建設業はダメな産業?会社はダメだったが、現場監督はスゴイ!
――加和太建設に入って、どうでしたか?
河田 会社の体を成していないと思いました。会社のマネジメントができていませんでした。人事評価はないし、決裁ルートも明確ではありませんでした。
――どんぶり勘定とか?
河田 いえ、コスト意識は高かったので、見積、実行予算、発注、その辺りはしっかりとやっていましたね。ただ、意思決定、学習、教育システム、採用、評価制度といった会社をマネジメントする仕組みがありませんでした。
――驚いた?
河田 驚きとともに、可能性を感じましたね。
――可能性ですか?
河田 ええ。会社のマネジメントはダメでも、社員である技術者の意識は非常に高かったんです。現場監督は、社長の代理として、大きいプロジェクトを動かしていました。「この人たちは本当にすごい」と思いました。
建設会社で働く人々は、本当に世の中のため、人様のためを思って仕事をしている。リクルートや銀行には、これほどまでの想いを持って仕事に打ち込んでいる人間はそうはいませんでした。
現場代理人として、会社を代表して部下や職人さん達を束ね、意思決定をする。最後は、自分が責任を取る覚悟でモノをつくっている。災害が起きれば、いの一番で現場に駆けつける。そういう高いマインドを持った現場監督が何人もいたわけです。「現場監督って、本当にすごいな」と思いました。
加和太建設には、マネジメントの仕組みはない。しかし、現場監督などの社員一人ひとりはすごく優秀。だから「地域建設業にはものすごく可能性があるのではないか」と感じたわけです。そこで、父親である社長に「建設業を自分の将来の仕事としていきたい」と自分の思いを伝えました。加和太建設に入社して2年目のことです。
――加和太建設に戻ったときの役職は?
河田 平社員でした。社長からは「新規プロジェクトを立ち上げろ」と命じられて、それを進めていたのですが、最初の頃は仕事に身が入りませんでした。でも、現場監督のすごさなどに触れているうちに、どんどん建設業に魅了されていきました。2年目に「建設業を自分の仕事にする」と決めたんです。
新規プロジェクトを立ち上げるよりも、建設業を再生する方がずっと世の中のためになるし、成功する可能性も高いと考えるようになりました。そのため、社長である父親に「建設業は可能性のある産業だ、社員一人ひとりの能力も高い。絶対にチャンスがある。自分に建設業をやらせてほしい」と頼みました。それから、新規プロジェクトではなく、会社のマネジメントのこと、建設業のことをやり始めました。
――社員の高い能力に魅力を感じたんですか?
河田 そうです。それと、マネジメントの仕組みがほとんどなかったので、手を入れやすいということにも魅力を感じました。ちゃんとした経営の仕組みを入れれば、社員の能力は高いので、「いくらでも会社を成長させられる」と感じました。「どれだけ成長させられるんだろう」というワクワク感です。
――河田社長がそれまで建設業に染まっていなかったからこそ、そういう発想に至ったということは言えますか?
河田 それもあったと思います。私は、リクルートなど比較的元気な会社にいたわけですが、リクルートと比べても、マンパワーは全然劣っていないと感じました。建設業を知らなかったからこそ、それに気づけたという面はあったと思います。
民間建築で知名度を上げる「社内改革プロジェクト」
――建設業で何を始めたんですか?
河田 まず会社のビジョンをつくることからスタートしました。ですが、そもそも「会社になぜビジョンが必要なのか」という説得から始めなければいけませんでした。当然、社長をはじめ、役員や部長にもきちんと理解してもらった上で、進めなければなりません。
そのため、人事システムなど会社マネジメントの仕組みの導入も含めたプロジェクトを立ち上げたい。そのプロジェクトを運営する事務局は、私にやらせてほしい。プロジェクトの事務局として、オブザーバーとして役員会議にも出席させてほしいとお願いしました。そういうカタチで、プロジェクトを進めていきました。
――経営コンサルタントのような感じ?
河田 いえ、私自身はただの平社員でしたし実績もなかったので、そこまでの発言権はありませんでした。父親もそこまで私を信用していたわけでもなかったので。私がしたことは、外部のパートナー候補を何社か選んで、コンペして、経営陣に決めてもらうということでした。そうやって組織変革をスタートさせました。実質的には、私が主導するプロジェクトでしたが、形式的には私は完全な裏方でした。
その後、会社の新しいビジョンが決まって、制度ができて、事業戦略が決まっていきました。戦略が決まった頃に、私は営業課長みたいなポストに就き、営業活動、採用活動を始めました。やっと具体的に動き始めたわけです。ここまで来るのに5年くらいかかりました。ここからが本当のスタートでした。
新しいビジョンと制度ができ、事業戦略も明確になったので、私自身、営業や採用の部分で積極的に動けるようになりました。「こういう事業をやるので、こういう人がほしい」という採用活動を行いながら、営業もやっていました。営業は結果を残さないといけないので、民間建築をメインにして必死でやりました。5年間ほど営業と採用の両輪でやっていました。
――リクルートで培った営業ノウハウを駆使された?
河田 できる限りのことはやりましたが、当時の加和太建設は知名度もブランド力などもなかったので、まずは「見積りさせてもらえるかどうか」というところで、四苦八苦していました。見積った内容を検証しながら、だんだん勝率を上げていったという感じでした。受注した工事については、「こういう情報発信をしよう」「こういう顧客価値の提供をしよう」などの戦略をそれぞれ立てて、きちんとそれを実行しながら少しずつ名前を売っていきました。
――公共工事よりは、民間の建築工事を伸ばす戦略だったんですね。
河田 ええ。公共土木工事は安定的な収入源としては残しながら、民間の建築工事、土木工事を成長させるというのが、メインの戦略でした。公共土木をやっている社員は「自分たちの仕事をもっと多くの人に知ってもらいたい」と本質的には思っていますし、「自分が働いている会社のことを地域の人が誰も知らないこと」に対する寂しさも持っていました。
他ならぬ私自身、かつては、父親の仕事について全く知りませんでしたし、父親の仕事を継ぎたいとも思っていませんでした。それを考えると、社員の家族も、彼らの素晴らしい仕事を知らないのではないか。それは残念なことだと思っていました。
建築の仕事を伸ばし、加和太建設の知名度が上がっていくことによって、土木にも光が当たるという構図をつくるという戦略がありました。民間建築の営業に力を入れたのには、そういう意図もありました。
60名弱、普通の中小、、、、
10名弱のうちは零細企業なんだと再確認。笑
すっげ
経営判断は大きい。うちは判断ミスでしくじってる
近くにこういう施工会社があれば転職したいですう
三島周辺を走っていると加和太建設の現場をよく目にする。地域を支えて、企業成長する、良き会社。小さい建設会社が目指すべき方向性を教えてくれる。やはり業界外部の意見が必要。
社長かっこいい
こういうとこなら転職したいけど三島遠いわ
東北にも支店出してくれないかな
自分も同じ境遇で、スケールは小さいながら今までの状況を変えていきたいと考えています。
今がダメではなく、もっと良くなりたいと常に思っております。
まずは、自分が変わり、そして、社員に伝えて会社が変わり、さらには、地域を変えられるようになりたいと考えております。
河田社長の記事をみて、自分も頑張って行こうと思います!
ありがとうございました。
さらなる飛躍期待いたします!
業者を泣かせることで地元では有名ですよ❗
ボンボンには実態が解ってないのが情けないね❗
三島で損害保険の代理店をやらせていただき50年なります最近御社の現場をよく見て関心をもち読ませていただき仕事に対する前向きな態度に感激し微力ながら前向きに頑張らなければと大変は励みになりました
記事ではいくらでもきれいごと言える。8の方が言ってることが実態。おれも地元じゃいい評判の会社に入れたと思ったけど、実態は、ブラックどころか暗黒。隣の芝は何とかってことわざどおり。
毎月80時間以上の残業。
それなのに給料は半分以下しかでない。
遅い時なんか日付またぐことも多々。
やめて正解