命運を分けた「東の八ッ場、西の川辺川」
川辺川ダムの建設を最終的に中止したのは、時の政権であった民主党政権でしたが、そのとき盛んに無駄の代表として言われていた言葉が、「東の八ッ場、西の川辺川」でした。両者とも建設中止となったのですが、八ッ場ダムは、「幸い」にして民主党政権下で建設が再開され、昨年10月から共用が開始されました。
そして、その僅か10日余り後に襲来した台風19号による関東平野の未曾有の大洪水を防ぐために大きな役割を果たしたのです。したがってもしも、この川辺川ダムも当時中止されていなければ、今回の球磨川エリアの大洪水を防ぐ為に大きな役割を果たしたはずだったのです。
球磨川には、市房ダムというものがすでにありますが、その洪水調節能力は川辺川ダムの1割程度しかありません。したがって、洪水調節にはやはり川辺川ダムが必要不可欠だったわけです。もちろん、今回の観測史上最高と言われた今回の豪雨による全ての氾濫を防ぐことは困難だったかもしれません。
しかしそれでも、それだけ大量の水を上流側でせき止めておけば、その被害を大幅に減ずることができるのは明白。しかも今回二カ所で起こった「決壊」という最悪の事態は大なる可能性で回避できていたでしょう。
つまり、もしも川辺川ダムさえあれば、氾濫を大幅に軽減して決壊を未然に防ぎ、ここまで多くの死者を出すことも無かったに違いないわけです。
つまり、いわゆる「ポピュリズム政治」の中で、その時々の「世論の空気」に流されて、技術的検討を度外視して下してしまった政治決定は、時にこれだけ多くの人々の命を奪い、街そのものを破壊しつくす帰結を導き得るのです。
ついては熊本県、そして政府の関係者には、こうした哀しい歴史を二度と繰り返さぬ決意の下、今後何をなすべきなのかを誠実にご検討いただき、可及的速やかな対策を進めていただきたいと思います。次なる豪雨でさらに多くの方々の命が失われてしまった後でどれだけ悔やんでみても、時すでに遅しとなる他ないのです。
長い年月をかけてつくられる公共事業はとかく「無駄」なものと言われることが多いもの。したがって、公共事業を巡っては今回の「川辺川ダム」の様な悲劇が数多くあるのです。日本の未来は、そんな悲劇を一つ一つ乗り越えない限り訪れ得ません。
リスクマネジメントの難しさを痛感します。
国民の血税を投入することの意味は「国民の生命と財産」を守るためのはずです。
未来を見通すことの難しさはわかりますが基本的な理念を政治家の方には忘れてほしくないです。
流域の大雨による急激な水位を事前に予期できなかったのに、ダムがあったら決壊回避できた、には疑問がある。
十分な事前放流ができただろうか?結局、満水で緊急放流により同じことになっていた可能性もある。
八ツ場ダムは試験中でほぼ空だったのであって、ある程度の水位のある供用中ではなかった。
ダムを否定しないが、全てダムで解決できるわけではない。
「はずだ」と言い切るのは技術より、主張に聞こえる。
>>2
そりゃ実際にダムが出来ていないんだから[はすだ]としか言えないだろ。
あなたのコメント読むと揚げ足を取る事しか考えてなくこの記事の本質を理解していないような気がする。