「ダム不要論」の世論に押される形で、ダム事業は中止、その後対策はなされなかった。
しかし、21世紀に入ったあたりから、(地元の洪水リスクに対する危機感とは裏腹に)公共事業、とりわけダムに対する反対世論が日本を席巻していくようになっていきます。
そんな空気の中で行われた選挙を通して誕生した蒲島郁夫熊本県知事(現役)は、自然環境の保護等を理由にダム反対を表明するに至ります。さらには「コンクリートから人へ」を標榜した民主党政権によって、八ッ場ダムと同時にその建設事業が2008年に中止されてしまいます。
つまり、人吉市を中心とした球磨川沿岸域の人々の命と財産を守るために、1966年から40年以上の歳月をかけて7割方進捗していた川辺川ダム事業が、当時の「ダムは無駄だ」という空気に押されて破棄されるに至ったのです。
この時にすでに、今回のような大水害が球磨川決壊によって起こることは、誠に遺憾ながら半ば決定づけられたと言えるでしょう。そもそも川辺川ダムは、2008年に中止されていなければ、(1100億円の予算で)2017年には完成していた筈でした。
一方で、放水路は8200億円の予算と45年もの年月がかかると試算されています。遊水池に至っては、1.2兆円の予算と100年以上の歳月がかかるだろうと予期されています。つまり、放水路も遊水池も決して「現実的」な解決策ではなかったのです。したがってそんな事業を政府が決定することなど出来るはずもなく、未だ着工すらされていないのが実情です。
つまり、ダム中止から12年間、球磨川決壊に対する「抜本的」対策は、何ら進められることなく、今日を迎えてしまった、というのが現実なのです。そもそも当初に技術者達が検討した様に、ダム以外の現実的な解決策など存在しないわけだったのですから、ダム中止となってしまった以上、こうなるのは当然の帰結だと言わねばなりません。
だから、当時から我々技術者は皆、「この状況下でダム事業を中止するということは、球磨川沿岸行きの人々に、”豪雨が来たら、大水害が起こって死亡するかも知れない状況になるが、それについては諦めてもらいたい”と言っているに等しいじゃないか!」と思っていたわけですが、まさにそうなってしまったのが、今回の大水害だったのです。誠に無念です。
リスクマネジメントの難しさを痛感します。
国民の血税を投入することの意味は「国民の生命と財産」を守るためのはずです。
未来を見通すことの難しさはわかりますが基本的な理念を政治家の方には忘れてほしくないです。
流域の大雨による急激な水位を事前に予期できなかったのに、ダムがあったら決壊回避できた、には疑問がある。
十分な事前放流ができただろうか?結局、満水で緊急放流により同じことになっていた可能性もある。
八ツ場ダムは試験中でほぼ空だったのであって、ある程度の水位のある供用中ではなかった。
ダムを否定しないが、全てダムで解決できるわけではない。
「はずだ」と言い切るのは技術より、主張に聞こえる。
>>2
そりゃ実際にダムが出来ていないんだから[はすだ]としか言えないだろ。
あなたのコメント読むと揚げ足を取る事しか考えてなくこの記事の本質を理解していないような気がする。