“地球の最果て”で活躍する飛島建設の技術者
飛島建設では、1994年から南極観測隊を派遣している。主に、南極での建物の建設や設備の整備、地球環境保全を、建築・土木の面から支え続けてきた。
そこでは、マイナス40℃にも及ぶ過酷な環境の下、日本の常識が通用しない特殊な現場で奮闘する技術者が担う役割が大きい。
地球の最果ての現場は一体どのようなものなのか。日本南極地域観測隊の48次夏隊、50次夏隊として参加した、飛島建設 土木営業統括部 民間営業部長の橋本斉さんに、当時の話を聞いた。
東京ガスに入社も”建設”がやりたくて飛島建設へ
――ご経歴は?
橋本さん 元々、新卒で飛島建設に入社したわけではなくて、昭和58年に函館高専を出て、東京ガスに入社しました。当時は、袖ケ浦や根岸のLNG基地内で地下タンクの建設が進んでいて、土木を勉強してきた者にとっては何となく良いのかなと思って入社したのですが、実際入ったらそういう仕事は担当できず、道路に埋設されているガス管の設計を7年間ほどやっていました。
ただ、7年も同じ仕事をやっていると、学生時代に目指していた“建設”という大掛かりな仕事にトライしたいなという気持ちが強くなってきて。学校の先輩や先生に相談したら『飛島が良いのではないか』と。ちょうどバブルの絶頂期で、建設業にも勢いがあった時代でしたね。
当時は飛島も建設業界7番手くらいの位置にいて、土木に強い会社ということで平成2年に中途入社で入社し、東京支店に配属されました。以降、南極から帰ってからは、民間営業部長として全国にある支店の民間案件を取りまとめています。
――入社後はどんな工事を担当された?
橋本さん 最初の現場は、羽田空港の拡張に伴う羽田モノレールを延伸するための橋脚工事でしたね。その後も、首都高王子線の飛鳥山トンネル、東京都環状八号線のカルバートトンネルなど都市部を中心に現場管理を担当していました。とはいえ、やっぱり都市部なので、ダム建設のような大きな現場は担当してきていません。
その中でも、特に長く携わっていたのは、隅田川や東京湾で行われていた花火大会の現場ですね。これは、観覧する人たちは車道を歩くことになるのですが、緊急用の歩道とこの観覧車用の車道を分離するためのフェンス等を設置する工事で、5年間くらい携わっていました。営業職になる前の最後の現場は、JRの松戸駅付近いある小山浅間橋の架け替えのための仮設桟橋設置工事でした。この現場を最後に南極に行くことになりました。
『明日までに南極へ行くか決めてくれ』
――南極に行くことになった経緯は?
橋本さん 会社から『南極でこういう仕事があるけど、どうだ?』と一本メールがあったんです。しかも、「明日までに決めてくれ」と。ひどいですよね(笑)。
――南極に行こうという決断は、どういう思いでされた?
橋本さん 初めは国際支店に異動かなと思ったんですよ。これは海外赴任だから給料がアップするな、と(笑)。実際は違ったんですけどね(笑)。
後で聞いたんですが、私を含め5人に声をかけて、南極に行きたい人が二人、行きたくない人が二人でした。すごく悩んだのですが、私は『行く人がいなかったら行きます』と回答しました。そうしたら、翌日には『お前に決まった』って。
行きたい二人を差し置いて私に決まったのは、私の想像ですが、先ほど話した私の現場経験から、私があまり規模の大きな現場に従事しておらず、せいぜい4~5人の職員でやれるような現場で、事務仕事の細かいところまで自分でやらなければいけなかったので、そういった調整能力を買われての起用だったのかなと思っています。
――奥さんは反対しなかったんですか?
橋本さん 妻に話したら、私が言い訳がましく話しているように感じたらしいんですよ。『大丈夫かなあ~』とかなんとか言っていたらしくて。でも妻は『結局、行きたいんでしょ?』って問いかけてくれて、それで『あ~オレ行きたんだなあ』って思えたんですね。
だけど、やっぱり危険な場所だっていう気持ちのほうが強くて、先ほどのような回答を会社にしていたんです。私が考える南極観測隊って“探検隊”のイメージが強く『生きて帰ってこれるのかな?』という思いは当然ありましたよね。でも会社の命令ですからね(笑)。

一回目の帰国時。家族に迎えられて
――2回目はどうやって決まった?
橋本さん 会社内に適任者がおらず、国立極地研究所からオファーがあったんです。一度目は勝手がわからないので、昭和基地に着いてから仕事に出戻りが生じてしまうんですよ。でも、過去の経験があれば、事前に状況が把握できることがたくさんあります。特に50次隊にはそういう経験者が必要だったということで、お声がけしていただきました。
感動と憧れ