首都高の新規プロジェクトを立ち上げ続けてきた「合意形成のプロ」
首都高速道路(首都高)は、言うまでもなく首都圏の経済、物流を支える大動脈だ。総延長約320km、1日平均利用台数約100万台に上る首都高の存在がなければ、世界最大と言われる首都経済圏は生まれなかったと言っても過言ではない。
現在も横浜北西線、新大宮上尾道路など新線の建設が進められているが、構想はあるものの、コストや技術的課題などがネックとなり、塩漬けになっている道路も少なくない。
「良い構造物をつくる」のが土木技術者の仕事だが、「構想、事業を前に進める」のも土木技術者にしかできない仕事だ。
首都高速道路株式会社で働く諸橋雅之さんは、入社30年近い生え抜きの土木技術者。これまでに様々な新規プロジェクトを立ち上げてきた「合意形成のプロ」だ。首都高での仕事のやりがいなどについて、話を聞いてきた。
クルマが好きで、首都高速道路へ
――土木に興味を持ったきっかけを。
諸橋 今は土木の仕事をしていますが、もともと「土木の仕事をしたい」と思っていたわけではありません。もともとクルマが好きで、大学では機械工学を学ぼうと思っていました。
ところが、共通一次試験で良い点が取れなかったので、志望していた機械工学科を断念せざるを得ませんでした。そこで、車が関係するだろうということで、交通工学のある土木工学科を選びました。
――土木には興味がなかった?
諸橋 そうですね、あまり(笑)。あくまで車への興味から交通工学に行きました。当時は長大橋が全盛期のころだったので、周りは「橋をつくりたい」とか、土木に夢と希望を持った学生ばかりでしたが、私だけ土木に興味がなかったという状況でしたね(笑)。
実家は埼玉の所沢で、東京の世田谷の大学にクルマで通っていました。ちょっと遠かったので、下宿するかという話もあったのですが、「下宿はいいから、クルマを買ってくれ」と親に頼みました(笑)。週1回ぐらいですけど、クルマで通学してたんです。クルマに乗りたいがために大学に行ったようなものです(笑)。
実家から大学まで距離にしたら30kmぐらいしかなかったのですが、2時間半かかったんです。青梅街道、環八、環七を通るわけですが、とにかく渋滞がヒドくってね。ありとあらゆる抜け道を探して行くわけですが、それでもそれだけかかったんです。クルマで行くと、まともに授業を受けられませんでした(笑)。
クルマに乗りたくて通学したのに、実際に運転すると、まともに走れやしないわけですよ。「なんなんだ、これは」ということで、渋滞に興味を持つようになったんです。そこで交通工学の研究室に入って、合流や線形、信号の制御などを研究したわけです。道路の構造ではなく、道路の計画に対する興味が強くなりました。就職の際には、「絶対、道路会社が良い」と考えるようになっていました。
――それで首都高を選んだと。
諸橋 道路と言えば、当時は日本道路公団でしたが、それよりは、まさに渋滞問題を抱えていた「首都高が良い」ということで、当時の首都高速道路公団に入りました。新しい路線の計画とかやりたいなと思っていました。入社は1990年で、土木職でした。
――自治体への就職は考えなかったのですか?
諸橋 自治体だと道路ができるかわからないじゃないですか。例えば、河川を担当するかもしれません。「それはイヤだ。ずっと道路をやりたい」という思いがあったので、そのつもりはなかったですね。
「動かないプロジェクト」の動かし方
――これまでどのようなお仕事をされてきましたか?
諸橋 「新しい道路の計画をやりたい」と言って入社したわけですが、最初の3年間は、設計や現場事務所で施工管理の仕事をやっていました。幸いなことに、4年目に本社の計画部に配属になり、その後、ほぼずっと計画・調査畑でやってきました。途中、国交省やJR東日本に出向したりしましたけど。
一番長くやってきたのは、新しい道路の都市計画決定とか、新規事業や関係機関・地元調整など調査関係の仕事です。路線で言えば、新宿線とか品川線とか、横浜で言えば北線、北西線とかの事業着手に携わってきました。
――出向先ではどんな仕事を?
諸橋 国交省では、1996年から都市局の街路課に2年いました。JR東日本には2009年から2年いて、東日本大震災はJR社員として経験しました。1年目は東京工事事務所にいて、JRの駅の拡幅などに携わっていました。2年目は本社の建設工事部にいました。非常に勉強になりました。
――JRと人事交流があるんですね。
諸橋 私の1つ前の代から始まりました。首都高速道路公団が2005年に株式会社化されたので、「民間会社とはどうあるべきか」などを学ぶため、先行して民間会社になったJR東日本との土木技術者の人事交流が始まったんです。今も続いています。
――何が勉強になりました?
諸橋 例えば、ウチが民間会社になったときに、「アレをやっちゃいけない、コレもやっちゃいけない」という抑圧感があったんです。とくに新規プロジェクトについて。JRに行ってみると、別に抑圧を感じることもなく、普通に仕事していたんです。民間会社になったからと言って、変に萎縮しなくても良いんだということがわかりました。
――国交省では街路事業を担当された?
諸橋 そうです。全国の市町村の街路事業の予算配分をしたり、事業認可を出したりしていました。全国の街路事業を学べたし、ビッグプロジェクトの動かし方なども経験できました。国交省にしても、JRにしても、プロジェクトを実施したり、プロジェクトを立ち上げるセクションだったので、今につながる良い経験になっています。
要するに、「動かないものをどうやって動かすか」「誰をどう調整すれば良いか」を学べたということです。
首都高は比較的そこが弱いんです。協議の立場上、国があって自治体があって、その下ですから、なかなかな強くモノが言えないところがあります。お願いする立場なので、「うん」と言ってもらうためにはムリも聞かざるを得ないんです。
――東日本大震災発災時はJRのオフィスにいたのですか?
諸橋 そうです。本社ビルにいて、5mぐらい揺れましたよ。地震の後、私は関わりませんでしたが、所属していた部署の同僚は、復旧計画を策定していました。私は、地震によって倒れてしまった新幹線の架線復旧の工程管理を担当していました。
大橋ジャンクションは「死ぬほど考えた」
――印象に残っている仕事は?
諸橋 大橋ジャンクションの都市計画変更ですね。ちょうど国交省から戻ってきて、最初の仕事でした。私が入社したときにも、設計や地元説明会などを担当したんです。ちょうと新宿線が事業化されたころでしたので。新人ながら、建設に反対する地元の方々とのかなり熱い議論を目の当たりにしました。
中央環状線の一部である新宿線は1990年に事業化されたものの、大橋ジャンクションの工事は「まちを残せ」という地元の強い反対によって、10年経ったんですよ。大橋ジャンクションはもともと高架でUターンさせて3号線に接続するループの計画で、ルート上だけを都市計画決定してたんです。
この計画のままだと、ループの真ん中の住民の方々は、首都高速に囲まれてしまうカタチになるんです。「まちが死んじゃうじゃないか」ということで止まっていました。
大橋ジャンクションに行くまでに、富ヶ谷から駒場の東京大学の真下を抜けるんです。ちょうど駒場東大前の住宅地の土被りのすごく薄いところをシールドトンネルで通す計画だったので、駒場の住民の方々も「絶対に許さん」と測量もさせずに反対していました。それぞれの地域で反対があって、大橋ジャンクションの工事が全然動かなかったんです。
そんな中でも、なんとか道をつくって、渋滞を緩和させなければいけませんでした。そこで「ループを変えよう」ということになり、今の地下から上がっていくループのカタチになったんです。新ループの原案は、私の先輩が考えたのですが、その原案をもとに都市計画に落とし込むのが、私の担当でした。新しいループの地元説明会などもやりました。「やる」と決めてから、半年で都市計画を変更したんですよ。スゴイ短期間でした。
大橋ジャンクション(写真提供:首都高速道路株式会社)
ジャンクション工事にはものすごいお金がかかるんです。大橋ジャンクションは全部で2kmぐらい延長があるのですが、路線延長にカウントされませんので、路線全体のキロ当たり単価がスゴく高くなるんです。ジャンクションをいかに安く、コンパクトにするかは、非常に苦労しました。限られたスペースで収まるよう、ギリギリまで線形を工夫したりしました。死ぬほど考えましたね(笑)。2年ぐらい関わっていました。
その後、西新宿ジャンクションの線形設計も担当しました。これも、もともとの計画は平面交差でしたが、かなり苦労して立体化しました。大橋ジャクソンでの経験があったので、それを生かすことができました。新宿線の延長はたかだか11kmですが、完成まで20年以上かかりました。
首都高は、東京を変えられる
――首都高での仕事のやりがいは?
諸橋 私が一番の仕事のやりがいを感じるのは、プロジェクトを動かせたときですね。なかなか動かないプロジェクトや、構想はあってもなかなか事業化できないプロジェクトを動かし始めることに、スゴく達成感を感じます。今担当している日本橋区間の地下化事業もそうです。私の集大成の仕事になりそうです。
私が関わったプロジェクトでは、なんにもない現場に入って、どういうものをつくろうかと考えるところからスタートするんです。20年経って、そこに巨大な構造物ができあがっているのを見ると、やはり感動しますね。
できあがったものをお客様に使っていただいて、「便利になったねえ」と言っていただけると、土木屋冥利に尽きるというか、喜びもひとしおです。
――首都高の仕事をPRすると?
諸橋 首都高の仕事は、「東京を変えられる仕事」なんです。ふだん首都高を利用しない方々にとっても、首都高が変わることによって、物流なども変わるので、無関係ではありません。首都を変えるのは、やはりスケールの大きな仕事ですよ。規模の小さな工事でも、車の流れが大きく変わることもあります。
例えば、1車線増やしただけでも、車の流れが劇的に変わることがあります。われわれの仕事は、それだけ波及効果が大きいんです。逆に、ちょっとでも渋滞させると、マイナスの波及効果も大きいわけですが(笑)。
良くも悪くも、首都東京に大きなインパクトを与える仕事であること、これがわれわれの仕事の最大の魅力だと考えています。