「奉公明けの解放感」が原動力に
――高校時代は普通科出身ですよね。宮大工になろうと考えたのはなぜ?
相良さん 父が大工だったので、その後ろ姿を見てきたことが大きいですね。高校時代は野球部の部長を務めていたこともあって、野球で食べていこうと思っていた時期もありましたが難しい世界でしたね。
最初は父の仕事を手伝いながら、通常の戸建てを手掛けていたんですが、いつしか日本の伝統建築に魅了され、「宮大工をやろう」と単身京都へ向かいました。その後、京都にある宮大工専門の工務所で修業し、独立して現在に至ります。
当時は物事一つひとつが修行で、10年間は建物を建てさせてもらえませんでした。この修業期間はかなりガマンを強いられましたね。その分、奉公明けには「やっと解放された」「これからはオレがやっていくぞ」という強い決意がみなぎり、糧にもなりました。
――宮大工は徒弟制度が厳しいイメージがあります。
相良さん 昔の徒弟制度は、親方と一緒に住み、仕事と生活を共にします。悪く言えば、その親方から逃れられません。弟子の面倒を見る女将さんもいたりして、相撲の世界によく似ていますね。
また、年功序列制度なのですが、私が20代で宮大工の世界に入った時は会社の中の序列は30番目で…。なかなか上に行けませんでしたね。
初めてノミを持った時の喜び
――しんどかったんじゃないですか?
相良さん 最初はノミすら持たせてくれませんでしたから、そりゃしんどかったですよ。初めてノミを持たせてもらったのは、修行開始から3~4年後。一般大工だったら、もう独立して親方になり、戸建て住宅を建築している頃ですから。
でも、宮大工の仕事をやりたい一心でガマンしました。この期間は掃除と雑用の手元仕事が主で、時間がある時はタガネで刻みをイメージしながら練習をしていましたね。
――生活費はどうされていたんですか?
相良さん 当時の日当は7,000円で、そこからアパート代や生活費、さらには道具代を捻出するので、生活はかなりキツかったですね。
――その分、「ノミを持っていいぞ」と許された時はどうでしたか?
相良さん 喜びはひとしおでしたね。ただ、簡単ではなかったです。ノミを垂直に入れ、まっすぐ掘っていく動きを会得するのは大変でした。
また、カンナ研ぎも難しかったですね。カンナの裏側が鏡のようになっていないと良く削れませんし、長切れもしません。切れるカンナをつくろうと思えば、まず10年掛かる作業です。
――カンナ掛けに10年ですか…。
相良さん その頃は親方も少しずつ仕事を与え、墨付けもやらせてくれるようになりましたが、このあたりでお礼奉公は終わりになります。その後は、工務店に残るか、独立するかなどいろんな道がありますが、私の場合は2級建築士も取得して、独立の道を選びました。