キャリア官僚としての半生を振り返る
昨年7月、高知河川国道事務所に所長として赴任した小林賢也さんに取材する機会を得た。同事務所では、「仁淀ブルー」で知られる仁淀川、その支流の日下川で一水系での総延長が最長の19kmとなる6本目の新規放水路を建設中だ。
それはともかく、なぜ国土交通省に入省したのか、これまでどのような仕事に関わってきたのかなど、小林さんのこれまでのキャリア官僚としての半生をめぐって、いろいろお話を伺った。
木津川での記憶が土木の原点
――そもそも土木に興味を持ったきっかけはどのようなものでしたか?
小林さん 私は京都府南部の出身なんですけれども、子どものころに木津川で釣りをしたり遊んで育ったので、河川に関係する勉強をしたいという漠然とした思いがありました。大学に進学するときに、河川は土木に含まれるということを知ったので、土木のある工学部に進みました。
――大学の研究室はなんでしたか?
小林さん 河川工学の研究室でした。多少マニアックですが(笑)、河川の条件によって、どのような河床形態が形成されるのかについて、研究していました。もう忘れましたが、与えられたいくつかのテーマの中から、選んだのだと思います。河川に関係する仕事に就きたいという思いはありました。
就活のときは公務員バッシングがスゴかった
――就活はどんな感じでしたか?
小林さん 就活は大学院に行ってからでしたが、当初は公務員でも民間でもどっちでも良いかなと考えていました。むしろ、ゼネコンの仕事がおもしろそうだなと思った時期もありましたが、最終的には、河川整備の計画をやる仕事が良いと思って、公務員にしました。
――タイミング的に公務員バッシングの時期ではなかったですか?
小林さん そうでしたね。最近は比較的フラットですけど、私が入省した当時でも公務員バッシングはスゴかったですね。世間的には「公共事業=悪」とか「公務員は大した仕事もせず、給料もらってけしからん」みたいなイメージがありました。私が入省したときは小泉純一郎首相でした。
――そんな時代状況だったにも関わらず、公務員になったのはそれだけの思いがあったからということですか?
小林さん そうですね。河川整備の計画といった仕事は、公務員しかできない仕事だったからです。
民主党政権下で事業仕分けを手伝う
――これまでどのようなお仕事をしてきましたか?
小林さん 最初の職場は、本省の総合政策局の当時の環境・海洋課というところで、旧運輸省系の環境関係の窓口みたいな仕事を担当しました。2年目は四国地方整備局松山河川国道事務所の調査2課というところで、すでに開通しましたが、外環状道路インター線に関する調査設計や協議などを担当しました。そこには1年半ほどいました。
3年目の途中から、内閣官房の行政改革推進本部事務局に出向し、独立行政法人の改革を担当しました。土木はまったく関係のない仕事でした。ここで働いているときに、自民党から民主党に政権が変わりまして、民主党政権下では事業仕分けを手伝っていました。2年ぐらい出向していました。
――なかなか河川が出てきませんね(笑)。
小林さん そうなんです(笑)。その次にやっと、当時の河川局河川計画課河川情報企画室というところでした。「ザ・河川」という感じではなく、技術基準とか技術開発なんかをメインでやっているセクションで、私は技術開発のとりまとめをやっていました。ただ、途中で東日本大震災が起きたので、河川局内の災害対応のとりまとめなどもやりました。所掌にないようなことも幅広にやっていましたね。ここも2年弱いました。