3名のドボジョが広島市役所を選んだ理由
広島市と言えば、中国地方で唯一人口100万人を超える政令市だ。市内には、原爆投下3日後に復旧した路面電車をはじめ、アストラムライン(高架も地下も走る電車)が走る。大都市の象徴である都市高速(広島高速)もある。その交通インフラの充実ぶりは、中四国地方の拠点都市と呼ぶにふさわしい。
JR広島駅ビル、広島東郵便局跡地、サッカー場など、再開発もなかなか活発だ。その一方、近年、市内で豪雨災害が発生しており、命を守るまちづくりも進められている。
そんな広島市役所には、一体どのようなドボジョ(土木女子)が働いているのだろう、と気になった。ということで、広島市のベテラン、中堅、若手のドボジョ3名に、広島市役所での仕事ぶり、働きやすさなどについて、いつものようにユルくお話を聞いてきた。
母妹と一緒に、父の土木工事を手伝う
――土木との出会いはどのようなものでしたか。
横畠さん 私の父は、呉市内で小さな土建会社を営んでいました。それが土木との出会いです。父は当時、土日も休まず、日曜であっても、現場で1人で頑張って働いていました。私は3人姉妹の長女なのですが、小さいころは、母と妹と一緒に現場に行って、父の仕事ぶりを見ていました。資材を運んだり、スコップやハンマーを使ったり、仕事を手伝うこともありました。
堀さん 私の父はハウスメーカーに勤める建築士でした。小さいころは、建築士になって、家を建てたいと思っていました。モノづくりする仕事をしたいと漠然と思っていました。ところが、いろいろあって、大学では地質学に進みました(笑)。
研究職には就きたくなかったので、いろいろ調べているうちに、公務員の土木職という選択肢を見つけました。大学では、唯一あった土木系の地盤工学研究室に入っていたので、まあ、なんとかなるかなと(笑)。それが土木との出会いになります。
志賀さん 私は地元が山口県なのですが、中学生のとき、地元の高専のオープンスクールに行ったんです。オープンスクールでは、建築の模型をつくったのですが、それが新鮮でおもしろかったので、その高専の土木建築科というところに進学しました。それが土木との出会いです。ただ、入学するときは、土木と建築の違いはよく分かっていなかったです。
40人中、女子学生は私1人
――横畠さん、どちらで土木を学んだのですか?
横畠さん 呉高専の土木工学科で土木を学びました。卒論はアルカリ骨材反応に関するものでした。当時は父の仕事を手伝うつもりだったので、当然のように高専の土木に進学したわけです。当時土木の女子学生は、40人中、私1人でした。
――堀さん、大学の学科は地質学だったけれども、研究室は土木系だったということですか?
堀さん そうですね。卒論は有限要素法を用いた地盤解析でしたが、研究室の先生から「公務員になりなさい」とアドバイスをしていただいていたので、卒論の研究と並行しながら、公務員試験の勉強の指導もしていただいていました。本音を言えば、公務員はどんな仕事をしているのかよくわからなかったし、私としては公務員になりたいと思ったことは、それまで一度もありませんでした(笑)。
――志賀さん、高専ではどのような勉強をしましたか?
志賀さん 当時の高専では、4年生まで土木と建築の両方を勉強するというカリキュラムでした。当時は、漠然とものをつくるだけでなく、人を助ける、人を支える仕事に就きたいと思っていました。3年生のときに、担任の先生から「土木は人の生活を支える仕事なんだよ」というお話を聞いて、「じゃあ土木にしよう」と決心しました。それで、構造力学の研究室を選びました。
私のクラスは、36人中、女子は11名でした。そのうち8割が土木を学んでいましたが、ほかの学年だと、建築を希望する女子が多かったので、周りから珍しいと言われていました(笑)。