※この記事は連載です。まだ前編を読んでいない方は、こちらを先にお読みください。
所長も、作業員も、全員で施工作業した昔
——髙淵さんは竹中工務店に勤務していたとき、特に思い出の現場はありますか?
髙淵 現場担当時代強いて挙げるとすれば、1964年7月から着工し、1966年10月1日に竣工した「パレスサイドビル」ですね。毎日新聞社が入っている日本近代建築の代表的な建築物です。ちょうど東京オリンピックが開催された年に着工し、私は最初から現場に入っていました。
「パレスサイドビル」には丸い棟が東西にありますが、地下と地上の躯体を同時に施工する逆打ち工法を導入し、そこで鉄筋の拾い出しや仮設計画、施工図や型枠計画図の作成などを担当していました。
私は鳶っ気があって高いところが好きなので、鉄骨が建て終わると各節ごと一番高い柱に登り、上からの眺めを一番乗りで見ることをよくやっていました。
「パレスサイドビル」を設計した建築家・林昌二さんの奥さんは、女性建築家の草分けである林雅子さんです。建築設計に携わる女性は少なかったので当時、業界ではたいへん話題になりましたね。
同じ頃、吉村設計事務所の奥村まことさんも有名で、笄町住宅等の設計で私が工事施工を担当しました。また、奥村まことさんのご主人・昭夫さんがNCRビル(現・日本財団)の設計を担当していました。
——「パレスサイドビル」の工事で苦労したことは?
髙淵 近接に高速道路の工事や地下鉄東西線の工事も同時進行していて、地下水が建物側に流れてきたときは焦りました。
また、オリンピックを前に今よりも人手不足の時代だったので、私もネコ(生コン運搬二輪車)を押していました。コンクリートの打設では、ポンプ車がまだない時代なので、工事用のコンクリート運搬用タワーのダブルウィンチの運転手もやりました。現在では資格なしで、こんな運転などしていたら、とんでもないと思われるでしょうが、当時はとにかく何でもやりました。作業員も所長も職人も全員で施工作業に当たっていた時代です。
作業所長がネコを押して、コンクリートを打つ姿は珍しくありませんでした。当時の所長はみんな、職人がやることを一緒になってやっていたものです。今では想像もできないかもしれませんが。
私は型わく大工で今74歳で現役で働いてます、
内容が良く理解出来ます
私も仕事大好き必然的に良い仕事に邁進出来ます。
親子三人型枠大工でもちろん竹中工務店下請け会社で働いてます°