国交省に入省した理由、仕事の魅力とは
2023年7月に国土交通省四国地方整備局企画部長に着任した奥田秀樹さんに取材する機会を得た。奥田さんのこれまでのキャリアを中心に、お話を伺った。
安心安全な国づくりをしなくてはならない
――国土交通省に入省した理由はなんでしたか。
奥田さん もともと地域づくり、国づくりというモノに憧れていたので、大学で土木を学びました。修士1年のとき、阪神淡路大震災が起きました。大学は福岡でしたが、出身が神戸だったので、かなり衝撃を受けましたし、安心安全な国づくりをしなくてはいけないと改めて痛感しました。そういうことから、当時の建設省に入ったということです。
――被災後、現地でなんらかの活動をしたということはありましたか。
奥田さん ボランティアでなにか活動したということはとくにありません。ただ、フェリーで大阪まで行って、被災地をずっと歩いて見てまわりました。倒壊した阪神高速をはじめ、構造物の被災状況の写真を撮り続けました。
――得るモノが多かったのではないですか。
奥田さん それまでは「日本の構造物は安全に設計されているので大丈夫だ」と信じていた部分があったのですが、「そうじゃないんだ、自分たちが考えている以上のことが起きるんだ」ということを強く思いました。「想定外はあり得る」ということですね。
――大学の研究室はどちらでしたか。
奥田さん 橋梁設計の研究室でした。この研究室に入ったのはたまたまなんですが、ちょうど実家の近くで明石海峡大橋をつくっているところだったので、それもあって入ったというところです。
――民間はまったく考えなかったのですか。
奥田さん そうですね。「国土をどうするべきか」という計画論を主体的に考えたいと思っていたので、民間は考えなかったです。建設省だけを目指していました。
福岡西方沖地震の災害対応を経験
――これまでどのようなお仕事をしてきましたか。
奥田さん 最初の職場は本省道路局の地方道課でした。そこには、現香川県知事の池田豊人さんが課長補佐としていらっしゃったほか、前四国地方整備局長の荒瀬美和さんが係長としていらっしゃいました。お二人からは大変可愛がっていただきました(笑)。今は四国地方整備局で勤務していますが、なにかのご縁ですね。
――地方道課ではどのようなお仕事をしたのですか。
奥田さん 地方道整備の補助事業を担当する課で、各地方のいろいろな要望を聞きながら、防災点検関係などの予算配分のお手伝いをしました。
――その後はどうですか。
奥田さん 2年目は中部地方建設局の小里川ダム工事事務所工務課でした。その後は、国土庁の土地局土地利用調整課に出向しました。本省道路局に戻って、道路管理の高度化のため、光ファイバーの敷設などを担当しました。九州地方整備局の宮崎工事事務所道路管理第二課長、本局の企画課長補佐、企画課長を務めました。
――これまでのところで印象に残っているお仕事はありますか。
奥田さん 九州地整で企画課長をやっていたころに、福岡西方沖地震が起きました。当時はまだテックフォースという仕組みがありませんでしたが、被災情報の収集や支援といったところに力点を置いて、災害対応しました。比較的被害の大きかった玄界島に支援車両を派遣したのが印象深いです。
――災害対応はどうでしたか。
奥田さん 被災して困っているところにどう対応するかということで、後手に回らないよう、みんなで知恵を出し合いながら、とにかく一生懸命やりました。ルールで決まっていないようなことであっても、「整理は後で良いから、やろうぜ」という感じで、やっていましたね。
トヨタ社長に「現場を見させてほしい」と直訴
――民間企業に出向したご経験もあるのですか。
奥田さん トヨタ自動車に行っていました。配属先は東京本社の広報部で、いろいろ学びました。出向期間は2年間だったのですが、終わりのころに「現場で働かせてほしい」と当時の社長に直訴しました。それで、2ヶ月ほど愛知にある堤工場で勤務しました。
――工場勤務ですか。
奥田さん そうです。社員寮に住み込んで、カムリとプリウスのラインに入って、ヘッドランプの組み立て作業に従事しました。「トヨタ生産方式」や「現場主義」というものをハダで感じることができたので、スゴい勉強になりました。国土交通省も「現場主義」なので、共通するモノがあるからです。今振り返っても、私にとって非常に大きな経験になっています。
――工場のマネジメントではなく、実際に組み立て作業をやりたいと志願されたのが、非常におもしろいですね。
奥田さん 実際にやってみないことには、国に帰れないとすら思っていました。トヨタでなにを勉強してきたんだと言われたときに、現地、現物がどうなっているのか、絶対に見ておかないと、なにも答えられないからです。工場の最前線というものをなんとしても見ておきたい、という思いがありました。その結果、たくさんのことを学ぶことができました。
つい先日、局内で業務改善の勉強会があったのですが、自分で資料をつくって、トヨタの生産方式について説明しました。
逃げずに、広報対応を一手に引き受ける
――道路局で有料道路課長補佐をご経験されていますね。
奥田さん 首都高と阪神高速を担当しました。ちょうど民主党政権になったころで、NEXCOを担当している隣のシマはとても大変そうでした(笑)。私自身はと言うと、やるべきことはいろいろあったのですが、在籍期間が短かったので、有料道路制度を勉強しているうちに終わってしまったという感じがありますね。
――自転車活用推進官もご経験されていますが、これはどういうお仕事ですか。
奥田さん 交通安全をやっていました。通学路の安全点検や生活道路の安全対策といったことです。自転車活用推進官というのは、当時議員立法で自転車活用推進法ができたので、これに伴う自転車活用推進計画の策定が任務でした。
――仙台河川国道事務所の所長もご経験されていますが、震災復興に携わられたということですか。
奥田さん そうですね、8年目、9年目の仕上げのところに携わりました。このときも、令和元年台風19号が発生して、宮城県内では河川の氾濫や土砂災害など大きな被害が出ました。
その際、私が管理している河川の樋門操作にミスがあり、被害を大きくした恐れが生じました。そこで、この件の広報対応を私が一手に引き受けることにしました。記者対応をはじめ、地元説明会もすべて私が中心となってやりました。ニガい経験でしたが、トヨタでの経験から、危機管理に関する広報ではどういうふうに振る舞わなければならないかは理解していたので、そこは逃げずに対応しました。
――前職は長崎県土木部長ですが、こちらはどうでしたか。
奥田さん 住宅政策や空港港湾、砂防といった、県内の土木に関連するあらゆる分野を所管していたので、スゴく勉強になりました。われわれが管理する港湾に入ったクルーズ船のクルーの間で、コロナのクラスターが発生したので、緊張感を持って対応したということもありました。石木ダムという建設予定のダムをどうするかという問題もありました。あとは、議会答弁ですね。答弁本数がかなり多かったので、この辺も相当勉強になりました。
久しぶりに奥田秀樹様のお顔を拝見し、懐かしさとその後の経歴に感嘆
しております。全国各地を転勤されて色々な経験を積まれ素晴らしい
栄転をされている事を嬉しく思っております。宮崎河川国道においては、
私が長崎河川国道へ転勤する後任として宮崎に来ていただき、宿舎も
大塚町の私が住んでいた木造宿舎に入られ、エリートの方の住むような
宿舎では無く、大変申し訳なく思った事が、昨日の出来事のように思い
出されます。長崎では荒瀬美和様と一緒に仕事をさせて頂きましたが、
本省で奥田さんが一緒に仕事された事を初めて知りました。岩切清樹