竹中工務店の作業所長、総括作業所長、竹睦会会長などを歴任した髙淵弘幸氏。現在は東京理建のリニューアル事業部アドバイザーとして活躍中。

76歳現役、竹中工務店の元総括作業所長が語る「名作建築の現場」(後編)

※この記事は連載です。まだ前編を読んでいない方は、こちらを先にお読みください。

76歳現役、竹中工務店の元総括作業所長が語る「名作建築の現場」(前編)

所長も、作業員も、全員で施工作業した昔

——髙淵さんは竹中工務店に勤務していたとき、特に思い出の現場はありますか?

髙淵 現場担当時代強いて挙げるとすれば、1964年7月から着工し、1966年10月1日に竣工した「パレスサイドビル」ですね。毎日新聞社が入っている日本近代建築の代表的な建築物です。ちょうど東京オリンピックが開催された年に着工し、私は最初から現場に入っていました。

「パレスサイドビル」には丸い棟が東西にありますが、地下と地上の躯体を同時に施工する逆打ち工法を導入し、そこで鉄筋の拾い出しや仮設計画、施工図や型枠計画図の作成などを担当していました。

私は鳶っ気があって高いところが好きなので、鉄骨が建て終わると各節ごと一番高い柱に登り、上からの眺めを一番乗りで見ることをよくやっていました。

「パレスサイドビル」を設計した建築家・林昌二さんの奥さんは、女性建築家の草分けである林雅子さんです。建築設計に携わる女性は少なかったので当時、業界ではたいへん話題になりましたね。

同じ頃、吉村設計事務所の奥村まことさんも有名で、笄町住宅等の設計で私が工事施工を担当しました。また、奥村まことさんのご主人・昭夫さんがNCRビル(現・日本財団)の設計を担当していました。

——「パレスサイドビル」の工事で苦労したことは?

髙淵 近接に高速道路の工事や地下鉄東西線の工事も同時進行していて、地下水が建物側に流れてきたときは焦りました。

また、オリンピックを前に今よりも人手不足の時代だったので、私もネコ(生コン運搬二輪車)を押していました。コンクリートの打設では、ポンプ車がまだない時代なので、工事用のコンクリート運搬用タワーのダブルウィンチの運転手もやりました。現在では資格なしで、こんな運転などしていたら、とんでもないと思われるでしょうが、当時はとにかく何でもやりました。作業員も所長も職人も全員で施工作業に当たっていた時代です。

作業所長がネコを押して、コンクリートを打つ姿は珍しくありませんでした。当時の所長はみんな、職人がやることを一緒になってやっていたものです。今では想像もできないかもしれませんが。


ゼネコン男性はモテたが、職場結婚が多かった

――当時、建設業界の男性はモテていたのでは?

髙淵 所長によく飲みに連れて行ってもらうこともよくありましたが、たしかにゼネコンの男性は人気がありました。ただ、当時の建設業界は職場結婚が多かったです。現場事務の女性も若い人が多かったので、一緒に遊んだり飲みに行ったりするうちに仲良くなり、そのまま結婚というパターンです。

実際、私も「パレスサイドビル」で出会った女性と職場結婚しました。先輩も同じでしたね。おかげさまで現場のことがよく分かっている妻なので、今も仲良く暮らしています。

現場が動いている間は、朝早くから監督して、5時過ぎになってから、その日の記録や次の日の段取りなどで、夜遅くまで仕事していますが、妻は理解してくれています。

――前回の東京オリンピックの時は、今より建築ラッシュだったのでしょうね。

髙淵 凄かったですね。当時、虎の門のNCRビル(1962年竣工)周辺に、ビルはほとんどなく、NCRビルが輝いていた感じです。そこに凄い勢いでビルが建っていくわけです。

NCRビルの現場はアメリカ大使館に近かったので、安保反対運動をしている全学連が現場の前の道路に座り込んでいたこともありました。最後は夜サーチライトを照らして機動隊か警察に1人ずつごぼう抜きされている光景を何度か見ました。

歩道のピンコロ石を掘り起こして、建物に投げていた学生もいましたね。そんなこともあり、歩道にピンコロ石を敷き込むことを禁止することがありました。今では想像できないような時代でした。

それから当時の足場は、まだ丸太でした。ビティ足場は東京五輪の後から普及しましたね。

三菱ビルヂング(後に爆破事故があったビル)は3社JVで施工

——三菱銀行の創始者・岩崎弥太郎の別荘の庭を持つ建物である、箱根湯本の「吉池旅館」工事での思い出は?

髙淵 単身赴任で現場の職員は集団生活を送っていました。みんな雑魚寝でしたね。私は古いクルマを持っていたので運転役を任され、小田原まで飲みに繰り出していました(笑)。

「吉池旅館」は1年ぐらいで完成して東京に戻りました。その次の現場は、丸の内の「三菱ビルヂング」を竹中工務店、清水建設、大林組の3社JVで施工する現場に配属になりました。

「三菱ビルヂング」は1971年9月に着工、1973年3月に竣工しました。

——「三菱ビルヂング」で働いている時は、プライベートはどんな感じでしたか?

髙淵 妻との結婚は、1970年です。妻の貯金と親兄弟から借金して、埼玉県毛呂山町に土地を購入して、家を建てました。通勤に2時間半くらいかかり、週2〜3日は夜間工事も多かったので現場に泊まり込みでした。どうしても帰宅する用事がある場合は、JVから手配してもらって、ハイヤーで帰ったことも何度かありました。

その頃、田中角栄首相が日本列島改造論をぶちあげたおかげで、土地の値段が4倍くらいにハネ上がりました。しかし、オイルショックで土地価格が下がり始めました。そこで4年間住んだ埼玉県の家を売り、神奈川県横浜市に引っ越しました。

当時は土地価格の乱高下が凄かったですね。不動産の仲介屋もかなり無茶をしていた時代です。


赤字工事を黒字に転換する総括作業所長の力量

——1996年から総括作業所長になったわけですが、当時は赤字工事も多かったのでは?

髙淵 赤字受注工事は多かったですが、それを黒字に転換させるのが総括作業所長の力量です。総括作業所長を続ける以上は、赤字の工事を黒字に転換することに加え、安全第一で努力と改善を続け、かつ「竹中の品質」を確保することが私の仕事でした。

私の仕事でのスタンスは「施工のプロとしてなんでも請けます」でした。請ける以上は黒字にするために、社内各部署と協議しながら工法や施工手順も変更します。品質を確保しながら、いかに人件費を削減し、段取りも効率的にするか。VE提案によってムダをなくす努力をしてきました。

——担当した工事はすべて黒字化できましたか?

髙淵 はいと言いたいところですが、1件だけ黒字にならなかった工事がありました。

作業所長から総括作業所長の時代には、新築・改築・増築工事(リニューアル工事を含まず)で53棟の建物を担当しましたが、そのうち1件は難しかったです。もともと33%の赤字で受注した工事でしたが、なんとか3%の赤字まで戻すのが精一杯でした

設計事務所にも品質を落とさないVE提案をお願いしましたが、黒字化は叶いませんでした。あとは個別に関係者に厳しくネゴシエーションして、工事全体を黒字にするのが所長としての責任だと思っています。

竹中工務店では作業所長に昇格すると、通常は地方の現場に行って、竣工すると東京に戻るというパターンが多かったと思います。しかし私は所長になった最初から卒業まで都心での作業所でしたので恵まれていました。新築現場のお客様と懇意にすることで、数年後にリニューアル工事も受注していました。

――作業所長になって総括作業所長までに、どんな工事を担当されましたか?

髙淵 所長になって第1号が「東電茅場町ビル」でした。それから「麻布のコンパウンドマンション」「青山吉川ビル」「ソニー御殿山ビル」「三光町住宅」「青山五丁目マンション」「青山M&Mマンション」「インペリアル浜田山マンション」「飯倉ニッソー22ビル」「目黒伊藤忠燃料」「表参道パラシオ」「原宿ギャップのビル」「原宿YMスケアー」「青山クラブ」、「青山骨董通り伊豆屋ビル」「武者小路千家の東京道場」「青山学院」「聖心女子学院校舎」などを担当しました。

現役最後の工事として、「プラダジャパン表参道」は棟上げまで担当し、同時期に総括作業所長として「サンケイ大手町ビル」も担当していました。この両方の工事を終えて、2003年3月に竹中工務店を卒業しました。

竹中工務店が不景気で非常事態宣言

——竹中工務店を卒業した後は?

髙淵 関連会社である朝日機材株式会社に転籍し、専務執行役員を2期4年、顧問で2年計6年つとめました。足場を販売・リースする会社です。全国(北海道、東北、名古屋、大阪、広島、関西、九州)を廻りました。

竹中工務店で総括作業所長をやっていた時は、「お客さんにとって施工後に仮設足場はいずれ形がなくなるものだから、なるべくお金をかけないように簡略化しよう」と心がけていましたが、朝日機材株式会社に入社すると、立場が買い手から売り手に逆転し、足場をいかに使ってもらうか、営業努力をしました。

私が朝日機材株式会社に入社した2003年は、ゼネコン全体が不景気で、竹中工務店は非常事態宣言を発令していた時代です。足場を売るためのプレッシャーは大変でした。

朝日機材株式会社の筆頭株主は三菱商事で、三菱商事の子会社・関連会社は大変多くあったようですが、朝日機材株式会社は一時期、売上が低迷していました。売上をアップするために必死で、営業活動をしました。

東京理建が「旧山口萬吉邸」をリニューアル工事

——その後、竹中工務店のOB会・竹睦会本部会長や、湘北短期大学の建築施工学非常勤講師を経て、株式会社東京理建リニューアル事業部アドバイザーに就任したわけですが、今はどんな仕事を?

髙淵 現役時代のリニューアル工事の経験を買われて、営業活動でゼネコンとの折衝をしています。日本武道館と靖国神社の近くにある歴史的な建築物「旧山口萬吉邸」のリニューアル工事を東京理建が単独受注することができました。

「旧山口萬吉邸」の内部

「旧山口萬吉邸」は関東大震災後に、東京タワーの設計で有名な内藤多仲、早稲田大学教授の今井兼二、宮中出入りの大工棟梁の血筋をひく意匠家・木子七郎といった建築界の大物たちが手掛けたスパニッシュ風の作品です。

2018年5月に国の有形文化財認定された建物で、シェアオフィスとして使われます。そのリニューアル工事を担当できて、東京理建のイメージのアップにつながりました。「旧山口萬吉邸」のリニューアル工事は東京理建全社一丸となって取り組んだプロジェクトです。

「旧山口萬吉邸」は2018年1月12日に着工、同年9月のオープンを果たしました。先日、ビックサイトで開催された「施設リノベーションEXPO」では、竹中工務店がレガシー活用第1号プロジェクトとして、「旧山口萬吉邸」を紹介しました。

竹中工務店時代に付き合いがあった職人が応援に来てくれたことも、受注できた大きな要因です。建設業界はつながりが大事です。今でも専門工事業者との関係は大事にしています。

——これまでの経験をもとに、若い施工管理技士や現場監督たちに一言お願いします。

髙淵 誠心誠意、仕事を好きになって何事にも好奇心をもって欲しいです。「やる気」がすべてです。建物が完成したら必ず自分の果たした痕跡が残ります。

よく現場でも「そんなことはできません」という人がいます。しかし、私は所長時代、建築のプロ意識で「今の時代の建築でできないものはない。何でもやります」と断言していました。その代わり品質を落とさないため、「VE」「お金」と「工期」を認めてくださいと折衝してきました。当時、私は自分のことを「YES BUT MAN」と自称していました。

過去には、業者に負担させるような風潮がありましたが、それは好ましいことではありません。発注者、設計者、施工者が三位一体となって良い仕事を遂行するために、安全にムダをなくして、目標を達成できれば、最高の建築物を世に残せると思います。仕事については、発注者、設計者、施工者みんな対等だと考えるべきです。

——人生100年時代です。これから何をされたいですか。

髙淵 健康第一を前提に、生涯現役を貫きながらも仕事一途だけではなく趣味も大切にしたいです。月2回のゴルフも健康寿命を延ばすことが出来ますし、油絵スケッチも週1回、年2回くらい沖縄でスキューバーダイビング、年1回、海外旅行と国内での国宝級の神社仏閣巡り(38回)を楽しむほか、グルメ会も年2回開催しています。

健康年齢が続く限り、何事にも好奇心を持ち、人生を仕事も趣味の両方を楽しみたい。私の地元である横浜市戸塚区では人の役に立つボランティア活動も続けています。のんびりボッーとして生きたくないです。

人生は一度きりです。その人生を仕事と趣味の両方で最大限に楽しみ、地元貢献もできればそれはいい人生だと思っています。

——貴重なお話をありがとうございました。

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建設専門紙の記者などを経てフリーライターに。建設関連の事件・ビジネス・法規、国交省の動向などに精通。 長年、紙媒体で活躍してきたが、『施工の神様』の建設技術者を応援するという姿勢に魅せられてWeb媒体に進出開始。

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