これまでのキャリアや仕事のやりがい
これまでに何度か誌上にご登場いただいた、福岡県県土整備部長の見坂茂範さん(国土交通省から出向)が今年3月末をもって退任。後任に西川昌宏さん(同)という人物が着任した。
西川さんの人品骨柄については、見坂さんからすでに話を聞いており、面白そうな人だと興味を抱いていた。要するに、着任前から取材する気満々だったわけだ。ということで、西川さんのこれまでのキャリアを踏まえつつ、国交省の仕事のやりがいなどについて、話を聞いてきた。
「とりあえず建設省にしておくか」
――なぜ建設省を選んだのですか?
西川さん 学生時代は「カタチに残る仕事をしたい」と考えていたので、なんとなく「ゼネコンに行くのかなあ」と思っていました。「建設省に行きたい」とは考えていなかったですね。怒られるかもしれませんが、公務員試験に受かったので、「じゃあ、とりあえず建設省にしておくか」という感じでした(笑)。
建設省にはプランニングの仕事のイメージしかなかったのですが、「ものづくりの仕事もあるだろう」と思って、建設省にしました。ただ、実際にはプランニングの仕事ばっかりでしたが(笑)。
この当時は、わりと卒業生との話し合いで決まっていました。「お前はココ、お前はココ」という具合に振り分けられていましたね。「お前はコッチに入ってくるな」という感じでした(笑)。
――大学の研究室は?
西川 応用力学・岩盤力学の研究室でした。これもなんとなくの話し合いで決まりました(笑)。どちらかと言うと、ハード系の研究室に行きたかったので、それはそれで良かったんですけどね。
東京電力に揚水発電所というのがあるのですが、岩盤の中に水を貯める空間をつくるための数値シミュレーションなんかをやっている研究室だったのですが、その手伝いみたいな感じで実験を担当していました。
「失敗しても、お前のせいじゃないから」
――建設省に入ってどうですか。
西川 いろいろなことがやれたので、それはそれで良かったなと思っています。本省、関東地整勤務が長いですが、大分県に行きましたし、米国にも行きました。振り返ってみると、新しい仕事を任されることが結構ありましたね。
――これまでどのようなお仕事を?
西川 ほとんど道路畑でした。最初はつくばの土木研究所でした。新交通研究室というところで、新しい交通モードを研究する仕事でした。自動運転とか無人の物流システムといった、ITSの前身のような研究をしていました。
東京外かく環状道路という16kmのシールドトンネル工事の住民説明や環境アセスも担当しました。もともと地元の反対が非常に強かった道路で、1970年に一度建設が凍結され、その30年後に事業が再開された経緯があります。先輩からは「失敗しても、お前のせいじゃないから」と言われて、送り込まれました(笑)。
――米国ではなにをしていたのですか?
西川 米国の研究所みたいなところで、自動運転などITSに関する仕事をしていました。自動運転は、機器も含め、日本だけでつくるのではなく、国際協調しないと、世界では売れません。米国やヨーロッパは、グローバル・スタンダードをつくるために、一緒に行動しています。
私のミッションは、日米欧の三者が集まって情報交換する会議をセットすることでした。会議を通じて、米国や欧州の動きを把握整理し、日本に送るといったことをやっていました。そう言うとスパイみたいに聞こえてしまうかもしれませんが、三者の協調関係をサポートしていたわけです(笑)。
――英語はベラベラですか?
西川 全然ダメです。それでも仲良くなることはできます。なんとかなります。仲良くなっていろいろと教えてもらうことが重要なのです(笑)。
――大分県庁はどうでしたか?
西川 当時は東九州自動車道の大分〜宮崎間がまだつながっていませんでした。大分県庁では道路課長として、国に早期整備に関する要望活動や調整をしました。平成24年7月九州北部豪雨に伴う災害対応も経験しました。
――東京国道事務所ではどのようなお仕事を?
西川 東京国道事務所は23区内を管轄する事務所で、新宿、渋谷、品川、虎ノ門、日本橋の再開発に合わせていろいろなことをやりました。都内の拠点となるまちには、必ずと言って良いほど、直轄国道が通っているので、多くのプロジェクトに関わりましたね。
民間のデベロッパーや鉄道会社などとずっと調整しながらやっていました。新宿ではバスタ新宿をやりましたし、渋谷では国道246号のデッキの整備などをやりました。
――国道事業調整官とはどのような仕事ですか?
西川 県管理を含む国道全般の予算調整です。揉めごとなども上がってくるので、そういうのも調整していました(笑)。