後どうされたのですか?
木藤さん 造園コンサルのタム地域環境研究所という東京都内にある会社に入りました。この会社は日本国内では市町村のみどり関係の調査や計画などの仕事をしていたんですが、中国ではたくさんの設計プロジェクトをやっていました。それで、主に中国の設計プロジェクトに携わるようになりました。
――いつごろの話ですか。
木藤さん 中国のプロジェクトに関わったのは、だいたい2003年〜2010年あたりでした。この間、タム研から設計部門が独立して、引き続き中国の仕事をやっていました。いろいろな仕事をかなりやりましたよ。駆け出しの時期に日本ではちょっとありえないような大きなスケールのプロジェクトに日常的に携わる機会を得たのは、自分にとっては貴重な経験でした。
――たとえばどういうプロジェクトですか。
木藤さん 瀋陽市渾川(ハン川)流域ランドスケープのプロジェクトですね。地方政府が主催するコンペに勝って始まったプロジェクトでして、石川先生などとチームを組んで、川沿いの巨大な自然公園のデザイン設計をやりました。
しかし、実際に設計した公園に加えて、より広い流域の構想を作成しまして、あまりに巨大なので、果てしない感じがして、デザインコントロールには苦労しました(笑)。島をつくったりもしたのですが、全体に穏やかで、すごく自然で、生物多様性に配慮した公園デザインになりました。自分ではなく、石川先生のチカラなんですけど、これはすごいなと思いました。当時このような公園は中国にはなかったです。
あとは、西安の唐代の城壁遺跡公園です。西安は砂漠の入口に位置していて、黄砂がすごくて、夏は暑くて、空気も悪いという過酷な環境のまちなんです。なので、「オアシスみたいな感じになったらいいな」と思って、全長約4.3km、幅100mの城壁遺跡の長大な土地にとにかく木をいっぱい植えることにしたんです。その結果、今は海みたいな森になっていて、良い感じで使われています。
同じく西安の唐代の城壁遺跡公園プロジェクト(西安市、2006-2007年設計、本人提供)
――出張ベースで行き来していたんですか。
木藤さん 最初はそうでした。ただ、後半の1年ほどは、西安に住んでいました。西安は、北京や上海と違って、特異と言うか、西域との交流が色濃い食文化や周や唐にさかのぼる長い歴史背景など独自性が強かったので、生活するのはおもしろかったです。
かなりカオスで、仕事面はけっこうストレスフル
中国駐在中、雪を現地視察する木藤さん(本人提供)
――中国での仕事はおもしろかったですか?
木藤さん 生活はおもしろかったですが、仕事はそうでもありませんでした。ハン川の公園は、自分ではうまくいったなと思っている数少ないプロジェクトの一つです。
一方で、中国では、外国人ができるのは構想や基本設計までで、詳細設計はできないんですよ。施工図面は現地の協力会社が書いていました。図面を書いている最中なのに、もうつくり始めていたり、かなりカオスなところがあって、仕事面ではけっこうストレスフルでしたね。
ご両親が西安にいる木藤さんを訪問したときのスナップショット(本人提供)
あとなんと言っても、「ランドスケープとはなんなのか」について、考え方がまったく異なる印象がありました。現地政府の人々はランドスケープをモニュメントととらえていて、彫刻などを置いて、中央政府に立派な「ランドスケープ」をアピールするわけです。
自分としては、みんなのための環境をつくりたい、ランドスケープはさまざまな意味で公共性が高いものという意識があったので、個人の功績や立派さの表現というのは違うと思っていました。ただ、それを言うためには、もう一回勉強し直したほうが良いなと思いました。
アメリカに留学し、ランドスケープアーキテクチャに特化した教育を受ける
アメリカ留学中、学部長宅に招かれた木藤さん(本人提供)
――それでどうしたんですか?
木藤さん アメリカの大学に留学しました。アメリカにはランドスケープアーキテクチャという確立された学問分野があって、カリフォルニア大学バークレー校(UCバークレー)でそれを学びました。
日本にもランドスケープアーキテクチャを学べる大学はありますが、農学部の一部だったり、建築学部の一部だったりという扱いで、アメリカのようにちゃんと学部として確立されてはいない、ランドスケープアーキテクチャに特化したプログラムが組まれていないんです。
UCバークレーには、ランドスケープアーキテクチャについて、深堀りした教育を集中的に受けさせる充実したカリキュラムがありました。庭園や都市計画に関する歴史を深堀りする授業、植物や生態系に特化した授業、他にもリサーチや表現技法や構造施工に関する授業など、とにかくランドスケープアーキテクチャに関するたくさんの密度の高い授業があったんです。
アメリカ留学中、発表する木藤さん(本人提供)
――期間はどれぐらいでしたか?
木藤さん 修士課程は普通3年ですが、自分は社会人経験があったので、2年半でした。
――誰か先生に指導を受けながら研究する感じでしたか?
木藤さん そうじゃなかったですね。自分で授業を選びながら、勉強する感じでした。もちろん、自分の興味と近い先生とは自然と仲良くしましたけど、基本的に自由度はかなり高いです。デザイン学校なので、修士論文は必須じゃないです。長期休暇も長いです。
――なんか楽しそうですね。
木藤さん 一般的に楽しいと言われています。アメリカではデザインスクールと言います。ランドスケープ、建築、アーバンデザインといった分野があり、分野に即して、さきほどお話ししたような密度の濃い授業群があるのですが、デザインを勉強するのはとにかくスタジオ(設計演習)です。「スタジオ命」と言うか、そこでどれだけ自分を磨いていくかみたいな感じがあります。
普通じゃないような課題を多く出されるので、たんにデザインを考えるというのではなくて、問題意識の持ち方みたいなものが必要です。
たとえば、ロサンゼルス郊外の油田採掘地を対象に、油田が尽きて放棄地になった後に、長い年月をかけてどういう土地に変えていくことができるかを考えてください、という課題が出されるんです。普通は考えることのない課題ですが、こういうスケール感の課題が多いんです。
油田の土壌改良をどうやってやるのか、ランドスケープ的にどう解決するのか、まずそれがわからないので、それらの既往技術を調べながら、方法を考えていくわけです。わからないことだらけですが、わからないことをイチから調べて、解決方法を考えるというのが、実践的なんです。
加えて、このような広大な対象地が現実的に地域の生態系や社会に与え得るインパクトについてもいろいろ調べながら検討していきます。基本的には実務者を育てる場所なので、難しかったけど、おもしろかったですね。
発表者として木藤さんが撮った聴衆の様子(本人提供)
日本の都市計画は緑や水をベースとして考えられていない
木藤さん アメリカでは、都市計画や都市デザインをランドスケープの人がやるので、そういう人を育てるという視点がとても強いんです。一方日本では、都市計画はランドスケープの人、緑の人がやるとは考えられていません。日本にも緑の基本計画はありますが、土地利用を変えることができないので、土地利用計画ではないんですよね。
もちろん、土地利用をいじらなくても、緑を考えることはできますが、なんと言うか、日本には「都市計画に緑の人は来なくていいよ」みたいな空気を感じるんですよね(笑)。
ランドスケープ・アーバニズムという言葉がありますが、要するに、「都市をつくる骨格は緑や水などの自然なんだ」という考えだと言えます。交通インフラや産業の集中といった視点のみで都市の骨格を考えるのではなく、人も含む生き物が生き続ける上で骨格になるもの、緑や水といったものが都市を決定づけるということです。
この点、今の日本の都市計画は、緑や水を出発点として考えられていないですし、少なくとも、もっと考える余地はたくさんあります。日本でも一般的な緑のネットワークという考えは、ボストンなどのパークシステムが有名ですが、昔は東京にもこうした構想がありました。しかし開発が優先というか優勢で、この構想はほぼ消えてしまいました。
ちなみに、ニューヨークのセントラルパークができたのは、産業が発展して、移民がいっぱい流れてきて、都市がすごく稠密になったのが原因だったんですよ。空気が悪くなって、疫病も発生したので、「都市の肺」となる緑としてつくられたんです。
――日本でも最近、うめきた公園がオープンしました。当初の目的は商業ビルの再開発でしたけど。
木藤さん ランドスケープ・アーバニズムに似た考えがあると思います。緑がまちの基盤としてそこにあることで、まち全体の価値も上がっていく、いろんな意味が上がっていくという考えです。自分はまだ行ったことがありませんが、非常に行ってみたいです。あくまで予想ですが、非常に質の高い、野心的な都市の緑が実現されていると思います。一方大阪らしさは低いんじゃないでしょうか。海外風でかなりおしゃれだと予想されるので(笑)。
インターンと実務、社屋を公園のようにデザインする
木藤さんが手掛けたアパレル系会社の本社中庭。散策路と変化のある植栽をあしらった(本人提供)
――長期休暇のお話がありましたが、インターンはどうでした?
木藤さん 長期休暇中はインターンに応募する学生が多く競争が激しかったです。自分もそう簡単にはポストに就けなかったです。
自分はササキ・アソシエイツやSWAという会社でインターンとして働きました。
そして、UCバークレー修了後はRHAAという会社で働きました。サンフランシスコ・ベイエリアにいくつかオフィスを持つ会社で、公共と民間のプロジェクトがちょうど半々ぐらいで、地元を中心に多く実績のある会社でした。自分はサンフランシスコのユニオンスクエアに面したオフィスで働きました。
期間は半年ぐらいと短かったですが、ベイエリアのフリーモントにあるアパレル系の会社の本社の改修プロジェクトなどに携わりました。本社は自動車による移動を前提とした地区にありまして、周囲に公園や緑がなかったので、仕事の合間に散歩や休憩などできる植物主体の公園のような中庭を提案しました。
同じくアパレル系会社の本社中庭。休憩や遊びの空間も演出した(本人提供)
コンセプトがダメだと、あとでいくら頑張ってもダメ
――どういうポジションだったのですか?
木藤さん コンセプトを考えたのと、基本設計と実施設計もやりました。実施設計の図面は、経験のある先輩の方から教わりながら取り組む機会を得られました。
――コンセプトを考えるって、プロジェクトのコア部分の仕事じゃないですか?
木藤さん ええ、コア部分だと思います。コンセプトがダメだと、そのあとにいくら頑張ってもダメみたいなところがありますから。コンセプトをあとから直すのも困難です。他の誰かがコンセプトを手掛けて引き継いだ際、そのコンセプトが実際には建設不可能だと後から気づくこともあります。そして結果的にプランが完全にやり直しみたいなこともありました。
国として社会として先進的なところで働くのがおもしろいんじゃないか
ランボル社時代の仕事風景(本人提供)
木藤さん 持続的なデザインに関して、アメリカは、ランドスケープアーキテクチャに関する教育プログラムはすごいんですが、実社会はと言うと、モータリゼーション社会と言うか、車で動くしかない、そういうライフスタイルが郊外を中心にまだ多く、なにより大量消費スタイルを世界に広めた国なので、持続性とはほど遠いと言えます。
そういう国で働くよりも、国として社会として先進的なところで働くほうがおもしろいんじゃないかと考えました。アメリカで働きつつ、そういうことを考えていて、知人を通じて話を聞いたりもしていました。
あるとき、話を聞いていた知人から、「ウチの会社でランドスケープアーキテクトの募集が出たよ」という話が来ました。実はこの時点ですでに、知人にポートフォリオを送って、自分のやっていることやその会社でやっていることなどをオンラインでいろいろとやりとりしていたので、面接はわりとスムーズで、その会社に入りました。
それがランボルというデンマークに本社がある建築、土木のコンサルタント会社です。この会社は、北欧を中心に世界中にオフィスがあって、従業員が1万人ぐらいいる会社でした。どちらかと言うと、デザインよりも、エンジニアリングに強い会社で、デザインも土木や設備のエンジニアリング等もウチで全部やるという感じの会社でした。ランボル社には6年ぐらい在籍していました。
ランボル社時代に木藤さんが手掛けた周囲の風景や散策エリアと一体となった集合住宅(本人提供)
同じく湖へ注ぐ雨水の浄化池(本人提供)
3Dプログラム「Civil 3D」と土木エンジニアとの協働
マルチコンサルト社時代、木藤さんが手掛けたまちに開いたダウン症の方たちのための集住型養護施設(本人提供)
――ランボル社のあとはどちらに?
木藤さん ランボルは、ノルウェーのスタバンゲルというまちの支社で働いていました。このまちは北海沿いの小さなまちですが、ノルウェーの主要産業である石油・天然ガス産業の拠点なので、裕福で国際的なまちでして、市街地開発がまだ活発に進行しています。
ランボルで働いた後、同じくスタバンゲルにあるマルチコンサルト社で働きました。ランボルと同じようなコンサルタント会社ですけれど、どちらかと言うと、土木色が強い会社です。マルチコンサルトで働いて得た貴重な経験は、土木エンジニアの同僚たちとの密な協働です。とにかく周りは土木エンジニアの人たちばかりで、オフィスにいるランドスケープの人間は自分ひとりという時期もありました。
道路のプロジェクトが多くて、道路に付随する緑地、歩道、アンダーパスの広場空間などをデザインしていました。その中で道路からの雨水を貯留浸透させる緑地のデザインを手がけました。水のエンジニアの同僚と一緒に、基本的な水の流し方を構想して取り組みました。
マルチコンサルト社時代、雨水を貯留浸透する緑地をCivil 3Dによって設計(本人提供)
こうした土木プロジェクトは、二次元図面ではなく3Dモデルによって初期段階から詳細まで各種部門のエンジニアが設計し、これらのモデルを統合したモデルによって随時確認やすり合わせを行いながら、密な分野間協働で進めるのが主流となっていました。
土木系では「Civil 3D」という3Dプログラムがよく使われます。ランドスケープ部門でCivil 3Dを使える人間は少ないですが、マルチコンサルトは土木プロジェクトの多い会社だったため、Civil 3Dに長けたランドスケープの同僚が隣に座っていて、彼女に教えてもらいながら短期間で習得できました。
Civil 3Dは直感的には操作できないインターフェイス設計なので、慣れるのに少々時間がかかりますが、複雑な勾配の自動計算や、エンジニアとのデータや図面のやり取りに便利な機能が充実しています。雨水を地表面に流すための細かな勾配設計なんかは簡単にできるので、今も日本の雨水管理関連のプロジェクトでCivil 3Dを使っています。
全員ランドスケープアーキテクトの会社
SLA時代、木藤さんが手掛けた周辺の緑地や市街地と一体となる海辺の公園(本人提供)
――マルチコンサルトにはどれぐらい在籍していたのですか?
木藤さん 1年半ほどと短かったです。その後はSLAというコペンハーゲンを拠点とする会社のオスロ支社に勤めました。SLAは従業員130人ほどのランドスケープ専門の会社でして、ランドスケープアーキテクト専門集団としては北欧最大です。SLAはノルウェーやデンマークといった国々のいちばん重要なプロジェクトをやるような、北欧を中心に非常に知名度の高い会社です。
なので、デザイン実績だけでなく、Civil 3Dの実績があったからSLAに入社できたと思っています。Civil 3Dで設計してエンジニア・建築家と協働するワークフローの知識・能力は高い需要があるけれど、それを持つ人材が不足している状況がありました。実際会社に入ってみると、どのプロジェクトも非常にやりがいを感じるものばかりで、素晴らしい職場でした。
生き物も含めたみんなのための空間を構想する
同じく雨庭などを巡るけものみちのある海辺の公園(本人提供)
――SLAではどのようなお仕事をされましたか?
木藤さん 公園、ヴァイキング船博物館、住宅、複合開発、小川の開渠化などのプロジェクトに関わりました。前職と同様の3Dモデルや実施設計の業務が多かったほか、水のエンジニアと連携しながら広域的な雨水管理方法の計画も手がけました。
主なプロジェクトの一つは、スタバンゲルの海辺の公園です。周辺の緑地や市街地の賑わいなどを結びつけるハブのようになって街の回遊性を高める公園です。園内にも様々な場面や遊び場があって、それらを駆け回れるような回遊性をつくる、要するに街にも公園にも回遊性を生み出すみたいなことを試みました。
具体的には、園内には、植物と地形が折り重なって、開放的だけど、完全には見渡せない環境をつくっています。その環境の中に、遊びや散策などのいろいろな楽しみ方があふれた空間をつくりました。園路だけでなく、植物の合間を抜けて冒険心や季節ごとの発見の楽しみを感じられる「けものみち」も多く配置しました。
ノルウェーでは、グリーンストラクチャーと呼ばれる市街地と連続した公園、緑地、トレイルなどのネットワークを都市マスタープランに示すことが義務付けられています。スタバンゲル市は、この海辺の公園のように、民間開発によって既存のグリーンストラクチャーを結び付けたり、延長したりする機会を積極的にねらっています。
もう一つは、オスロにある観光名所であるヴァイキング船ミュージアムの改修です。緑豊かな半島にあるミュージアムで、周囲にはビーチや森などを巡るハイキングトレイルがあります。なので、周辺の散策と一体的にミュージアムを体験できるように、自然の中にあるミュージアムにするプロジェクトでした。
SLA時代、同僚たちとイギリス視察旅行中の木藤さん(本人提供)
――なんか良い感じですね。
木藤さん SLAの素晴らしさは、現代的な都市空間を手がけているのですが、そこに生息する生き物も含めたみんなのための空間を基本としていることです。生き物を含めて構想するので、ちゃんと植物が育つ土壌をなるべく確保して、雨水がうまく集められて土にしみ込んだり、生態系がはぐくまれる仕組みを都市の中でも目指します。
実際には、それが人や社会にとってどう具体的な豊かさをもたらすのか説明しないと、「その考えいいね」とはなりません。それを説得力を持って示すのがデザインです。そのような取り組み方を自分は今後も継続するし、日本でもその有用性が共有されていくと思っています。
地域の個性を高めるランドスケープの可能性を探るため、帰国
黒川地域での野焼きの防火帯づくり作業、 輪地切りの様子(本人提供)
――そんなSLAには何年いたのですか?
木藤さん 3年半ほどです。
――意外と短かったですね。SLAのあと九州大学に来たのですか。
木藤さん そうですね。いろんなタイミングが重なりました。
九州大学でランドスケープのデザインを教える准教授を募集するお話しを聞いたとき、丁度SLAで入社以来担当していた4つの主要プロジェクトが全て竣工されるタイミングでした。もう一度同等の成果をあげるには数年かかることになります。自分の年齢も考えると、今が帰国するには良いタイミングだと思えました。
さらに昨今の福岡、九州という土地にとても魅力を感じました。福岡はすごく勢いのある地方都市ですが、東京のコピーみたいなものでは全然なく、食文化やお祭りなど独自の個性が強く観光客も多いです。
九州には、地方にもたくさんの個性的な土地があり、とくに海外からの観光客を惹きつけています。成功している土地ほど土地が古来持つ文化、産業、歴史、自然といった個性を維持しています。
これらを受け継ぐことが観光資源になるなら、一昔前のリゾートや箱ものみたいな観光推進よりも持続的だろうし、そこにランドスケープ的な視点からの新しい取り組みがたくさんあるはずだと考えました。更にそこから日本のほかの地方や東京へ向けて発信したり連携できることもたくさんあると考えました。
――まだ日が浅いとのことですが、九州大学に来てから、どのような活動をしているのですか?
木藤さん 2024年7月に着任したので、来てまだ数ヶ月といったところですが、すでにいろいろやってはいます。たとえば、熊本の黒川温泉のリデザインにチャレンジしようとしています。
黒川温泉は、温泉街全体が一つの宿というコンセプトのもと、周囲の山から木を移植してつくった雑木の街並みで、大変素晴らしい空間になっています。しかし実は、温泉の周りも、野焼き管理された阿蘇の草原など素晴らしい景観が広がるので、温泉街と景観を一体的に体験できるようにデザインすれば、もっと魅力が増すと思っています。
温泉街の周りを散策、ハイキングして、そのあと温泉で汗を流す、みたいな。とくに欧米からの観光客は、観光イコール歩くことという感覚が強くあります。歩いて楽しい美しい景観と温泉観光のセットというのはかなり訴求力があると思っています。なるべくお金をかけないでそういうことをやろうとしています。
木藤さんが手掛けている、とある市庁舎の歩道軸のデザイン(本人提供)
ほかには、緑地での雨水管理の考えを、日本で現実的な方法で試みています。掘割が有名な観光の町の市庁舎では、近隣の図書館や小学校などと一体的な歩道軸を形成して、これが少し離れた観光エリアとも一体的な歩行環境になることを狙っています。
歩道軸と敷地外周は植栽帯になっていて、広大な駐車場の視覚的インパクトを和らげます。植栽帯には雨庭を配置して、観光の目玉の掘割へ流入する道路の雨水を植物や土壌によって浄化して水害も緩和します。シンプルな方法で雨水を導けるように造成や雨水桝の位置を検討しています。
緑があることで、環境だけでなく経済的にも豊かになる
――今後研究室を立ち上げるそうですが、今後の活動の予定、見通しはどうなっていますか?
木藤さん 2025年に学部生を対象にした研究室を開設して、段階的に修士、博士の学生も担当する見通しです。「生き物も含めた、みんなのための環境としての都市環境」というものが一つの大きなテーマの研究室になります。一般的には「緑はお金にならない」と言われがちですが、緑があることが、環境だけでなく経済的にも豊かさ、持続性につながることを、実践を通じて社会に示すことを目指しています。
基礎研究は非常に大事なことですが、自分の研究室では、実際のフィールドを持って、その地域の人たちにニーズをヒアリングして、そのニーズに直結する実践的、実益的なテーマを設定しようと思っています。内容的には、水循環やグリーンインフラは大切ですが、観光、マテリアル循環、身近な緑など広く捉えていくことにしています。