38年間で一番思い出に残っている仕事、そしてやりがいとは
高知県西部(幡多地域)を所管する中村河川国道事務所の田中元幸さんに取材する機会を得た。道路事業では、四国8の字ネットワークとして、高規格道路の整備を進めている。以前紹介した西松建設の不破原トンネルもその一部だ。河川事業では、清流として知られる四万十川の一部を所管している。
それはともかく、今年で入省38年目を迎える大ベテラン職員である田中さんにこれまでのお仕事を振り返っていただきつつ、四国地方整備局の仕事のやりがいなどについて、お話を伺ってきた。
野球のために進学したら、たまたま土木だった
高校球児として打席に立つ田中さん(本人写真提供)
――ご出身は?
田中さん 愛媛の西条です。
――土木に興味を持つきっかけはあったのですか?
田中さん それがなかったんです(笑)。高校は西条農業高校でしたが、そこに進学したのは、野球が理由だったんです。
――野球が理由と言いますと?
田中さん 当時、愛媛では有名な高校野球の監督が西条農業の野球部の監督になって、私はその方に「西条農業に来ないか」と誘われたんです。それで入学してみたら、たまたま土木科だったということです。
そんな感じでしたが、実際に土木を学んでみると、土木がおもしろくなったんです。土木の仕事をしたいと思うようになりました。これもたまたまですが、旧建設省の試験に受かったので、そのまま入省したわけです。1985年のことでした。
――ちなみに野球のほうはどうでした?
田中さん 無名校でしたが、春の県大会は決勝まで行きました。ただ、私のエラーで負けてしまいました(笑)。
仕事をしながら短期大学に通う
――最初の職場はどちらでしたか?
田中さん 大洲工事事務所(現 大洲河川国道事務所)の工務第二課でした。ちょうど三崎半島のメロディラインを整備しているころで、「とりあえず現場を見とけ」ということで、橋梁とかトンネルなどの現場をよく見に行っていました。ここは1年間でした。
その後、徳島工事事務所(現 徳島河川国道事務所)の道路管理第二課に異動になりました。当時は、高卒で入省した職員は、徳島大学に併設された夜間の短期大学に通うというルールがあると高校時代の担任に言われて受験しました。実際はそんなルールはなかったのですが、大洲勤務中は休学していました。職場が徳島になったので、仕事をしながら大学に通っていました。仕事は交通対策関係でした。その後、工務第二課に行ったので、この事務所には6年間いました。
――仕事をした後、勉強するのは大変そうですが。
田中さん 午後6時から9時まで授業でしたが、しょっちゅう居眠りしていました(笑)。仕事が終わっていなかったら、授業後に職場に戻って、12時ごろまで仕事をしたこともありました。
――やはり大変そうですね。
田中さん そうですね(笑)。ですが、「周りに迷惑をかけたくない」という気持ちがありました。大学に通っている他の若手職員もそんな感じでした。
お前、なんとかやっつけろ
――その後は?
田中さん 本局の道路工事課というところで、工事発注の審査などを担当しました。次も本局で、道路管理課というところにいました。都合5年間本局にいました。そのころ、家庭の事情で愛媛に帰る必要があったので、希望を出して、松山工事事務所(現 松山河川国道事務所)の道路管理第二課に3年いました。松山市役所前の地下駐車場を担当してました。
その後係長に昇進するタイミングで、また徳島河川国道事務所に行き、調査第二課で調査係長を3年間やりました。次に、本局の道路計画課で調査係長2年と計画第一係長を3年と5年間道路計画課にいました。調査係長は、事業化する前の道路のルート選定に関する協議などが担当で、計画第一係長は、直轄の道路事業予算のとりまとめなどをやっていました。
調査係長の時に、四国管内の高速道路の乗り放題チケットを社会実験で販売し、その経済効果などについて調査したんです。このときのデータは、のちに民主党政権下で高速道路の料金を一律1000円にする政策を実施する際に、大臣レクに活用されたと後で聞きました。
その次が、土佐国道事務所で、建設監督官をやりました。高知自動車道(須崎道路)の須崎東ICから中土佐町と四万十町境までの工事を担当しました。当時工事が遅れ気味だったので、上司から「お前、なんとかやっつけろ」と言われての配属でした(笑)。
――「やっつけろ」とは?
田中さん 「間に合わせろ」という意味です(笑)。
――なかなか味わい深い言い回しですね(笑)。
田中さん そうですね(笑)。
――お仕事はどうでしたか?
田中さん 配属された4月に現場を見てみると、さっさと舗装などいろいろな工事を進めなければならないのに、まだ本線にトンネルの残土が6万m3ほど山積みになっているわけです。受け入れ先の工事が遅れていたので、冬にならないと残土を受け入れられないからでした。「なんとか工事を進めないといかん」ということで、仮置きしたりとか、いろいろ奔走した覚えがあります(笑)。結果的には工期通りに開通させることができました。
――現場近くに詰めていたのですか?
田中さん そうです。須崎市内の銀行かなにかの跡地が詰所でしたので、そこで寝泊まりしたこともありました。工事数で行くと、年間30件ほど担当していたので、なにかと大変でした。
――遅れを取り戻すために、どういうことにチカラを入れたのですか?
田中さん 「早め早めに物事を決める」ということをやりましたね。たとえば、土を動かせないから仕事ができない場合は、まず土を動かすために、これをする、あれをする。工事が動き始めたら、次の工事の段取りを決める、という感じでやっていきました。業者さんと一緒にみんなでやりました。非常に助かりました。「業者さんを困らせない」ということを心掛けていました。
――大変な分、楽しそうですが。
田中さん 楽しかったですね。たとえば、中土佐IC付近では山を100万m3ほど切って、別の場所に盛るといった工事があったのですが、地元との交渉が難航したことなどもあって、遅れていたんです。そこで、これらの工程を全部見直し、土の運搬ルートなども変更して、話をつけ、なんとか間に合わせることができました。やっているときは、スゴく悩んだりしましたが、その分、「間に合って良かった」と感じました。
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お前が草を刈れ
――その次は?
田中さん またまた徳島河川国道事務所に戻って、徳島国道出張所の所長を2年間しました。四国管内で最も苦情の多い出張所だったので、これはこれで大変でした(笑)。当時、国の予算が減って、道路敷の草刈りなどができなくなったということもあって、もともと多かった苦情がさらに膨れ上がってしまいました。
出張所にいたときに、東日本大震災が起きました。私も現地に行きたいと希望を出したのですが、「お前は所長だからダメ」と言われたので、部下の係長がポンプ車とともに被災地に入りました。
――苦情と言いますと?
田中さん 一番多かったのは「草を刈れ」でしたね。あとは「舗装を直せ」でした。「所長のお前が草を刈れ」と言われたことがあったのですが、実際に草を刈りに行きました(笑)。
4箇所の道路開通に立ち会う
田中さん その次が、中村河川国道事務所の調査課長でした。着任したのは、南海トラフ地震で黒潮町に34mの津波が来るという想定が世に出たころで、地元自治体と津波対策をどうするかなどについて、調査したり、地元と協議したりしました。
その後は、また土佐国道事務所に行って、工務課長をやりました。工事発注などを担当したのですが、開通間近の区間が4箇所もあったんです。最初の1年は大山道路、高知南国道路高知南IC~南国南IC、2年目は高知西バイパス枝川IC~天神IC、高知南国道路南国南IC~高知龍馬空港ICの開通をやりました。
開通に当たる機会は、普通はなかなかないので、貴重な経験ができました。このときも、地元の業者さんにかなり頑張っていただいたので、本当に助かりました。中には、以前の須崎道路の現場にいた業者さんもいらっしゃいました。
その次は、また本局の道路計画課に戻って、課長補佐をやりました。事業評価や予算関係を担当しました。2年やった後、土佐国道事務所に戻って、改築担当の副所長をやりました。ここは1年間だけでした。
奄美、小笠原の離島振興に従事
田中さん その次は、本省の国土政策局に出向になりました。特別地域振興官付の調整官という立場で、奄美諸島と小笠原諸島の離島振興を担当しました。河川、港湾、空港、農業、簡易水道、下水道といった公共工事全般の補助事業を2年間担当しました。
――奄美大島は九州地方整備局ではないんですね。
田中さん 国土交通省直轄は重要港湾の名瀬港だけです。国道58号がありますが、県管理です。
――現地には行ったのですか?
田中さん 奄美群島には行きましたが、小笠原諸島には、台風や国会のため、結局行けませんでした。
――小笠原は世界遺産ではなかったですか?
田中さん ええ、世界自然遺産です。それで、小笠原に空港をつくろうという話があるんです。1000km飛べる飛行機が離発着するには、2000mの滑走路が必要ですが、そんな長さの滑走路はつくれないので、1000mぐらいの滑走路がつくれないかと東京都と検討していました。ただ、そんな飛行機は存在しないので、オスプレイのようなティルトローター機ならいけるかも、というような議論をしていました。
――コロナ禍だったと思いますが。
田中さん 途中からコロナ禍になりました。なので、公共工事以外にも、コロナ対策なんかもやりました。民間のベンチャー企業が開発した脈拍、呼吸数、血中酸素濃度がわかるアプリがあることを教えてもらったので、ホテル宿泊予約客に対して、旅行に行く前にこのアプリでチェックするといったことをやりました。ただ、Go Toキャンペーンが中止になったので、実際に活用されることはなかったんですけどね(笑)。
――そんな出向もあるんですねえ。
田中さん 一応道路系のポストらしいんですが、突然私が担当することになりました。技術系は私だけでした。ずっと道路畑できたので、道路以外の分野の用語などがわからなかったので、最初は苦労しました。あと、奄美群島や小笠原諸島の土地カンもなかったので、そういう意味でも苦労がありました。
――毛色の違う仕事だったと思いますが、どうでしたか?
田中さん いろいろな省庁の交付金の勉強ができたのは、良かったと思っています。その知識は、今の仕事にも役立つことがあるからです。
高規格道路を1日でも早く開通させたい
――その次が?
田中さん 今の職場です。2021年4月に着任しました。
――以前勤務経験のある職場なので、慣れるのは早かったのではないですか?
田中さん 道路に関してはそうですが、河川は初めてだったので、最初はいろいろ勉強しました。
――今チカラを入れている事業はなんでしょうか?
田中さん やはり高規格道路の8の字ネットワークの整備です。現在は窪川佐賀道路の工事が全盛期を迎えているところです。以前私が在籍したときに事業化した直後でしたが、1日でも早く開通させたいという思いでいます。その一方、佐賀大方道路や四万十大方道路など未整備の区間もあるので、これらの開通に向けてしっかりやっていかなければなりません。
河川では、中筋川での樋門の整備や流域治水の取り組みなどにチカラを入れているところです。個人的にはもっといろいろなことをやりたいのですが、ただ、直轄は四万十市内だけなので、その辺は悩ましいところです。
――職員のマンパワー的には足りていますか?
田中さん ウチの事務所は職員数58名ですが、正直足りていません。たとえば、河川計画課には、課長と係員の2名しかいません。職員が少ない分、情報をしっかり共有しながら、組織横断的に取り組むことで、なんとかやっています。
黒潮佐賀IC(上分地区)の現場(中村河川国道事務所写真提供)
四万十中央IC(平串地区)の現場(中村河川国道事務所写真提供)
住民に喜ばれるのが、この仕事の魅力
――四国地方整備局の仕事のやりがい、魅力について、どうお考えですか?
田中さん やはり道路が開通したときですかね。道路ができあがって、開通したときに、地元の皆さんなどがスゴく喜んでくれるんです。それを見たときに、「この仕事を頑張って良かった」と強く感じました。そこが魅力かなと思っています。
土木は、一品一様なんです。似たような構造物でも、同じモノは二つありません。新しいモノをつくるたび、毎回イチからから悩まなければなりません。土木の大変なところではありますが、その分完成したときに達成感を味わえるので、そこに非常なおもしろみがあると考えています。
―― 一番思い出に残っている仕事はなんですか?
田中さん 須崎道路です。仕事を頑張って良かったという話は、このときの経験です。一番印象に残っていますね。
――ちなみに、四国管内で人気の職場はあるのでしょうか?
田中さん 松山、高松、高知といったところは、人気がありますね。
――逆に、人気のない職場もあるわけですね。
田中さん ええ、あります。どことは言えませんが(笑)。