お前、なんとかやっつけろ
――その後は?
田中さん 本局の道路工事課というところで、工事発注の審査などを担当しました。次も本局で、道路管理課というところにいました。都合5年間本局にいました。そのころ、家庭の事情で愛媛に帰る必要があったので、希望を出して、松山工事事務所(現 松山河川国道事務所)の道路管理第二課に3年いました。松山市役所前の地下駐車場を担当してました。
その後係長に昇進するタイミングで、また徳島河川国道事務所に行き、調査第二課で調査係長を3年間やりました。次に、本局の道路計画課で調査係長2年と計画第一係長を3年と5年間道路計画課にいました。調査係長は、事業化する前の道路のルート選定に関する協議などが担当で、計画第一係長は、直轄の道路事業予算のとりまとめなどをやっていました。
調査係長の時に、四国管内の高速道路の乗り放題チケットを社会実験で販売し、その経済効果などについて調査したんです。このときのデータは、のちに民主党政権下で高速道路の料金を一律1000円にする政策を実施する際に、大臣レクに活用されたと後で聞きました。
その次が、土佐国道事務所で、建設監督官をやりました。高知自動車道(須崎道路)の須崎東ICから中土佐町と四万十町境までの工事を担当しました。当時工事が遅れ気味だったので、上司から「お前、なんとかやっつけろ」と言われての配属でした(笑)。
――「やっつけろ」とは?
田中さん 「間に合わせろ」という意味です(笑)。
――なかなか味わい深い言い回しですね(笑)。
田中さん そうですね(笑)。
――お仕事はどうでしたか?
田中さん 配属された4月に現場を見てみると、さっさと舗装などいろいろな工事を進めなければならないのに、まだ本線にトンネルの残土が6万m3ほど山積みになっているわけです。受け入れ先の工事が遅れていたので、冬にならないと残土を受け入れられないからでした。「なんとか工事を進めないといかん」ということで、仮置きしたりとか、いろいろ奔走した覚えがあります(笑)。結果的には工期通りに開通させることができました。
――現場近くに詰めていたのですか?
田中さん そうです。須崎市内の銀行かなにかの跡地が詰所でしたので、そこで寝泊まりしたこともありました。工事数で行くと、年間30件ほど担当していたので、なにかと大変でした。
――遅れを取り戻すために、どういうことにチカラを入れたのですか?
田中さん 「早め早めに物事を決める」ということをやりましたね。たとえば、土を動かせないから仕事ができない場合は、まず土を動かすために、これをする、あれをする。工事が動き始めたら、次の工事の段取りを決める、という感じでやっていきました。業者さんと一緒にみんなでやりました。非常に助かりました。「業者さんを困らせない」ということを心掛けていました。
――大変な分、楽しそうですが。
田中さん 楽しかったですね。たとえば、中土佐IC付近では山を100万m3ほど切って、別の場所に盛るといった工事があったのですが、地元との交渉が難航したことなどもあって、遅れていたんです。そこで、これらの工程を全部見直し、土の運搬ルートなども変更して、話をつけ、なんとか間に合わせることができました。やっているときは、スゴく悩んだりしましたが、その分、「間に合って良かった」と感じました。
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お前が草を刈れ
――その次は?
田中さん またまた徳島河川国道事務所に戻って、徳島国道出張所の所長を2年間しました。四国管内で最も苦情の多い出張所だったので、これはこれで大変でした(笑)。当時、国の予算が減って、道路敷の草刈りなどができなくなったということもあって、もともと多かった苦情がさらに膨れ上がってしまいました。
出張所にいたときに、東日本大震災が起きました。私も現地に行きたいと希望を出したのですが、「お前は所長だからダメ」と言われたので、部下の係長がポンプ車とともに被災地に入りました。
――苦情と言いますと?
田中さん 一番多かったのは「草を刈れ」でしたね。あとは「舗装を直せ」でした。「所長のお前が草を刈れ」と言われたことがあったのですが、実際に草を刈りに行きました(笑)。
4箇所の道路開通に立ち会う
田中さん その次が、中村河川国道事務所の調査課長でした。着任したのは、南海トラフ地震で黒潮町に34mの津波が来るという想定が世に出たころで、地元自治体と津波対策をどうするかなどについて、調査したり、地元と協議したりしました。
その後は、また土佐国道事務所に行って、工務課長をやりました。工事発注などを担当したのですが、開通間近の区間が4箇所もあったんです。最初の1年は大山道路、高知南国道路高知南IC~南国南IC、2年目は高知西バイパス枝川IC~天神IC、高知南国道路南国南IC~高知龍馬空港ICの開通をやりました。
開通に当たる機会は、普通はなかなかないので、貴重な経験ができました。このときも、地元の業者さんにかなり頑張っていただいたので、本当に助かりました。中には、以前の須崎道路の現場にいた業者さんもいらっしゃいました。
その次は、また本局の道路計画課に戻って、課長補佐をやりました。事業評価や予算関係を担当しました。2年やった後、土佐国道事務所に戻って、改築担当の副所長をやりました。ここは1年間だけでした。