住宅街のクマと所有権、隣地の足場と所有権
住宅街にクマが出たという怖いニュースをよく目にします。もしもクマに襲われそうになり、逃げる際に他人の家の塀を壊してしまった場合、生命の危険を回避するためにやむを得なかったと認められれば、刑法第37条「緊急避難」が成立する可能性があります。緊急避難とは、現在の危険から身を守るために、やむを得ず他者の権利を侵害する行為を指します。所有権の侵害の行為でも処罰されないという法律上の制度です。
同じく所有権との調整を図るのが「隣地使用権」です。「緊急避難」は生命、身体への危機を回避するためですが、「隣地使用権」は国土の有効活用のために設定されています。隣地を勝手に使用をすることは隣人の所有権侵害になります。
しかし、隣人の承諾がないと絶対に隣地を使用できないとすると、建築工事を断念するケースが生じ、土地の有効活用が阻害され、社会的な損失と言えます。そこで法律は、所有権との調整として隣地使用権を認めています。
令和5年、隣地使用権の改正
令和5年4月1日から民法の隣地使用権に関する規程が変更されました。
民法第209条(隣地の使用請求)
土地の所有者は、次に掲げる目的のため必要な範囲内で、隣地を使用することができる。ただし、住家については、その居住者の承諾がなければ、立ち入ることはできない。
一.境界又はその付近における障壁、建物その他の工作物の築造、収去又は修繕
ニ.境界標の調査又は境界に関する測量
三.(中略)
②(中略)
③第1項の規定により隣地を使用する者は、あらかじめ、その目的、日時、場所及び方法を隣地の所有者及び隣地使用者に通知しなければならない。(後略)
改正前の条文が「他人の所有する隣地の使用を請求することができる」とされていたことと比較すると、改正後の条文では「隣地を使用することができる」と定め、権利を明確にしています。
また、同条3項では「目的、日時、場所及び方法を隣地の所有者及び隣地使用者に通知しなければならない」としています。これは、書面で通知をすれば隣地に立ち入ることができるようにも読めますが、そうではありません。やはり承諾は必要であり、承諾がなければ裁判所に訴える必要があります。
建設工事のために隣地を「使用することができる」ことになりますが、民法上、隣地を使用する権利があるとしても、隣地の所有者が承諾していないのに使用することは、自力救済として認められていません。
自力救済
自力救済は、権利者が法律上の手続きを経ずに、実力で権利を実現することを指します。例えば盗まれた自転車をよそのマンションの駐輪場で発見しても、自力で取り戻すことは禁止されています。権利侵害の救済は、裁判所などの公的機関を通じて行うべきであり、自力救済は原則として禁止されています。隣地使用権を拒否された場合に、勝手に隣地に入って工事を始める行為は自力救済に当たります。
隣地所有者が承諾しない場合は、やはり裁判をすることになります。しかし、通常の裁判では、判決の確定までに何年もかかることがあります。すぐに工事をしなければ損害が生じてしまうような場合は仮処分命令の申し立てをすることができます。
「仮」という文字の通り、緊急の必要性がある場合に数日間から数週間という短い期間で仮の命令を出す制度です。仮処分命令が出た後、通常の裁判手続きをすることになります。
「住家」についてのただし書きの存在
民法209条1項は、そのただし書きで「ただし、隣人の承諾がなければ、その住家に立ち入ることはできない」としています。このただし書きを利用して隣地使用請求権を拒否した事例があります。経緯は以下の通りです。
- Xが所有するビルが築後30年を経て老朽化し、外壁が剥落するなどしたため、補修工事が必要になった。
- 工事のために、Xが所有するビルと30センチぐらいの隙間で建っている隣のYが所有するビルの屋上と非常階段に立ち入る必要があり協力を求めた。
- YはXの協力要請を拒否した。さらに屋上に鉄板で仮囲いを設置し、非常階段の手すりにベニヤ板を取り付けて工事ができないようにした。
- Xは東京地裁に「土地使用建物立入承諾等請求」として提訴した。
- Yは、所有するビルは「住居」であるとして対抗した。住居であるため、判決によって承諾に代えることはできないと主張した。
- Yのビルの屋上には変電設備と空調の室外機しかなかった。
「住居」という対抗についての判決
Yのビルの屋上には変電設備と空調の室外機しかなかったため、裁判所はYの主張を退けてXの要求を認めました。
判決
「民法209条1項ただし書きによれば『住家』に立ち入るには隣人の承諾を要するとされているが、その根拠は、隣人の生活の平穏(プライバシー)を害さないと解されるところ、Yのビルの屋上及び非常階段はその利用形態を見れば『住家』に当たらないとみるべきである。Yに対して立入りの承諾を命じる。また、仮囲いが工事の障害になっているため、撤去を命じる」(平成11年1月28日 東京地裁)
ちなみにYの拒否には理由がありました。以前Xがビルの別館を建築した際の工事の振動によりYのビルの壁に歪みが生じて外壁の一部が落下したのでXに修復を求めたところ、拒否されたのです。裁判所はYが拒否するこの事情について「やむをえない面がないではない」と理解を示したのですが、結論として障害の撤去を命じました。ひとえに、土地の有効活用のためです。
ところで、住宅街にクマが出た場合の緊急避難について、警察庁は各都道府県警察の長宛てに文書を出しています。
「警察官よりも先にハンターが現場に臨場する事態も想定されるところ、当該ハンターの判断により、緊急避難(刑法第37条第1項)の措置として熊等を猟銃を使用して駆除することは妨げられない。」
※参考:警察庁「熊等が住宅街に現れ、人の生命・身体に危険が生じた場合の対応における警察官職務執行法第4条第1項の適用について」
民法も刑法も人の暮らしのために柔軟に運用されているようです。