京都大学教授から中小企業の役員になった経緯とは
とあるスジから「おもしろい人がいる」という情報を得た。木村亮さんという人物だ。木村さんは現在、大阪市内に本社を置く構造物維持管理工事会社、ボンドエンジニアリング株式会社で専務をしている。
そんな木村さんのなにがおもしろいかと言えば、今年の3月までバリバリの京都大学教授(地盤力学)だったことだ。教授から中小企業の役員への転身というのは、寡聞にして聞いたことがない。
しかも、定年後請われてではなく、定年前に自ら希望したというのだから、そんな人がおもしろくないわけがない。ということで、今回の転身劇をはじめ、いろいろお話を聞いてきた。
大学教授という仕事は、定年退職すると、さきがない
――京都大学教授を辞めて、中小企業の役員になった経緯はどのようなものだったのですか?
木村さん 京都大学教授の定年は65才なんです。普通に仕事をしていれば65才までは教授でいられるのですが、65才からだと、ちゃんとした仕事があまりないんです。もちろん、どこかの企業の顧問とかアドバイザーみたいな仕事はできますが、それぐらいのもんです。
昔だったら、私学の先生になる道がありましたが、今はほとんどありません。65才定年は私学も同じだからです。まれに70才定年という学校はありますが、ほとんどの学校は、どうせ採るなら、定年を迎えた古株よりも若い人を採りたいので、あまり歓迎されません。
「お金はないけれども、どこにも属さず、もろもろの雑事から解放されて、やっと研究に専念できる」と言う先生もいますが、それは行くところがないだけなんです。
――身も蓋もない感じですけど(笑)。
木村さん それはそうですけど、本人が隠居と決めこんで、ハッピーやったら、それはそれでいいけども、そういう感じでもないんでね。
ボクの場合、教授を辞める前から、いくつもの会社の顧問や技術アドバイザーをやっていますし、自分でNPOを立ち上げて15年ぐらい運営しています。ただ、そういう活動とはべつに、普通に会社で働いてみたいという思いがあったんです。はっきり言えば、会社を経営してみたかったんです。
それで定年の2年前、63才で大学を辞めました。今のところは、70才くらいまで民間人として働いて70才になったら、またNPOにチカラを入れようぐらいに考えています。
「京大教授がなんでそんな会社行くねん」
――ボンドエンジニアリングという会社を選んだ理由はなんだったのですか?
木村さん 実は、大学教授をやりながら、ボンドエンジニアリングの親会社であるコニシという会社の技術アドバイザーと社外取締役をやっていたんです。接着剤は、ボクがメインで研究している地盤とはあまり関係ないんですけどね。
コニシは各種接着剤を自社で作る部門と、化学会社として商社のように原材料などを販売する部門があります。コニシは第3の部門として土木、建築関係の建設部門も持っています。クラック防止とか剥落防止とか耐震補強などの用途のために、土木、建築分野でも接着剤をいろいろ使っています。
そんなコニシには、子会社の中に土木につながりのあるボンドエンジニアリングという会社がありました。「土木関係ならボクが役に立てることもあるだろう。この会社で現役として毎日に働いてみたい」と思ったんです。それで親会社を通じて入社希望を伝えました。
その結果、専務として働くという運びとなり、学会や教会関係の理事や他社の顧問などの仕事も続けて良いという話になりました。普通は「社業に専念しろ」と言われるところなので、これは幸いでした。今では、私の持つネットワークの利用と広告塔としての役割を期待されてのことだと思っています。と言うのも、ボンドエンジニアリングに入社してからというもの、人に会うたびに「京大教授がなんでそんな会社行くねん」と言われ続けているからです。
――誰しもそう思いますよね。
木村さん そう、誰しも思うことやろうから、一回やってみよと思ったし、今となってはそれがおもしろいと思うようになっているわけです。
――(笑)。
大学教授の給料はせいぜい1000万円で頭打ち
木村さん それ以外にも、給料が上がるということもありました。大学教授の給料なんて1000万円ちょっとで頭打ちなんですよ。私が教授になった17年前の給料と辞めたときの給料はほぼ同じでした。なので、教授の給料は「若草山」と言っているんです。周りから「給料どんだけ上がってん?」とよく聞かれます。まあ、金額は言わないですけどね(笑)。
――若草山?
木村さん 山をちょっと登ったと思ったら、そのさきはずっと平坦だからです。徳島の眉山みたいなもんですわ(笑)。
――(笑)。
木村さん もちろん平均的な給料と比べればもらっているほうですが、ものスゴく頑張って研究して、成果も出してんのに、そんなもんなんです。「大学教授が普通の会社に行って、本気で仕事したら、けっこうおもしろいことができんちゃうか、給料ももっともらえんちゃうか」と思ったんです。また、後に続く若き研究者にその姿を見せることで、「大学の教員もいろいろできる」ということをわかってもらいたかったという思いもありました。
最近の大学は教員、学生のレベルが落ちている
木村さん あとは、大学の学生がひ弱になったというのもあります。私なんかは「熱血教員」の部類なので、学生にキツいことを言うこともあります。それでペシャンとなる学生もいて、親が出てくることもありました。「大学院生にもなって、親に泣きついとんのか」と呆れました。
もっと言うたら、教員のレベルが低下してきたと感じたというのもありました。考えていることが小さいんです。それは自分がトシをとったということだと思うんですけどね。私が育てた教員は13人ほどいるので、「後は彼らに任せたらええんちゃうん」と考えるようになりました。自分が研究の第一線を退くことによって、影響があるかどうかはわかりませんが、自分がやるべきことはやったという気がしました。
土木業界は、淀んだ沼のような世界
木村さん もしかしたらこれが一番の理由かもしれませんが、土木の世界が非常に保守だというのがありました。とくに国の研究機関の頭のカタさは異常です。たとえば、新しい技術を開発して、論文を書いても、なかなか使ってくれません。実績がないからです。ある程度の規模がある会社であっても、ちょこちょこ実績を積み重ねて、認められるためには、何十年もかかります。一大学教員が開発した技術ごときでは、認められるのは極めて難しい現状があります。とくに構造物関連の技術は。
土木業界は、官僚的な人間が牛耳っている世界なので、「事なかれ主義」が蔓延っています。まるで淀んだ沼のような世界です。ずっとそういう世界のままだと、おもしろくないですね。若い人もその世界から離れていくでしょう。
転身の理由としては、そんなところですね。ようするに、「大学の先生はもうええわ」と思ったということと、「こういう人間が一人ぐらいおってもええやろ」と思ったということです。土木の世界に一石を投じたい、新しい風を吹かせたい、「土木業界ってダイナミックやね」とか「内側から変わろうとしてるよね」とか思わせたい。そういう思いが重なって、決心した感じです。
大学教授の現役は辞めたとは言え、京都大学名誉教授、京都大学アフリカ地域研究資料センター特任教授という肩書きはあります。特任教授とか特命教授とか特別教授といった肩書きがありますが、これらは研究者名義の研究費を大学としてもらうために、大学に籍を残しておくということなんです。
「ごっつおもしろいことになりそう」という予感
――今の仕事はどうですか?
木村さん それはまだわかりません。まだなにもやっていないからです。入社したのは今年の5月からなので、新入生みたいなものです。これからチカラを発揮していって、いろいろおもしろいことをやっていきたいと思っています。
昔からの知り合いからは「初めのうちはあまりアクセルを吹かさないほうが良いですよ」と言われていますし、あるゼネコンの知り合いからも「先生はあんま来んといてください」と言われています(笑)。そう言われると、ボクとしては「ごっつおもろいことになりそうやんけ」と予感しているんですけどね。ウラの存在として、発注者やゼネコンの人間なんかに「一泡ふかしてやろう」とアイデアを練っているところです(笑)。
せっかく工事会社に入ったので、実は現場監督をやってみたいと本気で思っているんです。実際に「現場監督やらしてくれよ」と言ったことがあるのですが、「専務が現場監督をやった前例はありません」と退けられました(笑)。
――大学教授と中小企業の役員とではかなり世界が違うように思われますが。
木村さん それはそうですけど、ボクは大学教授のころから、中小企業を応援するのが好きなんです。小さな会社と一緒に技術開発するのがとくに好きです。と言うのも、小さな会社は判断が早いからです。
ボクの研究スタンスは、「誰も考えてないことをやる。発想の転換をして、世間を驚かせる」というものです。そのためには、大きな会社だけでなく、小さな会社とも付き合うことが必要なんです。
大きな会社だからと言って、ものごとをちゃんとわかっているかと言えば、そんなことはありません。とくに施工のことなんて、なにも知りませんよ。施工のことを知らずに材料を売ったり、設計したりしているわけです。20年以上前からそういうことがわかってました。
もっと言えば、ゼネコンの人間も施工のことがわかっていません。施工管理はわかっていますが、実際の施工は専門業者に任せているからです。私は専門業者ともたくさんの付き合いがあるので、その辺の話はよく聞いています。ボンドエンジニアリングは小さな専門業者ですが、そういう会社だからこそ、あえて選んだところもあります。
私は大学の先生だったのですが、施工のことも現場の職人さんに教えてもらってかなり細かいことまで知っているわけです。なので、日建連がやっている土木賞の選考委員長をやっています。毎年数十ある土木のプロジェクトの中から施工プロセスに優れたプロジェクトを選ぶという、楽しい仕事です。八ッ場ダム本体工事とかいろいろなプロジェクトが受賞していますよ。
専門は地盤で、得意なのは杭基礎の水平抵抗
――阪神高速と共同研究されてきたようですね。
木村さん ええ、阪神高速とは、若いころから一緒にいろいろやっています。たとえば、構造物や地盤に問題があったときに対応したりとか、阪神淡路大震災で倒れた神戸線のコンクリート杭基礎を調べて、修理するかどうかの判断基準やその方法を提言したりしてきました。
ボクの専門は構造物基礎で、一番得意なのは杭基礎の水平抵抗です。普通は直径1mの杭なら1cmぐらいの水平変位での挙動を研究するのですが、ボクの場合は50cmぐらい変位したときにどうなるかを研究していたんです。つまり、地震でガシャガシャ揺れた後に、杭などの構造物がそのまま使えるかどうかを判定するといった仕事が、私の得意分野だったんです。神戸線の杭基礎を「使えます」と判定したのは私です。
阪神高速とは、新たな構造物の研究開発といった仕事もいろいろしてきました。たとえば、大阪湾岸道路西伸部で連続斜張橋の建設を進めていますが、私はこの事業の基礎の分科会の主査をやっていました。
杭基礎一体型鋼管集成橋脚基礎の大型振動台実験(木村亮研究室HPより)
新しいチャレンジにブレーキをかけられる
――西伸部の話がありましたが、仄聞したところでは、阪神高速はランドマークとして立派な連続斜張橋を架けたいと思っているが、コストや構造を巡って、国とモメているらしいですね。
木村さん この事業がヤヤこしいのは、阪神高速の単独事業ではなく、近畿地方整備局の道路と港湾との3者の共同事業だということです。阪神高速が新しい技術を入れようとしても、「すでに確立された技術があるのに、なんで新しい技術を使うんや」ということで、ブレーキがかけられます。「新しいことにチャレンジするな」と言っているのも同然です。ボクは非常に憤りを覚えました。
橋脚と杭基礎をフーチングレスにする集成橋脚基礎という構造を提案し、大型実験や数値解析でその有効性を検証してきました。実際の構造物として西船場での道路拡幅事業にも使いました。フーチングレスにすれば、構造的にシンプルにできるし、時間も金も節約できるんです。変形性能に至っては、こちらのほうが優れています。
ボクはこの技術を粘り強く提案してきました。しかし、国は取り合いませんでした。ある国の職員は「フーチングのない基礎なんか、聞いたことがない。気でも狂ったのか」と言い放ちました。新しい技術を採用すると言いながら、実際には新しい技術は採用しないわけです。
この「聞いたことがない」というのは良い言葉です。ボクはまさに、前例のない新しい構造を提案しているのですから。そもそも、どこかで聞いたことがあるような技術だったら、わざわざ提案したりしませんよ。
就職するなら、「とりあえずゼネコンに行け」
――若者の建設離れが指摘されていますが、どうごらんになっていますか?
木村さん 大学教授のとき、土木系の学生の就職担当を7年ほどやったことがあります。就職担当として、学生には「とりあえずゼネコンに行け」とススめていました。「設計をやるにしても、ゼネコンで施工を経験してからや」とも言っていました。初めからコンサルに行くのは、まったくススめません。現場を知らないと、設計はできないからです。
ゼネコンで10数年ぐらい現場を経験して、40才ぐらいでコンサルになるというのが、私の理想です。コンサルをやるにしても、どこかの企業に就職するのではなく、自分で事務所を構えて、自分でバリバリやるほうが良い。そんな感じで就職指導をしていました。
ついでに言うと、こういう学生がいました。「都市計画がやりたいんです。だから不動産デベロッパーに行きたいんです」と。それを聞いて、私は「君、ちょっと世の中見えていないのではないか」と言いました。なぜなら、都市計画は国や自治体が絵を描くものであって、不動産デベロッパーは、その計画で許された区域に高層ビルなり複合施設なりを建てるだけだからです。企業の伝え方や学生の受け止め方のところが、変に捻じ曲がっている感じがします。
都市計画をやりたいなら、国や自治体のほうがはるかにチャンスがあるわけですが、京大生には人気がありません。とくに京大から地方自治体に新卒で就職する学生は100人に1人と惨憺たるものです。
ボク個人としては、「そら行かへんわな」と受け止めています。「新しいことにチャレンジできないようなところに誰が行くんや」と思っているからです。普通の学生だったら、国土交通省なんかに行くぐらいなら、デベロッパーあたりに就職して都市開発でもやったほうがおもしろいと考えるでしょう。まあ、そこはそこで、捻じ曲がっているから、そういう選択になるわけですが。
「自分たちは良い仕事をしている」と思っているが、それが伝わっていない
――建設業界全体としてリクルーティングには苦労しているようですね。
木村さん そらそうでしょう。自治体の採用担当者なんかは、いまだに「ウチの仕事は言わんでもわかるやろ」という態度ですが、私は「そのおもしろさ、楽しさを示さないとわからんやろ」と思っています。
今の学生には、簡潔に、かつわかりやすく伝えないと、なにも伝わりません。就職の時期になると、企業や自治体が私のところに募集要項を送ってくるのですが、どれもPDFで20ページほどの文量があります。それを見るたびに、「アホか」と思ったものです。そんなものを大量に送りつけられて、誰が読みますかいな。文量はせいぜい1〜2ページぐらいで、仕事のおもしろさをしっかり伝えたいという思いに溢れたものでないと、学生には伝わりませんよ。こんなことをやっていては、自分で自分のカラを閉じているのも同然です。
難しいことを難しい言葉で説明するのは誰でもできることです。ボク自身、大学の教員として、難しいことを簡単に説明することを心がけてきました。採用活動にも同じことが言える、ということです。
そもそもなぜ、どこもかしこも新卒にこだわっているのか疑問です。たとえば、ある学生が「デベロッパーをやりたい」と言って東京に出ていったとしても、どうせ3年も経てば、地元に戻ってくるのがオチです。その戻ってきたところを狙えば良いと思うんですけどね。新卒を喜んで採用しているのは意味がわかりません。
もちろん、「新卒を採るのがアカン」と言っているのではありません。「どっかで仕事を3年経験したら採る」というのもあって良いと言っているのです。たとえば、国連なんかは新卒を採っていません。ある程度修行してからでないと、入れないんです。とくに役所の採用については、「それぐらいの気魄を込めて採らんかい」と言いたいところです。
自治体の採用試験の時期についても、ズレていると感じています。私は3年生の6月にやるべきだと考えています。現状と比べるとかなり早いですが、外資系の企業だと、3年生の夏のインターン終わりで内定を出しているので、それぐらいに試験をやってもべつにおかしくはないと思っています。就職戦線があらかた終わった4年生の7月になって、「なんで今さら内定出して喜んどんねん」という感じがします。そういうことを指摘していたら、ある県庁なんかは、本当に試験時期を前倒ししました。
――つまるところ、切実さのあるなしですかね。
木村さん そうですね。切実に採用を考えているかどうかです。役所の連中は「自分たちは良い仕事をしている」と思っていますが、その良さを表現できていません。なので、学生には伝わっていなんです。非常にもどかしい状況です。これは土木業界全体に言えることですが、「自分たちが良いことをしているとして、それをちゃんと伝えられているんか」ということです。
誰がやるということではなく、一人ひとりの土木人、土木関係者がそれぞれで伝えていかなければいけません。後輩である藤井聡先生が「ももいろインフラーZ」をやっているのは、まさにこのためでしょう。
アフリカでパイオニアになるのはおもしろい
――アフリカでの活動について教えていただけますか。
木村さん 私の師匠にこう言われました。「一流の研究者というものは、難しい技術を駆使できるけども、簡単な技術も扱えるんだ」と。そう言った後、「どやお前、アフリカの貧困を救えるのか。大学の教員として、アフリカで通用すんのか」と詰め寄られたわけです。
それをきっかけに、アフリカでの仕事が始まりました。30年ぐらいやっていますが、研究の成果や高度な技術なんか一切使っていません。アフリカの貧困地域にそんなものは必要ないからです。今でこそ、少し必要になっていますが、基本使わないです。
最初アフリカの現地に行ったとき、道がボコボコで通れないのを目撃しました。アフリカの農村の道は舗装されていないので、雨が降ると、ドロドロになって、通れなくなるんです。「ウチらには技術も金もないけど、この道をちゃんと通れるようにしてくれ」と頼まれたんです。そこで、頭をひねって、人が考えつかないことを考えて、実行しました。ここに、アフリカでの仕事の醍醐味があります。
――学生時代にアフリカを自転車で回ったそうですね。
木村さん ええ、大学院のときに1年間休学して、自転車でサハラ砂漠を縦断したんです。
――そのことと研究者になったことは関係あるのですか。
木村さん いえ、ありません。ボクは子どものころは左官屋になりたかったんです。大学院を出たらゼネコンに就職して、海外でバリバリ仕事をしたいと思っていました。ところが、指導教授から「大学に残らへんか」と言われたんです。「この先生が言うなら、そうするか」ということで、大学に残ったんです。最初の10年間ぐらいは基礎的な研究や実験をやりました。修士課程を出て、博士課程には行かずに、助手をしながら博士号を取りました。当時はそれが普通でした。
博士号を取ったときぐらいのときに、「アフリカにJICAがつくったジョモケニアッタ農工大学というのがあるから、現地に行って教えてくれ」と言われました。それで短期専門家としてアフリカに行きました。それがアフリカとの関わりの始まりです。1993年のことでした。
普通の人はアフリカ行きをイヤがるのですが、ボクはもともと、冒険心があるので、「アフリカでパイオニアになるのはおもしろい」と思ってやっていました。「お抱え外国人学者」みたいな気分でした(笑)。毎年1〜2ヶ月間アフリカで教鞭をとってきました。今も関わりを持ってやっています。
アフリカでの活動を通じて、アフリカ人の研究者、技術者を育ててきました。その研究者にお金を配って研究してもらったり、いろいろやってきました。現地住民と一緒に、雨季に泥濘化する未舗装道路をなんとか通れるようにするプロジェクトも、その活動の中から生まれてきたわけです。
チャリティではなく、ビジネスをしてもらおう
ケニアでの道直しの様子(木村さん写真提供)
――どのようなプロジェクトですか?
木村さん 路盤として土のうを敷き詰めて、道路を整備するプロジェクトです。現地住民が人力で作業します。土を袋に詰め締固めると、構造的に強くなるのはわかっていたので、それをベースに未舗装道路を治しているわけです。アフリカの農村の道は舗装されていません。雨が降ると、グジュグジュに崩れてしまって、通れなくなるんです。現地に人力はなんぼでもありますし、道を通れるとなれば、彼ら自らドンドンやってくれるんです。
このプロジェクトを進めるために、「道普請人(みちぶしんびと)」というNPOを立ち上げました。チャリティみたいな感じでずっとやり続けていきました。アフリカだけでなく、東南アジア国々なんかでもやりました。
チャリティとして5年ぐらいやったころ、あるアフリカのJICAの職員から「いつまでチャリティをやるんですか」と訊かれたんです。それを聞いて、最初は「お前らもチャリティやないかい」と思ったんですが、その後、「そうか、世の中の人はチャリティだけやと、認めてくれへんのか。だったら、現地住民にビジネスをしてもらおう」と気がついたんです。
それで、道直しに携わった現地の人たちに、地元の建設学校で2ヶ月ぐらい勉強してもらって、政府から許可証をもらった上で、建設会社を設立してもらう、というスキームを始めたんです。政府からお墨付きをもらっているので、この建設会社には政府から仕事が与えられるようになりました。たとえば、ケニアでは、若い人たちがつくった新しい建設会社に対し、優先的に仕事を割り振るというルールがあります。
ただ、建設学校で学ぶには、20万円〜30万円ほどの金がかかります。この費用をNPOで負担するのはキビしいので、政府の人間と交渉した結果、政府から金が出る制度ができました。普通のNPOの代表だったら、政府は信用しませんが、大学の教授という肩書きがあったので、あっさり信用してもらえました。かりに500人の人間を学校で学ばせるとなると、だいたい1億円ぐらいの金が必要になりますが、それぐらいの金だったらアフリカの政府でも出せるわけです。
最初のうちは、土のうによる道直しの仕事ばかりでしたが、そういう建設会社がどんどん増えていくと、建設会社の技術レベルも上がって、地方政府が普通の道路工事や水路工事を発注するようになりました。
小さな建設会社がたくさんないと、国力は上がらない
木村さん 日本は災害が多い国ですが、リカバリーするチカラがあります。それはなぜかと言うと、全国津々浦々に建設会社があるからです。その中でも小さな建設会社があるからこそ、リカバリーできるわけです。逆に言えば、小さな建設会社がないと、災害が起きたときにすぐにリカバリーすることはできません。
ボクは、アフリカの政府の人間に対し、「小さな建設会社をたくさんつくらないと、国力は絶対に上がらない」と言っています。ボクはこれこそが、本来の政策提言だと考えています。「貧困を削減するべきだ」とか「若者に仕事を」とか、そんなお題目を百万回唱えても、なにも起こりません。具体的になにかをつくり、具体的になにかをやらなければなりません。
NPO道普請人は、これを世界中でやろうとしているんです。この活動は2005年から始めて、現在31か国で250km弱の道を直しました。日本発の国際NGOとして2万5千人に土のうによる道直しの方法を教えています。