ゼネコン男性はモテたが、職場結婚が多かった
――当時、建設業界の男性はモテていたのでは?
髙淵 所長によく飲みに連れて行ってもらうこともよくありましたが、たしかにゼネコンの男性は人気がありました。ただ、当時の建設業界は職場結婚が多かったです。現場事務の女性も若い人が多かったので、一緒に遊んだり飲みに行ったりするうちに仲良くなり、そのまま結婚というパターンです。
実際、私も「パレスサイドビル」で出会った女性と職場結婚しました。先輩も同じでしたね。おかげさまで現場のことがよく分かっている妻なので、今も仲良く暮らしています。
現場が動いている間は、朝早くから監督して、5時過ぎになってから、その日の記録や次の日の段取りなどで、夜遅くまで仕事していますが、妻は理解してくれています。
――前回の東京オリンピックの時は、今より建築ラッシュだったのでしょうね。
髙淵 凄かったですね。当時、虎の門のNCRビル(1962年竣工)周辺に、ビルはほとんどなく、NCRビルが輝いていた感じです。そこに凄い勢いでビルが建っていくわけです。
NCRビルの現場はアメリカ大使館に近かったので、安保反対運動をしている全学連が現場の前の道路に座り込んでいたこともありました。最後は夜サーチライトを照らして機動隊か警察に1人ずつごぼう抜きされている光景を何度か見ました。
歩道のピンコロ石を掘り起こして、建物に投げていた学生もいましたね。そんなこともあり、歩道にピンコロ石を敷き込むことを禁止することがありました。今では想像できないような時代でした。
それから当時の足場は、まだ丸太でした。ビティ足場は東京五輪の後から普及しましたね。
三菱ビルヂング(後に爆破事故があったビル)は3社JVで施工
——三菱銀行の創始者・岩崎弥太郎の別荘の庭を持つ建物である、箱根湯本の「吉池旅館」工事での思い出は?
髙淵 単身赴任で現場の職員は集団生活を送っていました。みんな雑魚寝でしたね。私は古いクルマを持っていたので運転役を任され、小田原まで飲みに繰り出していました(笑)。
「吉池旅館」は1年ぐらいで完成して東京に戻りました。その次の現場は、丸の内の「三菱ビルヂング」を竹中工務店、清水建設、大林組の3社JVで施工する現場に配属になりました。
「三菱ビルヂング」は1971年9月に着工、1973年3月に竣工しました。
——「三菱ビルヂング」で働いている時は、プライベートはどんな感じでしたか?
髙淵 妻との結婚は、1970年です。妻の貯金と親兄弟から借金して、埼玉県毛呂山町に土地を購入して、家を建てました。通勤に2時間半くらいかかり、週2〜3日は夜間工事も多かったので現場に泊まり込みでした。どうしても帰宅する用事がある場合は、JVから手配してもらって、ハイヤーで帰ったことも何度かありました。
その頃、田中角栄首相が日本列島改造論をぶちあげたおかげで、土地の値段が4倍くらいにハネ上がりました。しかし、オイルショックで土地価格が下がり始めました。そこで4年間住んだ埼玉県の家を売り、神奈川県横浜市に引っ越しました。
当時は土地価格の乱高下が凄かったですね。不動産の仲介屋もかなり無茶をしていた時代です。
私は型わく大工で今74歳で現役で働いてます、
内容が良く理解出来ます
私も仕事大好き必然的に良い仕事に邁進出来ます。
親子三人型枠大工でもちろん竹中工務店下請け会社で働いてます°