建設会社の社長になったのは「若気の至り」
――社長になる前はなにを?
高木 地元工業高校の土木科を卒業して、同じ地域にある西尾組に就職しました。いずれ高木建設に戻る前提の修行のための就職でした。西尾組では現場管理の仕事などをしていたのですが、重機の事故で突然、親父が亡くなりました。平成15年8月、私が21歳のとき、高木建設に戻ってきました。
急きょ高木建設に戻ったわけですが、ちょうど、地方でも仕事が減り始めた頃で、高木建設の創業以来、初めて仕事を休まざるを得ないぐらい仕事がなくなりました。周りからは、そんなときに跡を継いでもうまくいかないだろうと、「そのまま西尾組でサラリーマンを続けろ」と言われました。私は跡を継ぐつもりだったんですけども、当時そういう厳しい状況だとは知らなかったんです。
――会社を継ぐことに不安はなかった?
高木 今思えば、不安は持たなアカンのに、持ってなかったですね。今の自分だったら、今の知識があったら、跡を継いでなかったです(笑)。当時は、なにも知らなかったので、怖くなかったんでしょうね。跡を継いだのは、若気の至りですよ(笑)。
――社長として、良いスタートは切れましたか?
高木 まったく切れなかったですね(笑)。社長1年目は、自分独り現場に出て、重機に乗って、型枠を組んで、測量などをしましたが、年間の売上げは約2000万円。700万円の赤字でした。跡を継がず、サラリーマンを続けていれば、当時憧れだった「セルシオが買えとったなあ」と悔しい思いをしました(笑)。1年目の思い出はそれしかないです。ただ、それでいろいろと気付かされました。社長が現場に出ていくらやっても、売上げはそんなに増えないということなどが。そこから考え始めました。
2年目からは、まずは、受注の仕方を勉強しました。そんなこともわからんと、社長をやっていたわけです。現場仕事はともかく、経営に関することはすべて手探りでした。仕事があったら、「とりあえずやらしてもらおう」ぐらいの感覚でした。
――人集めは?
高木 ウチは下請けなので、大工やオペレーターを集めました。ただ、1年目に赤字をコイタので、人を入れたら、その後どうなるかわからない怖さはありました。当時、1名増やすことは、売上げを最低でも1000万円増やす必要があると計算していました。当然営業をやっていかないといけません。受注の幅を広げようとしたわけです。
――受注拡大というと?
高木 親父のころからお世話になっていた株式会社南組という会社の土木部長さんから、いろいろと助言をいただきながら、やっていました。私の高校の同級生のお父さんで、私の性格を良く知っている人でした。当時の私は、なにをやるにもメチャクチャで、考えずに突っ走る人間でした(笑)。その部長さんに「ムリするな」とブレーキをかけてもらいながら、ムリをしない範囲で、南組の仕事をメインに、受注を増やしていきました。ちょっとずつ人も増やしました。他にも県西部の大手の社長さんに様々な助言をいただきました。人に恵まれていましたね。
――大変だったことは?
高木 営業活動などを通じて、建設業の怖さ、人の怖さを学びました。当時は、本当にダマし合いの世界でしたから。「コイツらをダマして、安く使おう」とか、数量ダマして、金額ダマしてが当たり前の時代でした。私も若かったので、周りからナメられるんです。その頃、台風が来て、この地域で災害復旧の仕事が増えた時期がありました。ウチも元請けの仕事をしたいと考えたときがありました。詳しいことは言えませんが、「人間不信」になるようなこともありました。「ウソばっかりやんけ!」みたいな(笑)。
――かなり、もまれたわけですね。
高木 そうですね。災害復旧の仕事が一段落すると、また仕事がなくなりました。やることがないので、元請けの倉庫の片付けなどをやり、そここら出た鉄クズを売ったりしていました。トン当たり2万円ぐらいで。3年間ぐらいやりましたが、結構儲かりました。ピーク時には、売上げの7割が鉄クズ販売という時期もありました。他業種をやることの怖さがなくなりました。
今振り返れば、その当時の社員は8名でしたが、このメンバーだったら、なにをやってもイケるなという、経営者としての自信が生まれたと感じています。それまでは私個人がやっていた感じで、会社として機能していませんでしたが、会社として、やっぱり土木をやっていこう、という気持ちが固まってきました。高木建設にとって、メインはやはり土木で、会社を続けるために鉄クズをやっていました。鉄クズで儲けた金で、重機を買うという感じでした。
ランマとプレートも間違える。
1番さんが言ってるのよくある
埋め戻ししてるのに転圧機持ってきてと言ったらプレート持ってくる人結構いる。
造園業だからかな?
ウィキペディアの説明はかなり違いますが、どちらが正しいのでしょう。
ウィキペディアには、ランマは衝撃力、タンパは振動で締固めるとあるが、これは間違いと思われる。
国土交通省の積算基準には「タンパ及びランマ 質量60~80㎏」と「振動コンパクタ 機械質量 40~60㎏」とあり、
「タンパやランマ」で40㎏級の重量のものはないため、
「振動コンパクタ=プレート」であり
「プレート≠タンパ及びランマ」と推測する。
原動機消費燃量からみても間違いないと思われる。
国土交通省の共通仕様書の土工には、「狭隘部の土の締固めにはタンパ及びランマを使用すること。」とある。更には現場での指摘や検査などでも、プレートは転圧補助機とされている。
更には国土交通省や土木学会等の専門文献には、
衝撃力で締め固めるのが「タンパ及びランマ」
起振力で固めるのが「振動コンパクタ」
という旨の文言がもあり前述の裏付けとなる。
以上のことから「ランマとタンパ」は衝撃力で締固めるものであり、ウィキペディアが間違いと思われる。
ランマとプレートを間違える人も多いという意見もちらほら聞く。これは西日本、東日本等の地域性や職性があるのかもしれない。
なるほど、詳しいご説明ありがとうございます。
ランマとタンパについては、
例えばドイツの Wacker Neuson 社では、
60-4s, 4-cycle ram-type tamper という製品があったり
BS50-2 Two Cycle Vibratory rammer という製品もあり
いまいち統一されていません。
rammerの語源「ram」も、tamperの語源「tamp」も、どちらも「土等を突き固める」という意味で一緒なので、結局メーカーのネーミングの違いだけで、ランマもタンパも一緒なのでは?という気がしますが・・・