日本科学未来館で2019年2月から5月19日まで開催されている企画展「工事中!」で、バックホウの体験乗車に興じる大村拓也さん。展示作品の素材として大村さんも写真提供している。

『日経コンストラクション』の表紙撮影を10年以上。それでも僕が「土木写真家」を名乗らない理由【大村拓也】

土木現場を「撮って、書く」プロカメラマン

土木技術者にはおなじみの専門誌「日経コンストラクション」の表紙と巻頭グラビア記事を12年にわたり手がけている写真家・大村拓也さん。施工中の現場を土木工学科出身ならではの視点でクローズアップする切り口には定評がある。

土木学会の会報「土木学会誌」でも、土木構造物を周辺の地形や風景とともにすくい上げる「土木遠景」などのフォト・エッセイが好評を博した。また、「積算資料」「土木施工単価」の表紙を連載していたこともある。

意識高い系土木技術者のための雑誌「日経コンストラクション」。2018年11月12日号の表紙に写った後姿の技術者は、大村さんの大学の後輩

大村拓也さんは親子三代にわたる筋金入りの「鉄道マニア」。大学で土木工学を専攻する傍ら 、“撮り鉄”で磨いた写真の腕を生かしてブライダル・カメラマンのアルバイトに就くと、場を盛り上げる天賦の才に自ら気づき、「写真で食っていけるかも」と確信。そのとき、彼の中で「鉄道✕土木✕写真」の三次元が立ち上がった。

ライスワーク(つまり飯ダネ)では「現場“見学”代理人」を自称し、「土木技術者である読者が見たいところを撮る」。ライフワーク(つまり売れるかどうか気にしない)では「土木技術者でもある自分が見せたいところを撮る」。

しかし、肩書きの威光にあやかるのを戒めるため、自分からは絶対に「土木写真家」を名乗らないという大村拓也さんに、ストイックなまでにテーマを追求する写真哲学や、写真家になるまでの軌跡を語ってもらった。


鉄道模型のジオラマづくりで橋や土木に目覚めた

――先日、土木学会関東支部が主催した「どぼくカフェin Tokyo」(2018年12月)では、「マイ作業服」を持参して会場を沸かせていましたが、いつもあの格好で撮影しているんですか?

大村拓也 現場へ取材に行くときは必ず持っていきます。もちろんヘルメットもです。プロの人が現場で物を借りるのは、ありえないなと思うからです。自分の車には、トンネル用のプロテクター以外はほとんどの装備を積んであります。法改正で義務化されたフルハーネスタイプの安全帯も買わなければ…(笑)。

現場の人は、僕がどういう立ち位置で仕事をしているのか、必ずしも知りません。ですから、自前の安全装備を持っていくことで、自分が現場の安全と危険を熟知していることをいちいち言葉で説明せずとも、理解してもらえるようにしているんです。

――マイヘルメットはトンネル用の「全周つば付き」なんですね。

大村 大学は土木工学科で、シールドトンネルの研究室にいました。トンネル屋のなりそこないですけど、それなりのプライドがあるんです(笑)。自分が土木の写真を撮るようになった原点でもありますし。

学生時代の代表作とも言える1枚。恩師の紹介で、竣工間近だった東京都の神田川・環七地下調節池を撮影させてもらった。2005年8月撮影

――土木出身で、卒業と同時にいきなりカメラマンになったそうですが、そもそも、土木に興味を持つようになったはなぜですか。

大村 入り口は鉄道です。父が鉄道好きだったうえに、その父を鉄道好きに仕込んだ張本人は祖父でした。そして、父方ほどではありませんでしたが、母方の祖父もまた。ですから、僕も当然のように鉄道好きになりました。

小学生の頃、夏休みになると、父方の祖父の家で鉄道模型「Nゲージ」で遊び、母方の祖父には、鉄道系の博物館に連れて行ってもらうのが定番でした。中学で鉄道研究部に入り、Nゲージを走らせるためにジオラマを自分で作るようになったのですが、今となって思えば、それが土木との最初の出会いだったのではないかと思います。

部活の同級生がみんな一眼レフを持っていて、僕も伯父から譲ってもらった一眼レフのカメラで写真を撮り始めたんですけど、鉄道写真って、列車と風景と合うところが撮影スポットになるんです。例えば旧余部鉄橋の赤いトレッスル橋を山陰本線の列車が渡っている写真がよくあるでしょう。鉄道雑誌で写真を見たり、実際に現地に行って写真を撮っていると、「あの風景をジオラマで再現したい」と思うわけです。

架け替え工事が始まった直後の山陰本線余部橋梁。幼稚園の時から知っていたその橋に実際に会えたのは、大学卒業後だった。特徴的だった高さ約40mのトレッスル橋脚は現在、3基だけが保存されている。2007年撮影

でも、多くの場合、ジオラマづくりって、目的と手段が土木と逆なんですよね。実際にある風景をモチーフにしてジオラマを作ることもあるのですが、多くの場合は橋やトンネルがある風景を作りたくて、ジオラマを構想する。

「川があるから橋を架ける」じゃなくて、「橋を架けるために川を作る」。だから、実際の風景を見ながら、どうしてそういう風景になったのか、観察したり、想像するようになった。

――地形の成り立ちを知らないと、本物らしいジオラマがつくれなかった。完璧主義ですね。

大村 自分のお気に入りの風景を再現するにはどうしたらいいのかなと、授業中もひたすら考えていました(笑)。山自体は発泡スチロールのブロックから削り出すのですが、線路を敷く路盤は慎重に成形しないと、模型とはいえ、脱線の原因にもなる。そこで、僕は短冊状に切った段ボールをボンドで貼り合わせて、路盤を作っていました。

Nゲージの勾配って、せいぜい5%が限界なんですが、厚さ3mmの段ボールを使う場合、線路が6cm進むごとに重ねる段ボールを1枚ずつ増やしていくことで5%の勾配の路盤を作ることができます。

当時は「盛土」という言葉を知らなかったのですが、やっていることは土工と、施工管理そのものでしたね。

ジオラマづくりの一環で、模型メーカーが製品化したプラモデルの橋ではなく、自分でプラチック板やケント紙を切り出して、実存する橋を模型化することに挑戦したのですが、技量と知識が追い付かず、「未成」に終わりました。

それで、もっと橋のことを知りたいと思うようになり、高校2年になって進路を考えるとき、建築学科へ進んだ先輩に「橋をやりたい」と相談したら、「それは建築ではなくて土木だよ」と言われて、初めて「土木」という言葉を認識したんです。


大学時代、他人のために写真を撮る喜びをブライダルで知った

――早稲田大学の土木工学科へ進んでからも鉄道写真を撮っていたんですか。

大村 いや、浪人時代に鉄道趣味からほぼ足を洗っていました。鉄道路線の廃線だの、古くなった車両の廃車だの、お葬式みたいなイベントが多くて、行くたびに暗い気持ちになってしまったので。また、中学・高校と鉄道写真を撮りましたが、結局、どれも本に載っている写真のコピーのようで、面白みがなくなってしまいました。

鉄道写真を撮る人たちの観点は様々ですが、多くの人は自分で撮影した写真をコレクションすることが目的になっているのではないでしょうか。趣味ですから、その是非を問うのは野暮なことだと思いますが、僕も同類であることに気付き、高校を卒業するころには、違和感を持つようになっていました。

簡単に言えば、オリジナリティーがない写真をコレクションとして撮ることが滑稽だと思うようになってしまった

――写真自体、やめてしまった?

大村 でも、大学に入った暁には、鉄道以外の被写体にも目を向けられるように写真サークルに入ろうと考えていました。ものすごく写真に興味があったわけではないのですが、カメラという道具は持っていたので、「大学デビュー」するのに、ちょうどいいな、と。

さらに、渡りに船というのでしょうか、大学入学直前にたまたま見た求人広告がきっかけで、ブライダル・カメラマンのアルバイトをすることになりました。学生ですから、アルバイトという体(てい)ですが、実際は請負契約で、お金をもらって仕事をする以上、お客様の前では、「プロ」になりました。結局、その仕事は2015年までの14年間、続けました。

学校と仕事に明け暮れた大学時代、3年生の夏休みに思い立って、長崎へ旅に出た。背景は、たまたま建設中だった女神大橋。当時は土木工事の情報に疎く、今思えば、現場に”呼ばれた”のかもしれない。2004年8月、MINOLTA ・AUTOCODEⅢで撮影

――180度違う被写体を(笑)。

大村 もちろん、最初のうちは先輩カメラマンに付いて、研修したんですよ。ただ、カメラの基本的な知識は持ち合わせていたので、1カ月もしないうちに独り立ちさせてもらいました。

結婚式の写真っていうのは、上手く撮ることだけがすべてじゃない。大事なのは、その場の雰囲気を壊さず、進行を妨げず、確実に撮ることなんです。撮影技術の優れたカメラマンよりも、柔軟性があり、はきはきとした丁寧な接客ができる人材の方が、実質的な「発注者」である結婚式場側のウケもいい。

僕はコミュニケーション能力に長けているわけではなく、むしろその逆なのですが、未熟な技術力を接客でカバーしようとした結果、2年目くらいには、いろんな場面で重宝されるようになりました。式場の事前の不手際で「クレーマー」にされてしまったお客様や、堅気ではない業界の方々が多く集まる結婚式とか…(笑)。

セルフタイマーで撮影した卒業写真。祝賀会の幹事だった友人の提案で、集合写真を撮影することに。それ以来、毎年、母校の卒業写真を撮り続けている。2006年3月撮影

――ブライダルの仕事は楽しかったんですか。

大村 人に喜んでもらえる仕事なので、嬉しかったですね。そしてこのとき、「他人のために撮るのが職業カメラマンだ」と気づいて、写真への取り組み方がガラッと変わりました。

鉄道写真を撮っていたころは、写真でメシを食うという発想にはならなかったんですが、「お客様がいれば職業になるんだ」ということもわかりました。

どうしても鉄道の現業を体験したかった

――ブライダル写真の経験から、プロのカメラマンになろうと思ったんですね。

大村 大学では、土木工学科の学生有志で構成された「土木研究会」というサークルにも入っていました。サークル主催の現場見学会に参加した際、写真を撮ったことで、被写体としての土木構造物も面白いと感じました。「構造物の幾何学的な造形」を写真で表現したい、と思ったんです。

当時、畠山直哉や新良太といった人工的な風景や構造物を捉えた写真家に興味があり、その影響を受けたことも大きかったです。もちろん、写真集も持っています。ただ、そういう写真はアート作品に分類されるもので、収入に直結するとは、思えませんでした。お客さんがいませんから。写真集として、売れるのであれば、別ですよ。

とはいえ、僕も大学4年のときはすでに最高で月収30万円ぐらい稼いでいました。だから、「少なくとも土日でブライダルの撮影をやっていれば、平日には、土木でも何でも自分の好きな写真を撮って食っていける」と確信が持てた。企業に就職しなくてはいけないという焦りはありませんでした。

――アルバイトで30万円! すごいですね。

大村 ブライダル写真だけではなく、駅でラッシュ時の“ケツ押し”のバイトもしていたんです。どうしても鉄道の現業の仕事をやってみたくて。大学4年のときは駅の宿直もしました。

じつは中学のころから、なんかザワザワするものがずっとあったんです。中高一貫校だったので、周りは「大学へ行くのが当たり前」という雰囲気だったんですけど、僕は物心ついたころから「鉄道の現業へ行きたいな」と思っていました。

当時の鉄道会社は、大卒は本社採用、現業には高卒で行くというのが一般的でしたから、自分にとって、大学へ進むことは「リスク」になるんじゃないか、と。

悩んで担任の先生や祖父に相談したら、「大学へ行ったほうがいい」と丸め込まれ、結局は進学したけれど、どこかでフラストレーションを抱えていました。

――それで駅のアルバイトを。

大村 そうです。だから僕、大学時代、それまでに興味があった「土木」と「鉄道」と「写真」と向き合うことで全部、精算しているんですよ(笑)。そのおかげで、自分の向き不向きがよくわかりました。仕事に変化がないと、その仕事を好きであり続けられない。仕事を好きじゃないと、仕事を続けられないと。

「ゼロ災で行こう!ヨシッ」の掛け声で終わる駅バイトの朝礼。「安全の確保は、輸送の生命である」を現場で体得した。今は「ご安全に」が合言葉。モノクロ作品、2004年ごろ撮影


トンネル貫通式の笑顔に、「結婚式と同じだ」と感じた

――土木写真もすぐ仕事になったのですか。

大村 大学4年の秋ごろ、ブライダルの会社の社長から土木写真家の西山芳一を紹介され、弟子入りしました。その社長は、写真家ではなく、師匠とは中学時代からの旧友でした。

漠然と写真を仕事として続けたいというのではなく、土木に関わる撮影をしたいと、周囲に話していたことがきっかけとして、大きかったと思います。

師匠と恩師。左から土木写真家・西山芳一、大村拓也、小泉淳早大名誉教授。小泉先生には在学中、学科の学年担任として、また、卒論の指導教員として、写真家になるための後押しをいただいた。2014年2月に開催した西山の個展にて

卒論を終えた2006年2月頃から、撮影があるときだけ、師匠と一緒にキャンピングカーで全国の工事現場をまわってアシスタントをするようになりました。

最初の頃に行った現場でよく覚えているのは、愛知と富山を結ぶ「東海北陸道」の岐阜県にある飛騨トンネルの先進坑の貫通式。長さが11㎞弱あるうえ、軟弱な地山と硬い岩盤が入り組む大変な難工事だったところです。

先進坑は、2車線分の断面を持つ本坑よりも狭く、本坑の掘削に先駆けて、地質調査や水抜きを目的に施工するのもので、道路が開通した今は、避難用のトンネルとしてなっています。

初めての発破体験だったということもありますが、あのときに勝る発破はありません。作業用の横坑に避難していたのですが、貫通発破の瞬間、風ではない何か、「トトロ」みたいな得体のしれないバケモノがすごい衝撃とともに、坑口に向けて、通り抜けていったことを記憶しています

飛騨トンネル先進導坑の貫通。富山県側から岐阜県に向けて、トンネルを風が抜ける瞬間に立ち会った。2006年3月撮影

そして、それまでの現場見学とは異なる、リアルな「土木の現場」を感じました。なにせ、いろんな困難を乗り越えて、掘削開始から貫通まで10年近くかかっていますから、現場の人たちの心の底から込み上げてくる、噛みしめるような喜び方が印象的でした。

ついさっきまで移動するのに1日がかりだった壁の向こう側に、ドラえもんの「どこでもドア」のように自由に行き来できるようになっているのです。それが当たり前になる瞬間に立ち会えたことは、一生忘れられません。貫通した穴の向こう側からトンネル坑夫さんたちが現れて、「万歳」をして。続いて、発注者。最後にゼネコンの職員。お清めの酒を振る舞われた枡は、今も大事に持っています。

このとき、関係者たちの集合写真を撮りました。皆、とてもいい笑顔で、撮影しながら「ああ、これは結婚式と同じだ。自分がそれまでに仕事としてきたことと、これからしようとしている仕事はどこか通じるところがある」と感じたことを覚えています。


「記事とセット」の土木専門誌の仕事は痛し痒し

――土木専門誌「日経コンストラクション」の仕事をするようになったのは、いつ頃からですか。

大村 師匠と出会ったのと同じ頃、大学の研究室の先輩に、同級生だという同誌の記者を紹介してもらいました。

「写真を撮りたい」と言ったのですが、「できれば記事とセットで」と言われてしまったんです。文章を書くつもりはまったくなかったので困りましたが、編集部に詰めて、書き方を学びました。

「写真を撮りながら、文章を書けるなんてすごいね」とよく言われます。聞こえはいいですが、1本の記事に割く時間は写真を1とすると、文章を含む誌面の作成は9です。僕の能力の問題ですが、記事を抱えてしまうと、それ以外の写真はほとんど撮れません。

もちろん、「日経コンストラクション」の看板があるからこそ、いただけた写真の仕事も少なくありませんので、正直なところ、痛し痒しです。

――写真と文章の両方を完璧に仕上げるのは、大変でしょうね。

大村 学生時代、「写真とことば」(写真評論家・飯沢耕太郎著)という本を読んで、「よき写真家は、よき文章の書き手でもある」であることを知り、感銘を受けました。

ですから、最初は「これも修行のうち」と思っていましたが、当然のことながら、ビジネス誌である日経コンストラクションの記事は、「写真家」が書くことを求められていません。写真エッセーでは、ありませんからね。

真に写真家として独立するならば、いったん記事を書くことをやめる必要があると思っています。それでも撮影の依頼をいただけるのであれば、と考えるのは、ずうずうしいでしょうか??

――自立したスタンスの表明、潔いです! 依頼が来るかどうかは別として(笑)。これまでで一番、よく撮れた現場写真って、どれですか。

大村 「よく撮れた」と思うのは、規模が小さい現場のほうが多いですね。大きい現場って、取材する前から撮るべき画がほぼ決まっちゃってるんですよ。あくまでも日経コンストラクションで必要とされている、施工技術を説明するための画ですが。

現場に行ってみないと状況がわからない方が腕が鳴ります。中でも、うまく表現できた、と納得できるものになったのが、秋田の農業用水トンネルの補修工事の現場です。

覆工背面にできた空洞を5kmも長距離圧送した充填材で埋める工事なんですが、農業用水トンネルは点検用の照明もなく、工事用の仮設の照明がところどころに灯っているだけで、まだ施工していない範囲は奥まで暗い穴が続いている。その中で、人がやっと立てるほど天井の低いところで注入作業をしている場面です。

写真でトンネルの距離を表現することは非常に難しいのですが、作業している場所の前後に暗闇があったことで、長いトンネルの一点にスポットライトを当てるような状況が演出されました。

秋田県の第二田沢幹線用水路大相沢トンネル補修工事。狭い断面の暗いトンネル内で長距離圧送した充填材を注入している様子をリアルに映し出した。2014年12月撮影

「重厚長大」だけが土木じゃない

――大村さん流の土木写真の撮り方というのは、どういうものでしょう。

大村 僕は、媒体によってチャンネルを変えるべきだと考えています。土木に興味がある一般の人と、プロの土木技術者が同じ視点で土木構造物を見ているはずがありません。日経コンストラクションなら、読者はプロの土木技術者なので、その人たちが「ここを見たいだろうな」というところを見せる撮り方をする。

例えば、橋なら断面の様子がよくわかるように、とか。重量感や桁の厚さ・薄さなども、実際に見た感じがなるべくそのまま伝わるように配慮しています。いわば、「現場“見学”代理人」のスタンスですね。

「よその現場では、今、こういう取り組みをしている」ということを直接、その現場へ見学に行かなくても、共有してもらえるようにするのが記事の狙いです。そのため、規模が大きいからといって、簡単に自分が現場に圧倒されてはいけない。

――確かにそれは、土木を学んだ人でないと撮れない写真ですね。実物に忠実に撮る、というと具体的にはどうするのですか。

大村 土木って、重大チョウコウ? 長大重厚? あれ? なんだっけ。

――「重厚長大」です。

大村 そう、「重厚長大」っていうのをすごく売りにするじゃないですか。一般の人に土木を知ってもらうには、手っ取り早いのかもしれませんが、自分の立ち位置はそこではありません。土木の原点って、もっと身近なものであって、必ずしもスケールは関係ないはずですよね。

「ドブ板土木」っていうか、ドブ一つでも立派な土木。もちろん、荒川放水路をつくっちゃうっていうのも土木ですけどね。

だから、写真の見せ方も、ワイドレンズで下から煽れば、誰が撮っても大きくドーンと写るけど、それって嘘だよね、と。現場を知っている僕からすると、もうそういうの、コテコテすぎてちょっと耐えられない。土木の表現としては脂っこいんです(笑)

「画」として見せるなら面白いのかもしれないけど、土木構造物として撮る写真はそうじゃないよね、と思う。

震災復興のかさ上げ工事のため、岩手県陸前高田市に仮設されたベルトコンベア。「自然の風景よりも工事の風景に私が惹き付けられるのは、そこにある技術者の考えに共鳴するからだろう」と大村さん

――コテコテじゃないように撮るために、何か工夫を?

大村 これはテクニックの話なんだけど、僕、ワイドレンズ使うときはいたずらに見上げないです。見上げちゃうと、上がすぼまって奥行きが出すぎちゃうんですよね。過度に強調されてしまう。そうならないように、必ずカメラを水平にして撮ります。

「見上げない」というのは、「構造物と正対する」ということです。写真を見た人が、その中からその構造物の特徴を読み取れればいい。橋を架けたいという1次元の要求に対して、2次元の図面に整理して、最終的に3次元の構造物に仕上げて、形を保つことが土木の仕事だとすると、僕の仕事は3次元の構造物や技術を、イメージとして2次元に置き換えることだと考えています。ですから、縮尺の違いはあるけれど、「嘘・大げさ・紛らわしい」表現は慎むべきだと思っています。


土木技術の進歩のグラデーションを記録したい

――「チャンネルを変える」とおっしゃいましたが、具体的にはどういうことですか。

大村 例えば、日経コンストラクションのように施工のシーンを土木技術者向けに撮影した写真を「チャンネル1」とします。このチャンネルは僕の仕事の屋台骨になっていて、いわば“ライスワーク”だと言えます。でも、それだけが僕が持っている「土木への視点」ではありません。

ひとえに「土木を撮る」といっても、土木遺産や土木構造物がある風景、土木の造形などいろいろな視点がありますよね。僕の中では、どういうことを表現したいのかによって、被写体ごとにチャンネルを切り替えているつもりです。先ほどお話しましたが、学生時代は、幾何学的な土木の造形を写真に撮ることに関心を持っていました。

チャンネルを設定するのは、撮影の際、意識的に視点を安定させるためでもあると同時に、人に写真を見てもらうのを想定してのことでもあります。チャンネルの異なる写真を次々に見せられたら、たぶん見る人は混乱するんじゃないかでしょうか。もっとも、皆さんに普段からお見せできるのは、チャンネル1に限られてしまうのですが…。

1以外のチャンネルは、ほとんど“ライフワーク”。すぐにお金に結びつくわけではないけれど、自分が興味を持った被写体を撮りためているという位置付けです。ただし、結果的に、チャンネル1の撮影の仕方にも影響を与えているはずで、取り組み自体は無駄になりません。

特に「土木遺産」がらみの写真撮影は影響が大きいですかね。「遺産」って言ってしまうと、「戦前のもの」という縛りがかかっちゃうんですけど、もう少し広げて「すでに供用されているもの全般」としておきましょう。

うちの師匠が土木史の研究者である伊東孝先生と組んで、土工協(注:現在の日本建設業連合会)の広報誌に土木遺産の連載をやっていた時期があり、僕もアシスタントとして取材・撮影に同行していた。それがきっかけです。

二人のやりとりをそばで聞いていて、「土木構造物ってこう見るんだ」ということを学びました。

――今は、お一人で全国の土木遺産を撮影しているんですね。

大村 はい。伊東先生と師匠から学んだ土木の見方をベースに、今の施工の現場で見聞きしたことを重ねて、土木遺産を「これはどういう技術でつくられたのかな」と考えながら撮っています。

例えばコンクリート構造物は100年以上前からあるんですけど、当時と今のコンクリート技術を比べると、まったく同じではないし、いきなり現代の技術になったわけでもない。グラデーションのように進歩したわけじゃないですか。その「あいだ」をきちんと埋めていけると、体系的な土木史になるな、と思うんです。

土木遺産の研究って、それぞれ個別の構造物を対象に、建設に至ったストーリーや、当時の最先端技術がどうだったかを調べるのが一般的で、「今」とのつながりが希薄なような気がします。でも僕は、目の前にある土木遺産単体ではなく、そこで使われた技術が次にどうつながっていったかをちゃんと知りたいな、と。

隅田川に架かる清洲橋。広角レンズを用いて、川の向かいにある建物を小さく見せることで、橋の存在感を強調している。満潮と朝凪が重なり、水鏡が水上都市を演出した。2016年5月撮影

つまり、橋なら橋で同じ系統のものを、年代を追って同じ視点から写真で捉える。決して、土木史の研究をしたいとか、技術が分かっているから土木を撮れるんだとか、そういうつもりではありません。

被写体を理解したうえで、アプローチしたいんです。被写体と1対1で向かい合えば、構図のオリジナリティーだけを主張するデタラメな写真にはならないはずだと。

――それは“ライスワーク”ではなく“ライフワーク”なんですね。

大村 まあ、そうですね。でも、じつはチャンネル1のライスワークでやっていることも、似ている部分があるんですよね。

日経コンストラクションのようなチャンネル1で扱っているのは現在の最先端の技術だけど、同じ視点で5年、10年と続けていけば50年後には、体系化された土木遺産の資料になる。

技術は少しずつ変わり、現場はそのときどきの最先端技術の中からベストなものを選択しているはずです。体系的な資料として残れば、後世に「その選択が本当にベストだったのか」と検証するのにも役立ちます。

そう考えると、僕のフィルターを通した写真や記事が、後の人たちをミスリードしてはいけない、という責任も感じますね。

岐阜県にある近代的な吊り橋としては日本最古の吊り橋「美濃橋」。人と構造物のかかわりを描くのも、土木の写真の視点のひとつ。2011年10月撮影

「土木写真家」の先入観で観て欲しくない

――自分の写真のせいで後世の人を混乱させない。「土木写真家」としての使命感ですね。

大村 「土木写真家として」というのは違います。土木技術を紙媒体に残すという立場を仰せつかってしまっているので、その使命感です。そもそも、僕は自分から「土木写真家」と名乗ったことは一度もないです。

――えっ、そうなんですか。どうして?

大村 わざわざ肩書きに「土木」ってつけなくても、単に写真家として土木を撮っている人、でいいじゃないですか。僕のように組織に属さないで立場で、自ら名乗る肩書きって、「自分をこういう風に見て欲しい」っていう意識があってのことですよね。でも、僕は「土木写真家」っていう先入観で作品を観て欲しくない。

土木写真家ってカテゴライズすることは一見わかりやすいようだけど、すごく曖昧じゃないですか。みんな分かった気になっているだけ。「土木写真」って聞いて、どういうものを連想しますか? 橋が写っていれば、土木写真なのでしょうか? 土木工事が写っていれば、土木写真なのでしょうか? 色んなものをひっくるめて、土木に関係する何かを撮影しているのが土木写真家だというならば、世界中にたくさんいます。

土木って言葉は、すごく概念的だと思うんですよ。僕は高校時代に土木という言葉に出会って、大学4年間、土木を学んだんですが、未だに土木を一言で説明できません。僕が持つ土木の概念と、他の人が考える土木の概念って、完全に合致することはすることはないですよね。だから、僕は「これが土木写真だ!」って、断言することにすごい抵抗感があります。

首都高中央環状品川線のシールド工事。立坑に到達した巨大なシールドマシンをUターンさせるために引き抜いている様子。ワイドレンズで見上げているが、撮影した本人が現実と表現の違いを感じない1枚。2010年10月

――ストイックですねえ。

大村 「●●写真家」と名乗った方がキャッチで、メディア的には、人々の注目を集めやすいということはよくわかっています。それがきっかけで、お仕事をいただけることもあるでしょう。でも、実際は「看板に偽りあり」っていう感じの「●●写真家」が多いんじゃないかな。

今はインターネットで自由に発信できるから言った者勝ちですけど、SNSで流れてくる作品を観て、「●●写真家」を名乗るほどなのかなってレベルの人も少なくありません。ネットで検索してみると、たいていの「●●写真家」は、その人本人しかヒットしないことが多いです。そういうのを目の当たりにするたびに、その分野でこの人を上回る写真家は出てこないんだなと、半ばがっかりすることがあります。

今後、その名にふさわしい写真家が出てきたときとしても、その人は「●●写真家」を名乗るでしょうか。普通はしませんよね。恥ずかしげもなく「●●写真家」を自称している方は、事の重大さに気付いてもらいたい。

「自分の意思で土木を捉える写真家」が増えるといい

東海道新幹線と東名高速道路、東海道本線が1カ所に集まる静岡県の日本坂。地形的な要因が形成した土木の風景。土木学会誌2011年1月号掲載の「土木遠景」より

――あの、ちょっと聞きづらいんですけど、師匠については?

大村 ここまで、師匠のことを棚に上げて話してきました。そうです、自分の身近な●●写真家といえば、僕の師匠の土木写真家・西山芳一です。

たしかに、建築分野と異なり、土木専門の写真家に構造物を撮らせるという文化がなかった土木の分野で、30年にわたり、プロとして土木の写真を撮り続けるということは並大抵のことではありません。

ゼネコンや重機専門の会社の専属のような形で土木を撮っているプロの写真家は何人もいるけど、彼らが撮った写真がメディアに露出するときには、多くの場合が「写真提供:●●建設」のようになってしまう。だから、彼らに「土木を撮っている写真家」というスポットライトは当たりにくい。

――私たちライターも、企業の広告や広報のために書いた文章はほとんど無記名です。

大村 ですよね。土木の世界が特別ヘンだというのではなくて、プロがお金もらって仕事したものがクライアント名義の所有物になるのは当たり前のことなんですよ。

でも僕としては、土木写真家を名乗らなくても、自分の意思で土木を捉えようとする写真家がもっといて欲しい。じゃないと、土木の写真は消耗品になってしまう。写真家自身がクライアントの依頼でした仕事とはいえ、自分の作品を世の中に発表しようとしなければ、大半の写真がクライアントの中でお蔵入りになってしまうんです。

その点、うちの師匠は「土木写真家」を名乗ることで自らの付加価値を上げて、クライアントの理解を得てきました。

2018年11月に開催した写真展「東京工事舞曲」より。変わり行く東京と工事と人々の関係を作品にまとめた。2016年4月渋谷で撮影

――ブランド力のある写真家を起用することは、クライアントにとってもメリットが大きいですからね。それでも、大村さん自身は「土木写真家」を名乗らない――。

大村 本音を言えばね、僕だって名乗りたい(笑)。商売的にはそのほうが手っ取り早いですよね。でも、今は単に「写真家」という肩書で活動していた方が、「土木写真業界」の独占状態を打破するうえでは、有効だと思ってるんですよ。

肩書フィルターをかけなければ、「自分にも撮れるかも」って思ってくれる写真家は必ずいるんじゃないかな。ちょっと逆説的ですけどね。

――ただストイックなだけじゃなくて、ストラテジックだったのね。おみそれしました!

ピックアップコメント

超共感しました。。・写真の見せ方も、ワイドレンズで下から煽れば、誰が撮っても大きくドーンと写るけど、それって嘘だよね、と。現場を知っている僕からすると、もうそういうの、コテコテすぎてちょっと耐えられない。土木の表現としては脂っこいんです(笑)。

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「土木の仕事は、単純にカッコイイ!」つまらないと思うのは、土木を知らないだけ
ゼネコン広報部に10年勤務した後、フリーライターとして独立。広報セミナーの講師や社内報コンペの審査員なども。古くて小さくてかわいらしい土木構造物が好き♡
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