たまたまインターンで行った首都高にたまたま入社
――(笑)。就活はどんな感じでしたか?
田沢さん 私の大学では、学部でインターンに行くのが必須単位だったんです。2ヶ月間もインターンに行かなければなりませんでした。インターン先は勝手に割り当てられたのですが、それがたまたま首都高速道路公団だったんです。
当時の私は首都高について何も知らなかったのですが、インターンに行ってみると、お金はもらえるし、寮住まいで3食出るし、「こりゃいいな」と思いながら、インターンをしていました。それから大学院に行ってから、就活を始めました。行きたかった秋田県庁などは全部落ちましたが、首都高だけが合格を出していただきました。首都高に拾っていただいたという感じです。
――首都高でなにをやりたいというのはとくになかったのですか?
田沢さん そうですね。まず地元秋田に帰りたいと思っていましたね。地元の建設会社も受けたのですが、「大学院卒は来るな」という感じで、門前払いされました。「高校、高専卒なら採用するのに」と言われましたよ。変な感じだなと思いましたね。
――入社してどうでした?
田沢さん インターンのときとだいぶ雰囲気が違うなと思いましたね。インターンのときはみんな優しかったのですが、実際に入社すると、優しくなかったんですよ(笑)。
ハード系、ソフト系、海外系なんでもやった
――(笑)。首都高ではどのようなお仕事を?
田沢さん 最初は設計課というところに配属されて、橋やトンネルの設計の末端の仕事をしていました。次が、今で言うITS(高度道路交通システム)系に異動になって、ハード系からソフト系に仕事がガラリと変わりました。それが終わって、またハード系に戻って、羽田とか多摩川あたりの海底トンネル工事の現場監督をやった後、また設計に戻りました。
それから、フィリピンに行きました。フィリピン大学で交通工学や都市計画専門の大学院をつくるというプロジェクトにJICA専門家として、交通工学や環境工学を教えに行きました。交通工学や環境工学についてはあまり得意ではなかったのですが、「首都高が全面的にサポートするから大丈夫」ということで、行かせていただきました。
日本に帰ってからは、将来の交通量の推計とか、現場調査とか、山手トンネルの現場監督とかをやった後、国際企画課というところで、海外でのコンサルティング業務などを担当することになりました。そこから10年間、国内外のコンサルティング業務をやり続けました。
この間、バンコク駐在事務所の立ち上げなんかもやり、実際にバンコクに2年間単身赴任もしました。それやこれやを10年間連続でやらせていただき、今年6月に首都高を退職して、首都高技術に採用されました。
首都高グループの仕事は、大きく構造系と調査計画系、メンテナンス系の3つに分かれるのですが、私のキャリアは、この3つのどれにもはまらない感じです。振り返ってみると、とくに希望したわけではありませんが、新設の部署とか、やったことのない部署に行かされることが多かったですね。専門的なことができなかったという悔しさはありますけど、自分のキャラクターには合ったキャリアパスではあったと思っています。
――バンコクの駐在事務所の立ち上げは大変だったでしょう?
田沢さん メチャクチャ面倒くさかったですね(笑)。現地国のルール(法律)とかいろいろ勉強しながら、申請とか全部やりました。実は、同時期にインドネシアのジャカルタにも首都高の駐在員事務所を設立しましたので、2か国分の手続きを一緒にやっていたわけです。