加和太建設 河田亮一 代表取締役社長(右)と、大学の同級生で「右腕」の川合弘毅取締役・ITI事業部統括

売上100億円超!リクルート出身、加和太建設の河田社長が実践する「地域建設業プロデュース戦略」とは?

「地域建設業プロデュース戦略」で売上3倍以上に 加和太建設

静岡県東部の三島市内に、加和太建設株式会社という会社がある。同社はもともと、地元の公共土木工事などを請け負う地域建設会社で、売上約30億円、社員数60名弱の普通の中小企業に過ぎなかった。

しかし、10数年後、加和太建設は売上100億円超、社員数270名を擁する会社へと変貌を遂げることになる。

成長の源泉は「社内改革」と「経営の多角化」。新たな経営ビジョン、事業戦略を策定し、人事評価など会社マネジメントシステムを導入するほか、民間建築工事の受注拡大、リノベーション事業、不動産事業への参入、東京・ベトナムへの進出など、新規プロジェクトを次々に実行していった。

その仕掛け人が、三代目の河田亮一代表取締役社長だ。アメリカやスイスで高校生活を過ごし、一橋大学を卒業後、リクルートに就職。三井住友銀行勤務を経て、家業である加和太建設に入ったという変わり種だ。

河田社長には「地方ゼネコンの新しい可能性を示し、日本、世界を元気にする」という壮大な夢がある。河田社長の「地域建設業プロデュース戦略」とはどのようなものなのか。話を聞いてきた。


リクルートに入社、政治家を目指すも、加和太建設を継ぐ

加和太建設 河田亮一 代表取締役社長

――河田社長はもともと、家業である建設業に対して、ネガティブなイメージを持っていたようですね。

河田 ええ、そうです。幼少の頃から、父親から「家業を継げ」と言われたことも一度もありませんでした。建設業について父親から教わることもありませんでした。

私も、家業を継ぐ気はまったくなかったですし、むしろ継ぎたくないと思っていました。家業なので、建設業というワードには妙に反応してしまうわけですが、ニュースに出てくる場合は悪い情報が多くて、全然良い産業だとは思えなかったからです。子供の頃は、そんな感じで過ごしていました。

自分が将来何になりたいか決まっていなかったので、それを見つけようと思って、中学を卒業した後、海外に行きました。海外で高校生活を過ごした後、ある決心をして、帰国しました。

――決心とは?

河田 ある小説の一節が心に触れて、「自分を信じて、自分が生きた証を残せる人間になろう」という思いがありました。具体的には「日本の教育システムを変えたい」という思いがあったので、「政治家になろう」と考えたのです。

大学時代も、政治家になる夢を持ち続けました。大学卒業後は、リクルートに就職しましたが、採用面接で「政治家になりたい」と言ったら、「面白いヤツだ」ということで採用になったようです。当時リクルート出身の政治家が何人かいて、「まあ、いいんじゃないの」ということだったらしいです。

リクルートでは営業をやっていました。営業の中で、「会社経営を通じて社会に貢献する」という考えを持った多くの経営者の方々とお会いすることができました。政治家でなくても、「経営者になれば、世の中を変えられる」と考えるようになりました。

「会社経営の勉強をしよう」と思い、リクルートを退職し、三井住友銀行に転職しました。銀行員としては、銀行の考え方や仕組み、それまで知らなかったいろいろな業種についても勉強しました。

――最終的に家業を継ぐことになったきっかけは?

河田 銀行に勤めて1年経った30歳のとき、「自分で会社をやろう」と考え始めました。そのときふと、父親の顔が浮かびました。「今ある自分は父親のおかげだ」という感謝の気持ちが芽生えてきました。

そこで、「まずは親孝行しよう」と、加和太建設に入る決心をしました。「親孝行したい。5年ほど実家に帰る」と父親に電話しました。それで、加和太建設に入社したわけです。

リクルートに勤めていた頃も、銀行に勤めていた頃も、会社の先輩などからは「建設業は斜陽産業だし、地方で建設会社なんかやっても成長の余地なんかない。お前が戻っても仕方がないよ」みたいなことばかり言われました。にも関わらず加和太建設に入ったのは「親孝行がしたかった」から。ただ、それだけでした。


建設業はダメな産業?会社はダメだったが、現場監督はスゴイ!

――加和太建設に入って、どうでしたか?

河田 会社の体を成していないと思いました。会社のマネジメントができていませんでした。人事評価はないし、決裁ルートも明確ではありませんでした。

――どんぶり勘定とか?

河田 いえ、コスト意識は高かったので、見積、実行予算、発注、その辺りはしっかりとやっていましたね。ただ、意思決定、学習、教育システム、採用、評価制度といった会社をマネジメントする仕組みがありませんでした。

――驚いた?

河田 驚きとともに、可能性を感じましたね。

――可能性ですか?

河田 ええ。会社のマネジメントはダメでも、社員である技術者の意識は非常に高かったんです。現場監督は、社長の代理として、大きいプロジェクトを動かしていました。「この人たちは本当にすごい」と思いました。

建設会社で働く人々は、本当に世の中のため、人様のためを思って仕事をしている。リクルートや銀行には、これほどまでの想いを持って仕事に打ち込んでいる人間はそうはいませんでした。

現場代理人として、会社を代表して部下や職人さん達を束ね、意思決定をする。最後は、自分が責任を取る覚悟でモノをつくっている。災害が起きれば、いの一番で現場に駆けつける。そういう高いマインドを持った現場監督が何人もいたわけです。「現場監督って、本当にすごいな」と思いました。

加和太建設には、マネジメントの仕組みはない。しかし、現場監督などの社員一人ひとりはすごく優秀。だから「地域建設業にはものすごく可能性があるのではないか」と感じたわけです。そこで、父親である社長に「建設業を自分の将来の仕事としていきたい」と自分の思いを伝えました。加和太建設に入社して2年目のことです。

――加和太建設に戻ったときの役職は?

河田 平社員でした。社長からは「新規プロジェクトを立ち上げろ」と命じられて、それを進めていたのですが、最初の頃は仕事に身が入りませんでした。でも、現場監督のすごさなどに触れているうちに、どんどん建設業に魅了されていきました。2年目に「建設業を自分の仕事にする」と決めたんです。

新規プロジェクトを立ち上げるよりも、建設業を再生する方がずっと世の中のためになるし、成功する可能性も高いと考えるようになりました。そのため、社長である父親に「建設業は可能性のある産業だ、社員一人ひとりの能力も高い。絶対にチャンスがある。自分に建設業をやらせてほしい」と頼みました。それから、新規プロジェクトではなく、会社のマネジメントのこと、建設業のことをやり始めました。

――社員の高い能力に魅力を感じたんですか?

河田 そうです。それと、マネジメントの仕組みがほとんどなかったので、手を入れやすいということにも魅力を感じました。ちゃんとした経営の仕組みを入れれば、社員の能力は高いので、「いくらでも会社を成長させられる」と感じました。「どれだけ成長させられるんだろう」というワクワク感です。

――河田社長がそれまで建設業に染まっていなかったからこそ、そういう発想に至ったということは言えますか?

河田 それもあったと思います。私は、リクルートなど比較的元気な会社にいたわけですが、リクルートと比べても、マンパワーは全然劣っていないと感じました。建設業を知らなかったからこそ、それに気づけたという面はあったと思います。

民間建築で知名度を上げる「社内改革プロジェクト」

――建設業で何を始めたんですか?

河田 まず会社のビジョンをつくることからスタートしました。ですが、そもそも「会社になぜビジョンが必要なのか」という説得から始めなければいけませんでした。当然、社長をはじめ、役員や部長にもきちんと理解してもらった上で、進めなければなりません。

そのため、人事システムなど会社マネジメントの仕組みの導入も含めたプロジェクトを立ち上げたい。そのプロジェクトを運営する事務局は、私にやらせてほしい。プロジェクトの事務局として、オブザーバーとして役員会議にも出席させてほしいとお願いしました。そういうカタチで、プロジェクトを進めていきました。

――経営コンサルタントのような感じ?

河田 いえ、私自身はただの平社員でしたし実績もなかったので、そこまでの発言権はありませんでした。父親もそこまで私を信用していたわけでもなかったので。私がしたことは、外部のパートナー候補を何社か選んで、コンペして、経営陣に決めてもらうということでした。そうやって組織変革をスタートさせました。実質的には、私が主導するプロジェクトでしたが、形式的には私は完全な裏方でした。

その後、会社の新しいビジョンが決まって、制度ができて、事業戦略が決まっていきました。戦略が決まった頃に、私は営業課長みたいなポストに就き、営業活動、採用活動を始めました。やっと具体的に動き始めたわけです。ここまで来るのに5年くらいかかりました。ここからが本当のスタートでした。

新しいビジョンと制度ができ、事業戦略も明確になったので、私自身、営業や採用の部分で積極的に動けるようになりました。「こういう事業をやるので、こういう人がほしい」という採用活動を行いながら、営業もやっていました。営業は結果を残さないといけないので、民間建築をメインにして必死でやりました。5年間ほど営業と採用の両輪でやっていました。

――リクルートで培った営業ノウハウを駆使された?

河田 できる限りのことはやりましたが、当時の加和太建設は知名度もブランド力などもなかったので、まずは「見積りさせてもらえるかどうか」というところで、四苦八苦していました。見積った内容を検証しながら、だんだん勝率を上げていったという感じでした。受注した工事については、「こういう情報発信をしよう」「こういう顧客価値の提供をしよう」などの戦略をそれぞれ立てて、きちんとそれを実行しながら少しずつ名前を売っていきました。

――公共工事よりは、民間の建築工事を伸ばす戦略だったんですね。

河田 ええ。公共土木工事は安定的な収入源としては残しながら、民間の建築工事、土木工事を成長させるというのが、メインの戦略でした。公共土木をやっている社員は「自分たちの仕事をもっと多くの人に知ってもらいたい」と本質的には思っていますし、「自分が働いている会社のことを地域の人が誰も知らないこと」に対する寂しさも持っていました。

他ならぬ私自身、かつては、父親の仕事について全く知りませんでしたし、父親の仕事を継ぎたいとも思っていませんでした。それを考えると、社員の家族も、彼らの素晴らしい仕事を知らないのではないか。それは残念なことだと思っていました。

建築の仕事を伸ばし、加和太建設の知名度が上がっていくことによって、土木にも光が当たるという構図をつくるという戦略がありました。民間建築の営業に力を入れたのには、そういう意図もありました。


「今だったら、絶対採用しないからな」

――社員数をかなり増やしたんですよね。

河田 そうですね。私が入社した頃は、社員数60名弱でした。今は270名ほどです。採用を始めたと言うより、募集を始めたというのが正しい表現です。最初の頃は、実績がないので「誰でも良いから採用した」という感じでした。建築土木の技術者ではなく、主に民間建築や不動産などの営業マンとして、大量に採用し始めました。

――「誰でも良い」というのは採用担当者としての考え?

河田 いいえ、違います。必要な人数に対して、応募が少なかったので、選ぶ余裕がありませんでした。今では考えられないような採用のやり方です。当時採用した社員には「今だったら、絶対採用しないからな」と言っています(笑)。

ただ、当時はとにかく頭数が必要でした。例えば、不動産店舗を出店するのには4名は必要、ある営業エリアをカバーするのに3名は必要、という状況でした。人の穴を埋めるために必要に迫られていたのです。

――今はそんな採用はしない?

河田 もちろんです。昨年度は、約600名の応募のなかから、正社員とパート合せて、年間約60名を中途採用しました。また今年度は、約200名の応募のなかから、20名を新卒採用として選んでいます。

――昔から毎年数十名規模の採用を続けてこられたのですか。

河田 私が採用を始めたのが2006年度ですが、社員数で見ると、2008年度には98名に増えています。2年間で40名ほど増えています。その後の数年間は社員数はあまり増えていません。毎年30〜40名採用しましたが、その分辞めていったからです。入っては辞め、入っては辞め状態で、壮絶な人の入れ替わりがありました(笑)。

特に新卒がひどくて、3年経つとほとんどが辞めてしまい、1名ずつほどしか残っていませんでした。2014年度くらいから、やっと人が残るようになりました。最近の退職率は5%程度です。

JR三島駅近くにある加和太建設本社社屋。建替えの計画が進められており、完成は2年後の予定。プロジェクトメンバーは、様々な社屋の視察なども行い、多くの社員がこのプロジェクトに関わっている。

――土木、建築の技術者の人数の推移は?

河田 土木の技術者は、2007年度に40名程いました。今は39名程です。建築の技術者は2007年度に8名程度、今は49名です。土木技術者の数はあまり増えていませんが、仕事量も増えていません。

何より、当時は高齢の社員が多かったですが、彼らが退職してそこに新しく若い人が入り、土木技術者はかなり若返っています。一方、建築の技術者はかなり人数を増やしました。それだけ仕事量が増えたからです。

ただ「モノをつくりたい」だけの人は、ウチはいらない

――公共と民間の仕事の割合は?

河田 建築は民間が8割を占めています。最近は力がついて、公共の建築の仕事も増えています。土木は公共が9割です。

――土木、建築の技術者の採用、育成について、どういうお考えで進めているのですか?

河田 加和太建設が、土木や建築などの「モノをつくるチカラ」を結集して何を実現しようとしているのかというと、われわれのマーケットである静岡県東部を「世界が注目する元気なまちにする」ということです。建築や土木などの事業は、そのためにあるということを強いメッセージとして情報発信しています。

従って、ただ「モノをつくりたい」という技術者は、加和太建設ではなく、他の会社に行った方が良いと考えています。加和太建設では、モノもつくりますが、「元気なまち」のためにつくるのです。ものづくりは手段であって、目的ではありません。

現場監督をやっている社員には、「ブロデューサーとしてのチカラをもっと身につけてほしい」という話をしています。現場監督という仕事は、もともと「現場のプロデューサー」なのですが、そういう能力を工事現場以外のところでも発揮してほしい、という意味です。

土木の仕事ばかりやっていると、その現場監督は自分の能力を「土木構造物をつくるための能力」としか認識できなくなってしまいます。その能力を他に転用できなくなります。それはもったいない。せっかく加和太建設にいるのだから、工事現場以外の他の世界のことも知って、プロデュース能力を高めてほしいという思いがあります。

建築土木の技術者を採用する際には、他の世界のことにもチャレンジしたいという気持ちがあるかどうかが、非常に大きな判断材料になります。「モノだけつくって喜びを感じたい」という人がいた場合には、「それだけでは加和太ではやっていけないよ。だって、ウチの仕事はもっと大変だから」と言います。

加和太建設では、モノをつくった結果、それにどんな意味があって、誰が喜ぶのかなどを実感するために、学びや振り返りなどをとことんやるからです。

その上で、「人として成長するためには、モノをつくるだけで良いの?他のことにもチャレンジした方が成長できるのでは?」という話をします。それでワクワクしない人は、加和太建設で働いたとしても、ただただ「面倒くさいな」と思うことが増えるだけです。

技術者としての成長は大事ですが、それに加えて、社会人としてどこに行っても通用する人材になりたいかどうか。チャレンジする気持ちがあるかどうか。私は、技術者を含め、人を採用する上で、そこを重要視しています。

加和太建設には、成長する意欲、チャレンジ精神が旺盛な人が合っていると思います。あとは、「この人と一緒に働きたいかどうか」ですね。私が人を見るポイントは、だいたいそんなところです。

建築、土木の事業部からは、「とにかく人手がほしい」という要望が上がってきますが、私は「モノをつくりたいだけなら、他の会社に行った方が良いよ」という話は必ずします。それで入社するのは、内定を出した人のうちの半分くらいです。「大手さんじゃなくて、ここでしかできないことがしたい」と言って入社するのは。


現場監督しかできないのは、もったいない

――プロデュース能力とは、物事を俯瞰してみる能力という意味もありますか?

河田 そうです。何人かの現場監督を見ていて、「もったいないなあ」と思うこともあります。ある現場ではしっかりマネジメントできるのに、別の現場に入ると、急に何もできなくなることがあるからです。現場は完璧にマネジメントできるのに、会社組織のマネジメントはできないというパターンもあります。「なぜできない?俯瞰して見ていないから、自分のスキルなどをちゃんと言語化できないのだな」と感じるわけです。

加和太建設では、新入社員の研修として、イベントを開催することにしています。社員は、総務、不動産、施設運営、建築、土木などの事業部ごとに採用枠が分かれているのですが、イベントを開催するときには、土木部の新入社員がリーダー的な立場になって、イベントを推進していくケースが多いです。工程管理したり、人に仕事を振ったり、「がんばろうぜ」とハッパをかけたりするのが上手です。

ところが、研修のときには素晴らしい働きをしていた社員が、入社10年経っても、全然成長していないという現実もあるわけです。通常の現場仕事は問題なくこなすのですが、新しいプロジェクトをやろうと思って、いろいろな事業部から人を集めたときに、かつてのようなリーダー的な動きができないことがあります。

今はまだ模索中の段階ですが、再現性をもたらすために、抽象化させたり、言語化させたりする教育システムをつくっていこうと考えています。

今は建設会社も、トップだけが正解を持っている時代ではない

――地域建設業をどう見ていますか?

河田 地域建設業の会社の中には、私と同じ団塊ジュニアの世代の経営者の方々がいます。そういう方々は「地域建設業は今のままではいけない」という思いが強い方が多いように感じます。私は「そこに可能性がある」と思っています。

ただ、彼らの上には、団塊世代の先代社長などがいて、うまく接することができずに、もがいている状況も見受けられます。先代社長などが元気なうちに、「失敗しても良いから、彼らにチャレンジさせてあげれば良いのに」と思っています。

私がチャレンジできたのは、父親が元気だったからです。「失敗しても、もとに戻せる」という逃げ道がありました。加和太建設をもとの状態に戻したら、成長しないまま、緩やかに衰退していくだけかもしれませんが、少なくとも、急激に衰えることはないだろうと。団塊世代がさらに高齢化して、もとに戻せなくなったら、チャレンジもできなくなります。

地域建設業の社長の中には、どう経営したら良いかわからないなかで、それを口にできない人は少なくないと思っています。この10年間、建設業界はあまり変化していませんが、世の中は、ものすごく変化しています。この間に、会社の中に新しいことが起きていないということは、かなり後退しているはずです。

地域の建設会社は、そこをもっと意識しないといけないのではないかと思っています。そのことは、建設業界ばかり見ていると難しいと思います。建設業界の外では、昔とは全く違う仕組み、慣習などが生まれています。それなのに、建設会社だけ変わらないのであれば、そこで働いている社員にとっても不幸です。

世の中の変化は意識していても、どう対応して良いかわからない建設業の経営者も少なくないと思います。経営者の中に正解がなくても、変化していく世の中に対応するため、社員と一緒に歩みを始めるだけでも良いと思います。今は、トップだけが正解を持っている時代ではありません。昔はそうでしたが。今は社員にも「甘えれば良い」と思うんです。


「このまちが好き」の熱量を高めるための拠点づくり

――「地方を盛り上げさらには日本を変える」というスローガンを掲げていますが、狙いは?

河田 地域を活性化するような地域建設会社が生まれれば、その地域は絶対に元気になる。地域を元気にする地域建設会社が全国各地にできれば、日本全体が元気になる。この言葉には、そういう思いが込められています。それが実現すれば、地域建設会社のイメージも変わります。

建設業という言葉を聞くと、「建設業って、まちづくりする産業だよね」と。地域を元気にする地域建設会社が増えれば、地域建設業に対する人々のイメージも変わります。

今年1月にオープンした「みしま未来研究所」。もともと幼稚園舎だった建物をコワーキングスペースや多目的スペースなどに改装した。カフェではクラフトビールも楽しめる。

地域建設会社は、昔から地域で大きな役割を果たしてきました。これといった産業もない地方では、建設業は花形産業でした。優秀な人材がいて、お金も情報も集まり、様々なネットワークも持っていました。それだけ恵まれた産業なのに権利ばかり主張している。

そうではなくて、地方の建設会社一社一社が、まちを良くするために、自分たちができることは何なのか、新たなマーケットを作るために何ができるか、ということを真剣に考えなければなりません。それは大きいことでなくても、全然良いと思います。何か行動を起こせば、それがマーケットを潤わせ、人を集めるきっかけになると思っています。

――集客施設の建築、運営なども手がけていますが、狙いは?

河田 加和太建設のすべての取り組みは、「静岡県東部を元気なまちにすること」に集約されます。「大社の杜みしま」や「みしま未来研究所」も、そのために戦略的に実行したプロジェクトです。

元気なまちにするには、そこに住んでいる人々がまちを好きにならなければなりません。「好き」の熱量を高めるためには、「このまち良いよね」と思える魅力的な場所、拠点が必要だと考えています。デザイン的にオシャレで、いろいろな活動や体験ができ、人と出会い、思い出づくりにもなる場所が。それが「大社の杜みしま」や「みしま未来研究所」などをプロデュースする狙いです。

三嶋大社近くにある「大社の杜みしま」。例年40万人程が訪れている

――東京やベトナムにも拠点をお持ちですが。

河田 東京の拠点には、二つの意味があります。一つが、投資の原資を稼ぐことです。やはり、東京には「お金がお金を生む世界」があるので。東京で稼いで、三島に投資するという戦略があります。

もう一つが、お金だけではなくて、最先端の情報、事例などをいち早くキャッチしたいという狙いがあります。東京のオフィスには、カフェを設け、コワーキングスペースとしてもいろいろな人々との交流の場としての機能を持たせています。交流を通じて得られた情報、アイデアなどを三島のまちづくりにフィードバックする狙いもあります。

「大社の杜みしま」運営スタッフの大塚徹さん。店舗運営経験が豊富で「河田社長と一緒にまちづくりをしたい」という思いから入社。「地元ブランド、地元の良さを地元の人に伝えたい」と意気込む。

ベトナムのプロジェクトに関しては、もともとは「建設業として、人口が伸びているマーケットで勝負したい」ということがきっかけです。加和太建設のビジョンができる前から動いていたプロジェクトでした。

現在は現地起業家の育成支援プロジェクトを展開しています。ベトナムの産業発展に寄与するため、途中でプロジェクトの目的をガラリと変えました。現地でいろいろ調べてみると、若い人を中心に、起業家熱が非常に高いということがわかり、「彼らを支援したい」と思うようになりました。現地に拠点を設けて、起業を支援することにしました。

ベトナムや日本の金融機関と業務提携し、現地情報に関するセミナーなども行ってきました。我々の情報をもとに、現地に進出した日系企業もあります。その会社から「加和太建設さん、工事もやって」というお話をいただき、現地で施設建築工事も行いました。結果的には、建設会社としても今はやっています。

――ベトナムの事業をやっているのは、どういう方ですか?

河田 私の大学の同級生で、元新聞記者です。「建設業はやらなくていいよ」ということで送り出したのですが、彼なりに現地でのネットワークを構築していくうちに、金融機関などから「建築の仕事をやって」という依頼が来るようになりました。現地で建築工事を担当したのはもともと土木の人間でしたので、最初は本当に大変でした。

――加和太建設が開発したクラウド型建築施工管理支援システム「インパクトコンストラクション」を担当している川合弘毅 ・ITI事業部取締役も大学の同級生ですよね。

河田 そうです。大学の頃から「川合と一緒に何かやりたい」と思っていました。私が誘って、加和太建設に来てもらったのですが、とくに「何をしてほしい」ということはありませんでした(笑)。

クラフトビールを片手に、談笑する河田社長と川合取締役

私はもともと起業するつもりだったので、加和太建設に戻る前から、ずっと「一緒に働こうよ」と誘っていたんです。加和太建設で営業と採用をしていた頃に、かなり大変だったので、「ちょっと助けて」ということで、川合に来てもらいました。総務とか採用とか、バックオフィスをお願いしました。


人の喜ぶ姿が自分の喜び

――仕事を楽しんでいるようですね。

河田 そうですね。ものすごく楽しみながらやっています。もちろんイライラすることもありますけど(笑)。

――仕事で嬉しかったことは?

河田 些細なことかもしれませんが、今年から新しい給与体系にしました。その結果、ある社員の給与がグーンと上がりました。その前は、その社員はかなり低い給与で頑張ってくれていたんです。その社員から「自分の仕事を見ていてくれて、本当にありがとうございました」と言われました。

そして、「実を言えば、前の給料のときは、彼女に生活を支えてもらいながら、仕事をしていました。給料が上がったので、彼女と結婚することにしました」と言われたのです。それを聞いて、「良かったなあ」と感動しました。本当に嬉しかったですね。

プロジェクトが成功するとか、会社の利益が上がるとか、そういうことももちろん嬉しいのですが、社員が成長するとか、社員が喜ぶ姿を見るとか、そちらの方が嬉しいんですよね。社員が頑張っているのを見ると、最高に嬉しいです。社員が感動する様子に、自分が感動することもあります。

もともと土木の技術者だった人たちに、民間建築を行うまちづくりに参加してもらったことがあります。「大社の杜みしま」のプロジェクトです。その後、メディアにたびたび取り上げられることもあり、かなり話題になりました。

あるとき、プロジェクトに参加した土木技術者の一人から「入社10年目で初めて、親戚から良い会社に行ったね、と言われたんですよ。俺、嬉しかったです」と声をかけられたんです。それを聞いて、私自身、本当に感動しました。

――「サービス精神」が旺盛なんですね。

河田 「サービス精神」ではないとは思います。確かに、人が喜ぶのを嬉しく思うところはありますが。やっぱり「人が好き」ということでしょうね。人が好きで、期待をかけている人間が成長し喜ぶ姿を見るのが心から嬉しいです。そういうことに喜びを感じられる自分で良かったとは思いますね。

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すっげ

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基本的には従順ですが、たまに噛みつきます。
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