5年越しの思いが叶い、東北・石巻の現場へ
――なにを機に、震災復興に携わるように?
夘野さん 震災復興に貢献したいという気持ちはずっと持ち続けていましたが、子どもが最優先でした。ただ、子どもも中学3年生になり、手も離れたので、東北への思いも少しずつ強くなっていました。
ですが、「行きたい」という気持ちだけではどうにもなりません。東北の会社に転職するしかないのかな、何か手段はないかなとぼんやり考えていたら、地元・広島の友人が宮城の復興工事現場に入ることになりました。先ほど話した常磐道工事でも一緒にやっていて、同い年で腐れ縁のような男です。
その友人が、復興工事に強い人材派遣会社を紹介してくれたんです。これも縁だと、思い切って妻に「東北へ行きたい」と伝えました。妻自身も過去に我を通して被災地に入っていたこともあって、2年間を条件に許しを得て、紹介してもらった派遣会社に入社し、2016年から宮城では大手の地場ゼネコンの現場で働くことになりました。
――どんな工事を担当された?
夘野さん 最初の現場は、津波の被害を受けた宮城農業高校の内陸への移転工事で、次に東松島野蒜の長浜海岸で防潮堤工事をやっていました。延長は1kmで相当デカい規模でしたね。長浜海岸ではすべて流されていて何もありませんでしたし、工事区域の中で人骨が出ることもありました。警察に届けて、DNA鑑定して、遺族に引き合わせて、花を手向けに来ることもありましたね。
そのうち、約束の2年が経ったので、広島に戻らなければならなくなってしまって。一応、「広島のゼネコンに採用されたら、広島に戻る」という約束だったので、絶対に受からないと思って高を括っていたんですが、採用されてしまって…。しぶしぶ帰ることになりました。
広島に戻ってからは、抜け殻みたいになってましたね(笑)。もう、広島で定年まで勤めあげようという気持ちで帰ってはいるというか、そう思うことにしていたんですが、やっぱり気が入らなかったですね。
そんな姿を見た妻が、「東北に戻っていいよ」とポロッと言ったんですよ。一言も戻りたいなんて言っていなかったんですけどね。やっぱり家族だから分かるんでしょうね。「アンタのやりたいことしいや。家はウチがおるけえ、大丈夫」って。
広島では誰もが知っているような、安定した良い会社だったんですけどね。親からも「ここで腰据えるんやろ?」と言われてたんですが、ダメでしたね。この会社に定年までおれるか?と考えたら、身が入らんわけですよ(笑)。
結局、広島の会社は3カ月で辞めました。妻の一言が無かったら、今もボケーッと働いてたでしょうね。
――石巻に戻ってきてからは、どんな工事を?
夘野さん 本当は広島に戻る前にやっていた防潮堤工事に入りたかったんですが、タイミングが合わず、震災遺構の荒浜小学校が残っている若林区の荒浜地区で名取川と七北田川の10km区間の復興道路の建設工事をやりました。
その後は、橋梁の上部工を中心に担当してきました。上部工は特殊工事で、広島だと大手でなければなかなか携わる機会がなかったんですよね。なので、まったく手掛けたことはなかったんですが、任せていただくことになって。仙台や名取、東松島から郡山にも行きましたね。今は石巻市鮎川浜の湊川橋の現場に入っています。
夘野さんご無沙汰してます、広島の上田です。昨日奥様にこの記事のこと教えて頂き拝読しました。何度も東北へ仕事で行かれ正直家族のことは大丈夫なのかなと、そればかり気になっていましたが、熱い想いを知りホット致しました、と言うより私も最近仕事が楽しく無くてモヤモヤしていましたが、夘野に負けじと頑張ろうと言う勇気を頂きました、くれぐれもお体に気を付けて頑張って下さい。以前よりだいぶ太り気味ですよ(笑)
復興は単に通常の工事とも違い、会社、社員、作業員それぞれの思惑が違う!
作業員同士でも、被災者、被被災者の違いはあるし、作業員不足を埋める為に、遠方の方達を導入せざるを得ない!
地元の昔からの技量を図れる人と違い、中々難しい物が有りますね!
それは監督業も同じ事で、中には会社からの派遣で嫌々来てる方もいる訳ですよね!
でも、復興に携わりたいと言う思いは大事にしたいと思います!