1996年、女性土木技術者が非常に少なかった時代に、関東地方整備局に飛び込んだ池上清子さん。以来、河川管理の最前線で数々の挑戦を重ね、2025年4月、利根川上流河川事務所の副所長(計画管理)に着任した。
気候変動の影響による豪雨災害の激甚化、頻発化、人手不足、DXの波――複雑化するインフラ管理の課題に立ち向かいながら、女性技術者のロールモデルとして道を切り開く彼女のキャリアは、関東地方整備局における女性の技術系職員のロールモデルとなりうる。このインタビューでは、これまでの池上さんの軌跡を追いながら、関東地方整備局という職場の魅力に迫る。
最も歴史ある利根川上流河川事務所
利根川流域の概要(利根川上流河川事務所提供)
「利根川上流河川事務所は、関東地整の河川系事務所の『お兄さん』と呼ばれる存在なんです」利根川は、日本最大の河川であり、関東平野の生命の源だ。その上流域を管理する利根川上流河川事務所は、最も歴史ある河川事務所として知られる。
事務所の歴史は、利根川の洪水対策の変遷と密接に結びついている。過去の大洪水を教訓に、堤防の強化や遊水地の整備が進められてきた。利根川本川の約100キロメートルの管轄範囲で、堤防や河川構造物の維持管理から、首都圏を洪水から守る大規模インフラ整備まで、多岐にわたる任務を担う。
利根川の右岸堤防の一部が「首都圏氾濫区域堤防強化対策」に指定されている区域では、通常の堤防よりもより強固な構造が求められる。「もしこの区間で堤防が決壊すれば、カスリーン台風の氾濫流のように、東京までの一帯が約3日間かけて浸水し、5日後には東京湾に到達します。その被害は計り知れません。その責任の重さを常に意識しています」と話す。
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堤防除草業務の人手不足と高齢化のカベ
副所長(計画管理)として池上さんが統括する業務は、「計画」と「維持管理」の二本柱だ。計画業務では、河川整備基本方針や整備計画の策定を担当。気候変動による豪雨災害の激甚化・頻発化を背景に、2024年7月に基本方針を改定し、2025年3月には整備計画を見直した。多様な主体による流域治水やグリーンインフラの考え方を反映した新たな枠組みが構築されている。たとえば、既存ダムの治水機能強化や河道掘削の強化を通じて、洪水ピークを効果的に抑える施策が盛り込まれた。
一方、維持管理は現場の課題と直結する。約100キロにわたる堤防や河川構造物の管理は、堤防除草や堤防点検から洪水時の緊急対応まで多岐にわたるが、人手不足と作業員の高齢化が大きなカベだ。「大規模堤防の除草は、広大な面積をカバーする必要があり、人手だけでは限界があります」と指摘する。首都圏氾濫区域堤防強化対策の堤防は、堤防の高さの7倍の幅を持つ広大な面積であり、維持管理の負担は大きい。
この課題に対し、事務所では省力化や自動化を模索中だ。「一部の受注企業は、3D技術やDXを活用した自動化に積極的ですが、初期投資のハードルや技術理解の不足から、浸透はこれからです」と話す。
たとえば、堤防除草の自動化にはドローンやロボット技術が検討されているが、コストと現場の運用体制が課題だ。事務所では、受注者との定期的な対話を通じて、技術導入の障壁を一つずつ解消しようとしている。「人手不足は今後さらに深刻化します。早期の省力化が不可欠です」と指摘する。
デジタル技術は現場のニーズに合わなければ意味がない
国土交通省の「i-Construction 2.0」や「インフラDX」の推進は、河川管理にも変革を迫る。利根川上流河川事務所でも、点検データのデジタル化や3Dモデリングの導入が始まっているが、池上さんは慎重だ。「DXは重要なテーマですが、職員の理解が追いついていない部分もあります。日々の業務に追われながら、新しい技術を学ぶのは簡単ではありません」と語る。
池上さんは、過去に本局の情報通信技術課で3年間勤務した経験を持ち、ITやシステムに抵抗感は少ない。彼女が関わったプロジェクトでは、河川管理データの統合プラットフォーム構築が試みられたが、現場での運用には課題が残った。「技術は手段にすぎません。現場のニーズに合わなければ意味がありません」と言う。事務所全体でのDX推進には、職員教育と受注者との協働が欠かせない。
グリーンインフラとしての渡良瀬遊水地
渡良瀬遊水地の概要(利根川上流河川事務所提供)
池上さんが所管する渡良瀬遊水地は、事務所にとどまらず、関東地整のグリーンインフラに関する取り組みを象徴する存在だ。渡良瀬遊水地は、洪水調節機能に加え、2012年にラムサール条約に登録された湿地環境として知られる。近年では、コウノトリの飛来や無農薬米「コウノトリ米」の生産など、地域と連携した自然共生型のプロジェクトが進行中だ。「遊水地は、洪水を抑えるだけでなく、湿地環境の保全を通じて生物多様性を守ります。地元農家との連携で、地域経済にも貢献しています」と説明する。
グリーンインフラの考え方は、堤防整備や河道掘削にも取り入れられている。たとえば、河道掘削で生じた土地を湿地や自然再生エリアとして活用することで、地域の生態系と調和したインフラ構築を目指す。「グリーンインフラは、防災と地域振興を両立させるカギ。すべての事業がその一環だと考えています」と語る。
仕事の規模が大きく、多様な挑戦ができる国を選んだ
池上さんは、関東地整における女性土木技術者のロールモデルを担うトップランナーの一人だ。1996年、旧関東地方建設局(現・関東地方整備局)に入省した当時、配属された事務所に技術系の女性職員はわずか3名。就職氷河期の厳しい時代背景の中、安定した公務員の仕事を選んだが、彼女の選択には明確な意志があった。
池上さんは東京都特別区(23区)、埼玉県庁の採用試験にも合格していた。しかし、あえて関東地方建設局を選んだ。「ゼネコンやコンサルタントも考えましたが、景気の不安定さから公務員を選びました。東京都や埼玉県も魅力的でしたが、関東地方建設局の仕事は規模が大きく、多様な挑戦ができると感じました。河川やインフラの社会的意義に惹かれたんです」と振り返る。面接での「即時合格」発言も後押しとなり、建設省(国土交通省)の道を選んだ。
埼玉県出身の池上さんは、大学で土木工学を専攻。入学当初からお世話になった教授が、水理工学研究室を担当されていた影響で、道路よりも河川に親しみを感じていた。「河川は、地域や自然と密接に関わる。そこに魅力を感じました」と言う。
入省後、多様な現場で経験を積んだ。以下、池上さんにとって印象深い3つのエピソードを取り上げる。
霞ヶ浦導水工事事務所 トンネル現場の「見えないカベ」を乗り越える
入省直後の霞ヶ浦導水工事事務所では、シールドトンネルの設計を担当した。当時、トンネル工事現場では「山の神様が怒る」という迷信から女性の立ち入りが制限されていた。
「副所長が受注者と交渉してくれて、スカートやヒールや大声は禁止という条件で、作業着で現場に入れました」と池上さんは笑う。トンネル入り口に神棚が飾られた光景は、伝統と近代技術の交錯を象徴していた。「受注者や作業員の意識も変わりつつあると感じました」と振り返る。この経験は、女性技術者としての壁を乗り越える第一歩だった。
小名木川出張所長 都市河川の複雑な課題に直面
2017年、池上さんは荒川下流河川事務所の小名木川出張所長として、出先事務所の責任者となった。首都高速道路が並走する小名木川は、都市河川特有の課題に直面していた。「早朝の雨天時にトラックが転倒し、オイルが川に流れ込む水質事故が頻発しました。また、堤防沿いに居住するホームレスの方々への対応も大きな仕事でした」と語る。
ホームレスは当時160名を超え、洪水時の安全確保が急務だった。「台風接近時には、河川巡視員に依頼して避難を呼びかけるチラシを配布しました。1日半かけて配り終える作業でした」と振り返る。地域住民や関係者との連携を通じて、現場の声を反映した課題解決を学んだ。「現場の声が、解決の糸口になる」と彼女は強調する。小名木川での経験は、都市河川の複雑さと、コミュニティとの協働の重要性を教えてくれた。
荒川上流河川事務所工務課長 台風19号からの復旧工事を大量発注
2021年から2022年、池上氏は荒川上流河川事務所の工務課長として、2019年の台風19号により直轄区間5か所の堤防決壊からの復旧を牽引した。「初めての勤務地で土地勘がなく、勉強しながらのスタートでした。工事の発注量が多く、限られた時間内で効率的に進める必要がありました」と語る。
工務課長として、予算や工事発注を総括し、設計検討や用地交渉など多部門と連携。堤防整備や河道掘削を進め、構造物が完成する過程にやりがいを感じた。「目に見える成果は励みでした」と言う。発注の不調はほぼなく、堤防整備や河道掘削は受注者にとっても収益性の高い案件だったため、順調に進んだ。「復旧工事を通じて、地域の安全を直接的に守る実感がありました」と振り返る。
性別よりも、現場で何を成し遂げられるかが大事
(写真本人提供)
現在、関東地方整備局では女性管理職が増加中だ。池上さんの同世代には、甲府河川国道事務所や渡良瀬川河川事務所の副所長を務める女性がいる。本局の事業調整官など、課長職以上のロールモデルも現れている。「私の入省時には女性技術者は事務所に3名だけでしたが、今は若い女性職員も増え、キャリアの選択肢が広がっています」と語る。
「政府の女性管理職目標は理解していますが、土木分野は母数が少ないので、数字だけを追うのは難しい。ライフスタイルに合わせた多様な働き方が認められるべきです」と言う。家庭と仕事を両立してきた池上さんは、女性であることを特別視せず、技術者としての能力で評価されることを重視する。「性別よりも、現場で何を成し遂げられるかが大事」と強調する。
副所長として、部下の働きやすさの確保も役割の一つだ。若手職員の転勤への抵抗感や自治体志向の高まりが課題だが、池上氏は関東地方整備局の強みをこう語る。「関東は交通網が発達し、転勤でも引っ越しせずに通勤可能です。私も25年間、さいたま市に住み続けながら、働いてきました。新幹線通勤の補助も充実し、働きやすさは向上しています」。
たとえば、高崎河川国道事務所への通勤も、新幹線を使えばさいたま市から30分程度。ライフスタイルの多様性を尊重する制度も進化している。「育児中は大変な時期もありますが、制度を活用したり、時にはお金で解決したりしながら、柔軟に働けます」と笑う。確かに、通勤や働き方に柔軟性をもたせることが、若手職員の入職・定着につながることは、一定あり得る。
「技術者同士の切磋琢磨」が土木の魅力
池上さんは土木を目指す若者、特に女性に向けてこうメッセージを送る。
「関東地方整備局は、大きな責任とやりがいのある職場です。工事の規模が大きく、工事受注者やコンサルタントと対話しながら技術力を磨けます。育児やライフスタイルに合わせた制度も整っているので、気兼ねなく挑戦してほしい。土木は社会に貢献できる素晴らしい仕事です」。
土木の魅力の一つとして、「技術者同士の切磋琢磨」を挙げる。「受注者やコンサルタントと協働することで、技術力が向上します。異なる視点から学ぶ機会が多いのは、この仕事の醍醐味です」と言う。
池上さんのキャリアは、関東地整プロパーの女性技術者の可能性を示す。そんな彼女は今、利根川上流河川事務所で、DXやグリーンインフラで気候変動や人手不足に立ち向かい、その最前線で未来を切り開き続けている。その歩みは、若い技術系女性職員にとって、未来の可能性を照らす道標であり続けるだろう。