21歳で社長に就任し、積極的にICT重機を導入
平成2年創業の有限会社高木建設(徳島県美馬市)を率いる高木伸也社長は、創業者である父親の事故死に伴い、平成15年に若干21歳で社長に就任した。
それから約15年間、建設業界の浮き沈みにもまれながらも、積極的なICT重機の導入をはじめとする「攻めの経営」を続け、地域建設業としての地歩を固めてきた。今年12月には、優良工事施工者に贈られる徳島県県土整備部長賞を受賞。受注者からの評価も高い。
現場上がりの経営者として、どのような思いで会社の舵取りしてきたのか?理想の企業像はどのようなものか?高木社長に話を聞いた。
建設会社の社長になったのは「若気の至り」
――社長になる前はなにを?
高木 地元工業高校の土木科を卒業して、同じ地域にある西尾組に就職しました。いずれ高木建設に戻る前提の修行のための就職でした。西尾組では現場管理の仕事などをしていたのですが、重機の事故で突然、親父が亡くなりました。平成15年8月、私が21歳のとき、高木建設に戻ってきました。
急きょ高木建設に戻ったわけですが、ちょうど、地方でも仕事が減り始めた頃で、高木建設の創業以来、初めて仕事を休まざるを得ないぐらい仕事がなくなりました。周りからは、そんなときに跡を継いでもうまくいかないだろうと、「そのまま西尾組でサラリーマンを続けろ」と言われました。私は跡を継ぐつもりだったんですけども、当時そういう厳しい状況だとは知らなかったんです。
――会社を継ぐことに不安はなかった?
高木 今思えば、不安は持たなアカンのに、持ってなかったですね。今の自分だったら、今の知識があったら、跡を継いでなかったです(笑)。当時は、なにも知らなかったので、怖くなかったんでしょうね。跡を継いだのは、若気の至りですよ(笑)。
「なにをやるにもメチャクチャで、考えずに突っ走る人間だった」と語る高木社長
――社長として、良いスタートは切れましたか?
高木 まったく切れなかったですね(笑)。社長1年目は、自分独り現場に出て、重機に乗って、型枠を組んで、測量などをしましたが、年間の売上げは約2000万円。700万円の赤字でした。跡を継がず、サラリーマンを続けていれば、当時憧れだった「セルシオが買えとったなあ」と悔しい思いをしました(笑)。1年目の思い出はそれしかないです。ただ、それでいろいろと気付かされました。社長が現場に出ていくらやっても、売上げはそんなに増えないということなどが。そこから考え始めました。
2年目からは、まずは、受注の仕方を勉強しました。そんなこともわからんと、社長をやっていたわけです。現場仕事はともかく、経営に関することはすべて手探りでした。仕事があったら、「とりあえずやらしてもらおう」ぐらいの感覚でした。
――人集めは?
高木 ウチは下請けなので、大工やオペレーターを集めました。ただ、1年目に赤字をコイタので、人を入れたら、その後どうなるかわからない怖さはありました。当時、1名増やすことは、売上げを最低でも1000万円増やす必要があると計算していました。当然営業をやっていかないといけません。受注の幅を広げようとしたわけです。
有限会社高木建設の高木伸也・代表取締役社長
――受注拡大というと?
高木 親父のころからお世話になっていた株式会社南組という会社の土木部長さんから、いろいろと助言をいただきながら、やっていました。私の高校の同級生のお父さんで、私の性格を良く知っている人でした。当時の私は、なにをやるにもメチャクチャで、考えずに突っ走る人間でした(笑)。その部長さんに「ムリするな」とブレーキをかけてもらいながら、ムリをしない範囲で、南組の仕事をメインに、受注を増やしていきました。ちょっとずつ人も増やしました。他にも県西部の大手の社長さんに様々な助言をいただきました。人に恵まれていましたね。
――大変だったことは?
高木 営業活動などを通じて、建設業の怖さ、人の怖さを学びました。当時は、本当にダマし合いの世界でしたから。「コイツらをダマして、安く使おう」とか、数量ダマして、金額ダマしてが当たり前の時代でした。私も若かったので、周りからナメられるんです。その頃、台風が来て、この地域で災害復旧の仕事が増えた時期がありました。ウチも元請けの仕事をしたいと考えたときがありました。詳しいことは言えませんが、「人間不信」になるようなこともありました。「ウソばっかりやんけ!」みたいな(笑)。
――かなり、もまれたわけですね。
高木 そうですね。災害復旧の仕事が一段落すると、また仕事がなくなりました。やることがないので、元請けの倉庫の片付けなどをやり、そここら出た鉄クズを売ったりしていました。トン当たり2万円ぐらいで。3年間ぐらいやりましたが、結構儲かりました。ピーク時には、売上げの7割が鉄クズ販売という時期もありました。他業種をやることの怖さがなくなりました。
今振り返れば、その当時の社員は8名でしたが、このメンバーだったら、なにをやってもイケるなという、経営者としての自信が生まれたと感じています。それまでは私個人がやっていた感じで、会社として機能していませんでしたが、会社として、やっぱり土木をやっていこう、という気持ちが固まってきました。高木建設にとって、メインはやはり土木で、会社を続けるために鉄クズをやっていました。鉄クズで儲けた金で、重機を買うという感じでした。
四国で初めて「ハイブリッド重機」を導入した高木建設
――重機などの設備投資はその当時から?
高木 いえ、本格的な投資はその後、平成23年ぐらいです。四国で初めてKOMATSUハイブリッドの07バックホウを導入しました。当時の四国の建設業は、不況の真っ只中でしたが、高木建設は鉄クズで儲かったていたので、導入に踏み切れました。ハイブリッド重機が必要だったということもありますが、企業PR、企業イメージのためもあって、導入を決断しました。
ハイブリッド導入の結果、元請けだけでなく、国からも高い評価を得られました。ある大手製薬会社の工場建設工事で、大手ゼネコンの下請けにも入ることができ、20万㎥ほどの土工の仕事もやりました。重機の仕入れルートを開拓していたので、独自ルートで重機を購入し、工事をやり切りました。当初、鹿島建設からは県外の会社を紹介されましたが、「地元の仕事は地元の会社がやるのがスジです」と突っぱねて、土工以外の工事も地元の会社にやってもらいました。これが地域の建設工事の本来の姿だと思います。
目先の5年ぐらいの仕事だけを考えれば、リースでも良かったのですが、今後30年、40年土木をやっていく考えだったので、リースを選ぶ気はなかったですね。その後、この地域では多くの会社がリースに頼っていたので、リース会社の重機が足りなくなりました。重機がなければ、現場にかかれません。建設会社にとって、重機の自社保有は基本だと思っています。
「重機を買う」ではなく「タダで使う」感覚で積極的に設備投資
――設備投資にはリスクもあると思いますが、よくその決断ができましたね。
高木 重機の売買の経験があったので、買った重機を高く売る自信がありました。「重機を買う」ではなくて、「タダで使う」感覚で積極的に設備投資をしてきました。実際に、買った値段より高く売ってきました。それがあったので、2億円ほどの設備投資ができたんです。当時のウチの年商は2〜3億円程度でしたので、普通ではあり得ない投資額です。
――確信がないとできない投資ですよね。
高木 確信はなかったです。相場モノなので、わからないですよ。ただ、溝口専務には「絶対イケる」と説明していましたが(笑)。
(ここで、溝口専務が登場)
溝口 当時は高木建設に来たばかりだったので、よくわかりませんでしたが、結果的に利益が出ました。高木社長の言う通り、うまくいきました。
溝口幸男専務取締役(前右端)、高木健常務取締役(後右から二人目)、高木司ICT事業部(前中央)
高校の同級生を会社経営の右腕としてヘッドハンティング
――溝口専務は、高木建設は長いんですか?
溝口 私が高木建設に入ったのは、3年前です。高木社長とは高校の同級生でした。その前は別の会社で建設の仕事をしていました。
高木 溝口専務とは、高校の部活で一緒で、その当時から人柄を信用していました。「いつか一緒にやりたい」と思っていました。ちょくちょく電話をして、「もうそろそろ、ウチに来てもエエんやないか」という話をしていました。
――一緒に会社経営をやりたいと?
高木 ええ。彼は、私にないところを持っているからです。
溝口 前の会社は、「でき上がっている会社」でしたが、高木建設は「若い力でこれから伸びていく会社」だったので、そこに魅力を感じました。高木社長の熱意に打たれました。
――「攻めの経営」はいつごろから?
高木 27歳ぐらいで、土木の世界で一生やっていこうと決めました。そのタイミングで、人材や設備などに投資をしていくことを決めました。ただ、人を雇って「やれ」と言っても、なかなかやれません。人を追い込むことは難しいところがあります。であれば、可能な限り機械化していくことでそれを補おうという考えでやってきました。
「男塾」みたいな社員教育をいつまでやっとんねん!
――人集めに苦労している地域建設業の会社は少ないようですが。
高木 建設業界は、人を「使い飛ばす」ようなところがあります。最近は人を大事にするようになっていますが、仕事が減った数年前は、リストラの名のもとに、どんどんクビを切っていました。それを見て、私は「社長が自分の身を守っているだけやないか」と思っていました。社員を大事にしない経営者が多いです。自分が若いころ厳しく教えられたから、今の若い子にも厳しく教えるバカタレもいっぱいいます。そんな「男塾みたいな社員教育をいつまでやっとんねん!」という感じですよね。そんな状況で、ゆとり世代の子が育つわけがありません。
「建設業界はダメじゃ。もう先はない」という建設会社の社長がいますが、さっさと引退して欲しいと思います。建設業界のイメージが悪くなるからです。私は、今の若い人達にとって、建設業界は本当は魅力ある業界だと思っているので、悪いイメージを振りまかれては困ります。
――老害ですか?
高木 そうですね。地域建設業には、なんの努力もせずに、文句ばかり言う年寄りが少なくありません。確かに、60歳、70歳の人間が、20年、30年後の先のことを考えるのは難しいでしょう。彼らの気持ちは分からないではありませんが。
役所に一生懸命アピールしても、一般人から見れば「はあ?」
――高木建設は会社ホームページをはじめ、対外的なPRにも力を入れていますね。
高木 建設業は、世の中で良いことをいっぱいやっているのに、一般の人は知らないんですよね。建設業は一般の人にアピールできていません。一般の人にとっては、いつまでも「土建屋」のイメージのままです。「建設業が地域からなくなると、皆が困る」ということを一般の人にわかってもらいたいという思いがあります。
ウチらは地域に食わせてもらっているので、地域の人に理解してもらうことは、私の喜びであり、社員の喜びにもなります。情報発信は、リクルーティングにもつながっていくと考えています。多くの建設会社は、役所には一生懸命アピールしていますが、一般の人から見れば「はあ?」みたいな話です。
国が言い出す前から、儲けるためにICTを活用
――ICTに力を入れてきた理由は?
高木 ウチでは、国が言い出す前から、「どうやって儲けてやろうか」ということを考えていく中で、ICTや大型機械の導入などに取り組んでいました。最近は、ICT事業部を設置し、KOMATASUさんとタイアップしながら、ICTを積極的に活用しています。
(ここでICT事業部の高木司さん登場)
高木司 私はICT部門を担当しています。以前は南組で社長をしていたのですが、今年の4月から高木建設に来ました。ドローンの開発などを行っています。
――高木建設でICTをやるために来てもらった?
高木 昨年の11月、高木司さんから電話がかかってきたんです。「俺、会社やめるから」と(笑)。
高木司 オーナーがいる雇われ社長だったので、会社が面白くなくて、辞めたんです。
高木 「どうすんの?」と聞くと、「ドローンで商売していく」いう話でした。
高木司 ICTで必要な三次元の設計データとか、測量をやっていきたいと考えていました。
高木 ICTは、うちもやっていかなければならないタイミングだったので、「だったら、ウチで技術を磨いてよ」という感じで、高木建設に来てもらいました。今のところ、ICTがどれだけ標準化されるか、読めないところがあります。ICTだけで独立するのはリスクが大きいので、ウチで様子を見ながら、一緒にやっていこうという流れですね。
高木建設の看板猫「タオ」
「カッコ良い建設業」「地域から求められる建設業」を目指す
――高木建設がアピールしていきたいことは?
高木 「カッコよく」がキーワードですね。若者というよりは、その子の親は、「建設業は汚い」というイメージを持っています。でも、「今はこんな風に変わってきている」ということをわかってもらいたいという気持ちがあります。
先日、ある若い子の親御さんに「なんで土建屋がドローン使っているの?」と言われました。私は「建設業でドローンは当たり前ですよ。タブレット端末で仕事ができるようにもなっていますよ」と答えました。
それと、「地域から求められる企業になる」ということです。近所の方々に求められる、頼りにされる会社、社員を目指していきます。