「噂の土木応援チーム デミーとマツ」のマツさんこと松永昭吾さん

「命を守るために、会社を辞めた」 “土木の伝道師” 松永昭吾が技術者たちに伝えたいこと

「デミーとマツ」のマツさんこと”松永昭吾”の素顔

マツさんこと、松永昭吾さんについては以前、「噂の土木応援チーム デミーとマツ」の記事で取り上げたことがある。

噂のドボク応援チーム「デミーとマツ」って何者?

ただ、ふだんは九州の建設コンサルタント会社に勤めていること、デミマツのほかに様々な団体に名前を連ねていて、毎日のように全国を飛び回り超多忙らしいこと以外、マツさんの素性は謎だった。

土木技術者としてのどのようなキャリアを辿ってきたのか。土木技術者とはどうあるべきなのか。土木業界が抱える問題とはなにか。いろいろと質問をぶつけてきた。

日本初の長大橋「西海橋」に憧れ、土木の道へ

――土木に興味を持ったきっかけは?

松永 私は長崎県佐世保市という西の果ての僻地の出身ですが(笑)、島がたくさんあるので、橋がないと暮らせないような土地で育ちました。近くには「西海橋」という橋が架かっていました。

西海橋は1955年、日本で初めて支間が200m(243.7m)を超えた長大橋で、西海橋を見て育ちました。小学生か中学生の頃から、なんとなく「橋を架けたい」という思いがあって、土木の世界に入ったという感じです。早熟ですね(笑)。

――そして岡山の大学に進んだと。

松永 そうです。私が大学に入ったのは、「長大橋ブーム」の頃で、ちょうど瀬戸大橋が完成直後でした。本州との連絡橋は、最終的に「5本架かる」と言われていた時代です。「橋を架けたい」という単純にそれだけの理由で、土木工学科を選びました。

マツさんが憧れた西海橋(右奥)と新西海橋 / マツさん提供

――もともと橋梁の設計をやりたかったのですか?

松永 大学3年生までは、漠然とゼネコン志望でした。当時は建設業界のことをよく知らなかったので、ゼネコンが計画から工事まですべてをやってると思っていました。橋梁メーカーや建設コンサルタントの存在を知らなかったんです(笑)。

大学4年生のとき、ある建設コンサルタント会社と共同研究をしたとき、橋の計画や設計などの仕事は建設コンサルタントがやっていると、初めて知りました。「建設コンサルタントもいいな」と思いました。

反対に、ゼネコンに対しては、ある政治家の汚職を巡るマスコミ報道が加熱していた頃で、自分の中で、イメージが少しずつ悪くなっていました。公共事業に対するマスコミによるプロパガンダもあったように、いまは思います。

建設コンサルタントはなんとなく、ピュアなイメージがあったので、先輩の勧めもあり大手建設コンサルタントに就職することにしました。就職したのは、大学院の修士を出てからです。

就職した頃のマツさん。別人のように若い(笑)

――ピュアですか?

松永 今でもそう思っています(笑)。経営者層などはどうか知りませんが、土木技術者はピュアなんです。ゼネコンでもコンサルでも、技術者はみんな「良いものをつくりたい」、「命や生活を守りたい」と少なからず思って仕事しているんです。

これは現場に出て、すぐ気づきました。特に建設コンサルタント仲間とは夢を語り合うことができました。「なんだ、みんな熱い想いを持った良い人ばっかりじゃん」って。


故郷・九州で「土木の伝道師」になるため退職

――建設コンサルタントではどのような仕事を?

松永 東京に本社を置く株式会社建設技術研究所に入社しましたが、阪神淡路大震災直後の大阪支社に配属されました。当時はとても多くの技術者が大阪に集められましたが、その中の一人でした。主に倒壊した阪神高速3号神戸線の復旧を担当しました。1年経って、東京本社の超長大橋研究室という部署で、夢だった長大橋の計画や研究に関わることができました。

ところが、景気が悪くなって、国が長大橋の計画をすべて凍結しました。研究室も無くなり、しばらくは道路橋示方書改訂関連の仕事や、橋梁の耐震補強や維持管理の仕事をやっていました。

その後、九州支社で新設橋梁の仕事や福岡県西方沖地震の調査を行い、東京勤務に戻って、大きな橋の設計や国総研(国土技術政策総合研究所)発注の研究や津波の実験、海外の人材育成の仕事などの仕事などをやっていました。

――充実していたのに大手を辞めたんですよね。その理由は?

松永 理由はいろいろあって、話しにくいこともあるのですが(笑)、大きくは、九州に帰って故郷に貢献できる仕事がしたかったから。さらには、災害に関する啓蒙活動をやりたかったからです。

特に東日本大震災の際は、被災地に赴くたびに「なんでこんな危険な場所に鉄道の駅や道路をつくったんだ」と思って、土木技術者として恥ずかしくなっていました。

「人の命を助けるために、技術者である自分に何ができるのか」と思ったときに、「技術的な知見に基づいて、本当のことをちゃんと理解してもらえる活動をする必要がある」と考えたんです。「日本の国土って、こんなに危ないんだ」と。

東日本大震災津波により桁流失した歌津大橋(マツさん提供)

明治政府や明治維新で来日したお雇い外国人は、我が国の過酷な自然環境や「木」と「土」の文化によって作り上げられてきたそれまでのルールを十分理解しないまま、欧米の最新の技術や基準を日本に急いで導入しました。日本はいまだに、150年前にはじまった欧米型近代化の道を突き進んで効率化を追求しています。

「このやり方のままではダメだ」と考えていた矢先、東日本大震災が起きて、津波が繰り返し来襲してきた地域で多くの人が亡くなってしまった。震災調査、復旧は道半ばでしたが、私は会社を辞めました。九州に帰って、故郷の命と未来に向き合うべく「土木の伝道師」になろうと思ったんです。

阪神淡路大震災で生じた疑問。それが各地で発生した豪雨災害や噴火、東日本大震災で確信に変わり、熊本地震でさらに強まったというふうに感じています。

会社を辞め、九州に戻った3年後、熊本地震や白川の豪雨災害、阿蘇中岳の噴火が発生したんです。熊本地震では、土木学会の現地調査団の一員として、発災直後から現場に入りました。九州は地元なので、個人的な思い入れも強かったです。

熊本地震による地盤変状 / マツさん提供

当たり前ですが、インフラ構造物は劣化すると、災害時には壊れやすい。劣化した構造物をちゃんと直していくことが必要です。すでに直した構造物でも、壊れやすくなっていることがある。既設構造物の補修・補強工事は、新設構造物の建設工事より難しく、適した材料、工法の開発もまだまだ不足しています。


「命を守る」ことが、土木技術者の最大のミッション

――コンサル以外にもいろいろ活動されてますよね。

松永 会社を辞める前、辞めて何をやるかを決めていました。まずは、産官学でインフラのメンテナンスのあり方について議論する場をつくりたかった。実際に、阪神大震災以来の仲間たちとともに「(一社)リペア会」を立ち上げました。

さらに、一般の人に向けて、土木の本当の価値、災害のメカニズムなどをちゃんと伝えたいということで、「(一社)ツタワルドボク」も立ち上げました。

そして、未来の土木の担い手がいなければ、安心安全は守れないので、子どもたちとその保護者といっしょに本物の工事現場や工場で体験イベントを行う「噂の土木応援チーム デミーとマツ」を結成しました。

子どもを対象とすることでテレビなどのメディア露出も狙っていますが、現在22回のイベントを行い、上手くいっていると思います。

私は、土木技術者として慈善活動がしたいわけではない。命を守りたいんです。自然には勝つことはできませんが、負けるわけにはいかない。なぜなら、「命を守る」ことは、土木技術者の最大のミッションだからです。

ウソをつく技術者は、技術者として認めない

――「土木は優しさをカタチにする仕事」とおっしゃっていましたね。

松永 そう、「優しさ」と「命を守る」はつながっているわけです。ただ、「徹底的に優しくなろう」と思うと、「力」が必要なんです。力のない優しさなんて、同情に過ぎません。

力は、政治力でも経済力でも、力であれば種類はなんでも良いと思いますが、私は「技術力」という力で、自分が思う優しさをカタチにすることにしています。上下水道の整備により伝染病を駆逐し、道路の改良により交通事故死も飛躍的に削減することに成功しました。停電や水不足も昔ほどはなくなりました。残念なことに、災害死については、まだまだだと考えています。

今は、仕事とボランティアを切り分けて活動しています。中小企業につとめておりますので会社に迷惑をかけられないからです。しかし、割り切ることで、積極的に行い、充実感も味わっています。当然ですが、会社の業務に支障が出ない範囲でやっています(笑)。

――収入は相当下がったんでしょう?

松永 はい、転職した直後は相当下がりましたね(笑)。しかし、若い人に土木の世界に入ってもらうためには、「土木が楽しい仕事であるということを伝える人間」、「楽しそうに仕事をする人間」がいないとダメだと思っています。たとえ、本人は儲かっていなくても(笑)。自己犠牲の精神なのかもしれませんね。

だから、私は、SNSになどにアップする写真は、基本的に「笑顔」の写真だけです。「土木の楽しさ」を伝えるのは、やはり笑顔が必要ですよ。

ジンバブエ共和国での人材育成プログラムに参加したマツさん / マツさん提供

――良い土木技術者の条件とは?

松永 「志を持って、使命感を持って、ウソをつかず、優しさを忘れない」ことでしょうかね。

――ウソをつかない?

松永 確かに、すべてをオープンにすることはできない仕事ですが、発注者や住民の方から訊かれたことにウソはつかないということは、科学技術を用いて仕事をする技術者にとって大事なことです。

ウソをつかないことの根本には、やはり優しさがあると考えています。ウソはいずれバレます。きれい事をいうようですが、私は、ウソをつく技術者を技術者とは認めたくはありません。


働き方改革より「生き方改革」

――今後の夢や若い技術者へのメッセージを。

松永 ボクも来年、50歳になります。20代、30代、40代と目標を定めて生きてきましたが、次の10年は改めて技術に真摯に向きあうことと人材育成に力を注ぎたいと考えています。若い人たちには、プロの技術者として、社会の一員として成長し続けること期待しています。

私は、技術者には時短に代表されるような「働き方改革」より、技術を生業としながら人生を謳歌できるような、長いスパンで人生をデザインするような、「生き方改革」が重要だと考えています。

ここでは詳しくは申し上げませんが、興味がある方は、ぜひ飯でも食いながら語り合いましょう。

松永 昭吾さん(マツさん)のプロフィール

土木技術者(自称「橋の町医者」)。(株)共同技術コンサルタント福岡支店長。1970年長崎県佐世保市生まれ。噂の土木応援チームデミーとマツ共同代表。(一社)リペア会理事副会長、(一社)ツタワルドボク理事副会長。博士(工学)九州大学、技術士(総合技術監理、鋼構造及びコンクリート、道路)、上級土木技術者[橋梁]、VEスペシャリスト、道路橋点検士、防災士。2006年沖縄総合事務局長表彰、2011年プレストレスト技術協会賞、コンクリート工学会賞、2012年土木研究所理事長表彰、三陸国道事務所長表彰、2016年宮崎河川国道事務所長表彰、2018年土木学会土木広報大賞優秀賞受賞。

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